好きな人が隣にいる。だからドキドキする。体育座りの状態で膝を開いたり閉じたりしてみてもドキドキは止まらなくて、むしろこの動きのせいでさらにドキドキが増しているんじゃないかとすら思えてきた。
夕暮れの教室は薄暗くて少し怖い。けど、視界の隅に好きな人が見えて安心した。膝が少し当たったりすると、ドキドキが爆発しそうなくらい大きくなって爆発するかと思った。この鼓動が聞こえていないか、息が荒くなってないか、汗臭くないか、髪型や服装に乱れはないか気になっても確認する方法がなかった。ロッカーのカバンにある手鏡で確認したいけど、それはできそうにない。
夕暮れの教室に呼び出され、もしかしてと期待しながら私は教室のドアを開けた。教室の前のあたりに彼を見つけた私は、いますぐにでも駆け寄って抱きつきたかったけど、我慢した。
したのに、彼はまるで私の気持ちが聞こえていたみたいに手招きした。あくまで私は呼ばれたから来たんだという態度を意識して、「なにか用?」とたずねる。けれど彼はそれには答えず、私の腕を引っ張り「ここに入ってて」と教壇の中に引きずりこんだ。
男の子らしいその強引さにドキドキしつつも、引っ張る力は優しくて、いつもの彼だと分かって安心する。完全に握りこむんじゃなくて、バスケットボールを上手にドリブルするときみたいに少しの隙間を作って私の腕を握ってくれる。そこにもドキドキした。
膝を抱きかかえるようにして、腕に残った感触を確かめていたら、まるでふてくされているみたいになった。慌てて笑顔を意識する。けど教壇の中に入って数分が経過したにもかかわらず彼からなにかされることはない。こちらを向いてすらいない。
夕暮れの教室に呼び出されたからって必ず告白されるわけじゃない。そんなことはわかってる。期待はしてたけど、多分違うんだろうなとも心の隅で思っていたので、そこまでは落ち込まなかった。
これはきっとあれだ。いつもの彼の趣味だ。
視線を床に落とす。何度もワックスがけをした床には、いつかの汚れがそのまま閉じ込められている。指でなぞったりこすったりしてみてもその姿が変わることはない。
さっきより強く膝を抱えた。すると、いつも使っている柔軟剤のにおいがふわりと香った。良かった、汗臭くない。考えことをして落ち着いたのか息も荒くない。口臭はお昼休みにしっかり歯磨きしたから、多分大丈夫。あとは見た目だけ。
教壇から出ないギリギリのところまでにじりよっていくと、黒板の隅にある大きな三角定規に夕焼けがさしているのが見えた。綺麗だけど、私の姿を写すには少し遠い位置にある。
私の姿を写すのは彼の瞳しかないな。
自分で考えておいて顔から火が出そうになった。というか出てるんじゃないか。息が荒くなってないか、今のでまた汗かいたんじゃないか、服装の乱れはどうなのかとまたいろいろが気になりはじめてしまう。
思わず彼をちらりと見た。
彼はただじっと教壇の中から後ろ黒板近くのドアを見ている。
私を見てくれない。そんなこと分かってた。
ただ彼が外を見ているうちは彼の横顔をいくら見ていても怒られないわけで、そう思うとなんだか嬉しいような恥ずかしいような……。
「もうすぐだよ」彼は視線はそのまま、小声で言った。彼の男の子にしては少し高い声が、耳に届く。
もうすぐこの時間も終わりか、そう思うと彼の後ろ姿を抱きしめてしまいたくなる。嫌だ。もう少しだけ……。
そんな私の気持ちもよそに、彼は教壇の中から勢いよく飛び出した。
私は彼に夢中になっていて気がつかなかったけど、教室にはすでに二人の男の子が入ってきていて、取っ組み合いの喧嘩をしているところだった。
私は自分の役割を思い出して、後ろ黒板に小走りで向かいチョークを手にとる。チョークを黒板に当てたまま振り返ると、仁王立ちをしている彼の背中が見えた。
無地のカッターシャツから伸びる腕。腰に手を当て、肩幅に開かれた足。
あぁ、素敵だな。
つい彼に見惚れていたのに気がついてハッとする。が、固まっていたのは私だけではなかったようだ。
とっくみあいの喧嘩をしていた二人はとっくみあいのポーズのまま、ぽかんとした顔をこちらに向けている。
「あ、続けていいよー」彼はまるで、こちらです、と席に案内する店員さんみたいに二人にの手のひらを向けて差し出す。
「続けろって言われたって……」
二人はすっかり気を削がれたようで、互いに胸ぐらから手をゆっくり離す。普段なら綺麗に弧を描いているはずの体操服の首元の青いラインがゆがんでいた。喧嘩をしていた男の子たちは体操服の裾を掴んで下に引っ張って少しそれを直した。
二人は互いの顔を見合わせては、彼を見るのを繰り返す。ついでに私のことも怪しげに見ているのが分かった。
彼がため息をつく。自然なものではなく、聞いた人を多少なりとも苛立たせる、文字通りのはぁーというため息。
「じゃあ何があったのか教えてもらえる?」
二人が口々に、なんでお前に教えなくちゃいけないんだよ、関係ないだろ、とどこか否定的なニュアンスで言うが、彼は「息ぴったりで仲良しじゃん」と微笑んでみせる。
明らかに相手を苛立たせるタイミング。いや、もしかしたらわかっててやっているのかもしれない。
それは効果的だったようで、二人のうち一人が、いらだちを隠さずに、汚い言葉も織り交ぜながら状況を説明してくれた。もう一人も遅れを取り戻すように同じように話す。私はそれらをなるべくマイルドな言葉に変換して後ろ黒板に書いていく。
要約すると、恋の争いだ。どちらも同じ人を好きになってしまったらしい。会話は、どっちが好きかや、どっちが付き合うのに相応しいかといったものに変わっていく。その姿は正直言ってあまりにもダサい。私だってはぁ、とため息をつきたくなるレベルだ。
しかし彼はというと、母親の膝の上で冒険絵本を読み聞かせしてもらっている子どものように、「うんうん! それで?」と先を促している。
あぁ、好きだなぁ……。
と思っていると、彼が振り向いて目が合った。
「ん? なんで手が止まっているの」
「あ……ご、ごめん」
喧嘩している二人のやりとりをなるだけシンプルにまとめていく。互いの名前が分からないし、二人にこれといった特徴も見受けられなかったので、私からみた左をA右をBとして書いていく。
『A:先に出会ったのは俺』『B:僕の方が一緒にいた時間は長い』
『A:バレンタインデーにチョコレートをもらった』『B:僕ももらったが、自分の方が大きかった』
『A:俺はデートをしたことがある』『B:僕は彼女と趣味が同じで、本の貸し借りをしている』
書いていけばいくほど、しょうもないな、と思う。根拠がいくつあっても答えを持っているのは本人のみ。たとえどちらかが好きになってくれそうな要素で勝ったとしても、恋とはそんなもの関係なしに好きになるもの。どちらが先とか多いとかは、もちろん関係するだろうけど、関係ないことだって普通にある。
そもそも二択かどうかも怪しい。彼ら二人と話に出ている女の子の三人は、仲良しでよく一緒にいる。私もそれを見たことがあった。けれど、女の子の方は部活やら、係の仕事やら、それらのグループごとに友達がいる。二人からすれば彼女一択しかなくとも、彼女からすればたくさんいるうちの二人である可能性が高いのだ。
「何をー!」とAがBに向かって拳を振り上げた。私に向けられたわけじゃないのに思わず目を閉じる。パンッというパンチにしては軽い音に恐る恐る目を開くと、彼が間に入って拳を受け止めていた。
「暴力はいけないよ、せっかく口があるんだからさ。ちゃんと話そうよ」
「そんなん言ったって、埒があかねぇじゃねぇか!」
そんなことはないよ、ほら、と私の方を彼は指差す。ドキッとしたけど、私を指差したわけではないのが、私から少しズレた指先と二人の視線が後ろ黒板にあることから分かる。私は書いてあることが見えるように横にずれた。
「君たちは互いを見過ぎ。そしてその割には自分の主張を聞いて欲しいわかってほしい、どっちが強いばかりで、お互いの話を全然聞いてない。ちゃんと自分と相手の会話を読み直してみて」
AB両名は私が黒板に書いた自分の発言を見ている。相手が言ったことに何か言い返そうとAが口を開いたが、Bが止める。Aもそれで気づいたようだ。
「「俺/僕たち二人で争ってても意味ねぇじゃん」」
Aは先手必勝とばかりに教室を飛び出そうとした。Bも追いかけようとしたが、一歩も二歩も遅い。
Aが教室のドアに手をかけようとしたところで、ロッカーから「待って!」と声がした。
AB二人は顔を見合わせる。みるみる赤くなっていくそれすら、まるでどちらがより赤いか競っているようだ。その反応と声が女の子ということから導き出されるのは一つ。
「こうなることだろうと思って、呼んでおきましたー」
彼は両手を彼女に向けてひらひらさせる。彼女が照れ臭そうにロッカーから出てきたが、それは彼が大袈裟に登場させたからだけじゃないのは言うまでもない。
それにしてもいつの間に呼んだのか。私と彼は一緒に教室に入ってきたわけではなくて、私が後だったから必然的にその前になる。けど、そうだとしたらまるではじめからこうなることが分かっていたみたいだ。
「あ、あの……」彼女が言いよどむ。男二人の唾を飲む音が重なって、教室に響いた。誰の耳にも聞こえたはずなのに、誰もそれには触れない。
私までドキドキしてきた。
二人がこの夕焼けの教室が特別なものになるか、灰色の思い出になるかをライトの点滅みたいに何度も脳内で繰り返し再生し、特別なものであってくれと全力で願っているのが伝わってくる。
長い間、彼女は言いよどんでいる。よどむという字のどろどろとした感覚が彼女の口元に集中しているような気がした。そこの空間に手をつっこんで割いて中にある答えを引っ張り出してやりたい。彼女は、私と彼を見つめてはまた下を向き、何やらぶつふつ言うということまで追加した。
「私が好きなのは……」固唾を飲む音が自分からもした。
彼女が私ではなく彼の方を向く回数が増えたからだ。
もしかして、いや違うはずだ、と自分も心の中でお祈りをはじめる。
AもBも彼女の視線をゆっくりとたどっているのが横目に見えた。
「カシオ君!」と彼女はいきなり大きな声をあげたかと思えば走り出した。彼女は私の横を通り過ぎるとき、キッと私をにらんで「柿子さん、私負けないから!」と言ってから教室を出た。
私はとっさに彼を見た。でも、目が合うことなく彼女を追いかけてしまった。
ま、負けた?
敗北感を胸に私は彼女を追いかける彼を追いかける。
けれど、それもすぐに杞憂だったと分かった。彼が走っている理由は、彼女を追いかけるためではなかったのだ。
「待てー! カシオー!」
AB両名が血相を変えて追ってくる。私たちは廊下の角を曲がったところにある、手洗い場の下にうずくまって隠れた。彼、カシオ君の声なき提案だ。私の腕を優しくとって、そうしてない方の手でしゃがむように指示し、意図せず教壇の中と同じになった。
「ちくしょう! どこいきやがった! おい、お前はあっちを探せ。俺はこっちを見てくる!」
「お前とか呼ぶな! けど、分かった!」
バタバタバタと足音が遠くなっていくと、クックックと笑うカシオ君の声がした。無理矢理低くした声は悪だくみをたくらむボスのモノマネのモノマネくらいのクオリティでかわいい。
「やっぱり二人とも仲良いじゃん」
そうだねと返す。私はあえて元気ない様子で言ったのに、カシオ君はまだ笑っていて気づかない。
膝をギュッと抱く。すると、ようやく気づいたカシオ君がどうしたの? と顔をのぞきこんできた。
膝に心臓の鼓動を感じる。汗くさくないだろうか。顔が赤くなってはいないだろうか。
「ねぇ、カシオ君はさ……受けるの?」
「ウケるって、さっきの? いやぁウケたウケた」
「えっ、受けたの! 告白?」
いつどのタイミングで? もしかして彼女が言いよどんでいるときの何度か目があったときのアイコンタクトで?
「あぁ、いや、それは受けないよ」
彼はなぁんだといった顔をして、手刀の形にした手を顔の前で振ってから、
「だって恋愛ってさ。心のバグだもん。悲しいとかさみしいとかつらいとか、心に穴が空いたときに埋めようとする行為だよ」と人差し指を立てて、ときどき小さく振る。
「じゃあ、恋しちゃ、ダメなの?」
「ダメじゃないけど、僕はそこまで興味ないかな?」
そう、なんだ……。私の声は自分でも言ったかどうか微妙なくらいの音量で、この距離でもカシオ君に聞こえたかどうか分からない。
「今はログ子ちゃんと、こうしているほうがいいかな」
カシオ君からの急なうれしい言葉に心は簡単に舞い上がって、連動して体も動いた。そのせいで勢いよく顔を上げて頭を打ってしまう。
大丈夫⁉︎ とカシオ君が大きめの声を出したことで、いたぞー! とAB両名にバレてしまった。
「行こう!」
カシオ君が私の手を取って走る。打ったところは痛いし、上履きが脱げそうになってるし。でも、待ってという声は聞いてもらえない。
あぁ、カシオ君はずるいなぁ。
多分さっきの言葉も、私が思うような意味はなくて、私と一緒にいるという意味じゃなくて、争っている人の前に現れては仲裁することをさしてる。
別にいいんだ。私が自分で書記役を志願したんだし。なんとも思われてなくたって当然だ。いや、ああいうふうに言ってくれたってことは、いてもいいって思われてるってことだし、むしろ喜ばなきゃ。
上履きのかかとを踏んでしまう。跡がついちゃうと、先生やお母さんに怒られちゃうという心配も重なって、頭が真っ白になりそうになるのを、カシオ君が私の手を取って走っているという事実がなんとか食い止めてくれていた。
階段を降りるとき先生に注意されて、ゆっくり歩く。そのときに手も離れて、少し残念だったけれど、かかとを直して、先生が過ぎ去ったのを確認して、二人して走り出したあと、逃げ回っている間中、その感触をずっと思い出していた。
夕暮れの教室は薄暗くて少し怖い。けど、視界の隅に好きな人が見えて安心した。膝が少し当たったりすると、ドキドキが爆発しそうなくらい大きくなって爆発するかと思った。この鼓動が聞こえていないか、息が荒くなってないか、汗臭くないか、髪型や服装に乱れはないか気になっても確認する方法がなかった。ロッカーのカバンにある手鏡で確認したいけど、それはできそうにない。
夕暮れの教室に呼び出され、もしかしてと期待しながら私は教室のドアを開けた。教室の前のあたりに彼を見つけた私は、いますぐにでも駆け寄って抱きつきたかったけど、我慢した。
したのに、彼はまるで私の気持ちが聞こえていたみたいに手招きした。あくまで私は呼ばれたから来たんだという態度を意識して、「なにか用?」とたずねる。けれど彼はそれには答えず、私の腕を引っ張り「ここに入ってて」と教壇の中に引きずりこんだ。
男の子らしいその強引さにドキドキしつつも、引っ張る力は優しくて、いつもの彼だと分かって安心する。完全に握りこむんじゃなくて、バスケットボールを上手にドリブルするときみたいに少しの隙間を作って私の腕を握ってくれる。そこにもドキドキした。
膝を抱きかかえるようにして、腕に残った感触を確かめていたら、まるでふてくされているみたいになった。慌てて笑顔を意識する。けど教壇の中に入って数分が経過したにもかかわらず彼からなにかされることはない。こちらを向いてすらいない。
夕暮れの教室に呼び出されたからって必ず告白されるわけじゃない。そんなことはわかってる。期待はしてたけど、多分違うんだろうなとも心の隅で思っていたので、そこまでは落ち込まなかった。
これはきっとあれだ。いつもの彼の趣味だ。
視線を床に落とす。何度もワックスがけをした床には、いつかの汚れがそのまま閉じ込められている。指でなぞったりこすったりしてみてもその姿が変わることはない。
さっきより強く膝を抱えた。すると、いつも使っている柔軟剤のにおいがふわりと香った。良かった、汗臭くない。考えことをして落ち着いたのか息も荒くない。口臭はお昼休みにしっかり歯磨きしたから、多分大丈夫。あとは見た目だけ。
教壇から出ないギリギリのところまでにじりよっていくと、黒板の隅にある大きな三角定規に夕焼けがさしているのが見えた。綺麗だけど、私の姿を写すには少し遠い位置にある。
私の姿を写すのは彼の瞳しかないな。
自分で考えておいて顔から火が出そうになった。というか出てるんじゃないか。息が荒くなってないか、今のでまた汗かいたんじゃないか、服装の乱れはどうなのかとまたいろいろが気になりはじめてしまう。
思わず彼をちらりと見た。
彼はただじっと教壇の中から後ろ黒板近くのドアを見ている。
私を見てくれない。そんなこと分かってた。
ただ彼が外を見ているうちは彼の横顔をいくら見ていても怒られないわけで、そう思うとなんだか嬉しいような恥ずかしいような……。
「もうすぐだよ」彼は視線はそのまま、小声で言った。彼の男の子にしては少し高い声が、耳に届く。
もうすぐこの時間も終わりか、そう思うと彼の後ろ姿を抱きしめてしまいたくなる。嫌だ。もう少しだけ……。
そんな私の気持ちもよそに、彼は教壇の中から勢いよく飛び出した。
私は彼に夢中になっていて気がつかなかったけど、教室にはすでに二人の男の子が入ってきていて、取っ組み合いの喧嘩をしているところだった。
私は自分の役割を思い出して、後ろ黒板に小走りで向かいチョークを手にとる。チョークを黒板に当てたまま振り返ると、仁王立ちをしている彼の背中が見えた。
無地のカッターシャツから伸びる腕。腰に手を当て、肩幅に開かれた足。
あぁ、素敵だな。
つい彼に見惚れていたのに気がついてハッとする。が、固まっていたのは私だけではなかったようだ。
とっくみあいの喧嘩をしていた二人はとっくみあいのポーズのまま、ぽかんとした顔をこちらに向けている。
「あ、続けていいよー」彼はまるで、こちらです、と席に案内する店員さんみたいに二人にの手のひらを向けて差し出す。
「続けろって言われたって……」
二人はすっかり気を削がれたようで、互いに胸ぐらから手をゆっくり離す。普段なら綺麗に弧を描いているはずの体操服の首元の青いラインがゆがんでいた。喧嘩をしていた男の子たちは体操服の裾を掴んで下に引っ張って少しそれを直した。
二人は互いの顔を見合わせては、彼を見るのを繰り返す。ついでに私のことも怪しげに見ているのが分かった。
彼がため息をつく。自然なものではなく、聞いた人を多少なりとも苛立たせる、文字通りのはぁーというため息。
「じゃあ何があったのか教えてもらえる?」
二人が口々に、なんでお前に教えなくちゃいけないんだよ、関係ないだろ、とどこか否定的なニュアンスで言うが、彼は「息ぴったりで仲良しじゃん」と微笑んでみせる。
明らかに相手を苛立たせるタイミング。いや、もしかしたらわかっててやっているのかもしれない。
それは効果的だったようで、二人のうち一人が、いらだちを隠さずに、汚い言葉も織り交ぜながら状況を説明してくれた。もう一人も遅れを取り戻すように同じように話す。私はそれらをなるべくマイルドな言葉に変換して後ろ黒板に書いていく。
要約すると、恋の争いだ。どちらも同じ人を好きになってしまったらしい。会話は、どっちが好きかや、どっちが付き合うのに相応しいかといったものに変わっていく。その姿は正直言ってあまりにもダサい。私だってはぁ、とため息をつきたくなるレベルだ。
しかし彼はというと、母親の膝の上で冒険絵本を読み聞かせしてもらっている子どものように、「うんうん! それで?」と先を促している。
あぁ、好きだなぁ……。
と思っていると、彼が振り向いて目が合った。
「ん? なんで手が止まっているの」
「あ……ご、ごめん」
喧嘩している二人のやりとりをなるだけシンプルにまとめていく。互いの名前が分からないし、二人にこれといった特徴も見受けられなかったので、私からみた左をA右をBとして書いていく。
『A:先に出会ったのは俺』『B:僕の方が一緒にいた時間は長い』
『A:バレンタインデーにチョコレートをもらった』『B:僕ももらったが、自分の方が大きかった』
『A:俺はデートをしたことがある』『B:僕は彼女と趣味が同じで、本の貸し借りをしている』
書いていけばいくほど、しょうもないな、と思う。根拠がいくつあっても答えを持っているのは本人のみ。たとえどちらかが好きになってくれそうな要素で勝ったとしても、恋とはそんなもの関係なしに好きになるもの。どちらが先とか多いとかは、もちろん関係するだろうけど、関係ないことだって普通にある。
そもそも二択かどうかも怪しい。彼ら二人と話に出ている女の子の三人は、仲良しでよく一緒にいる。私もそれを見たことがあった。けれど、女の子の方は部活やら、係の仕事やら、それらのグループごとに友達がいる。二人からすれば彼女一択しかなくとも、彼女からすればたくさんいるうちの二人である可能性が高いのだ。
「何をー!」とAがBに向かって拳を振り上げた。私に向けられたわけじゃないのに思わず目を閉じる。パンッというパンチにしては軽い音に恐る恐る目を開くと、彼が間に入って拳を受け止めていた。
「暴力はいけないよ、せっかく口があるんだからさ。ちゃんと話そうよ」
「そんなん言ったって、埒があかねぇじゃねぇか!」
そんなことはないよ、ほら、と私の方を彼は指差す。ドキッとしたけど、私を指差したわけではないのが、私から少しズレた指先と二人の視線が後ろ黒板にあることから分かる。私は書いてあることが見えるように横にずれた。
「君たちは互いを見過ぎ。そしてその割には自分の主張を聞いて欲しいわかってほしい、どっちが強いばかりで、お互いの話を全然聞いてない。ちゃんと自分と相手の会話を読み直してみて」
AB両名は私が黒板に書いた自分の発言を見ている。相手が言ったことに何か言い返そうとAが口を開いたが、Bが止める。Aもそれで気づいたようだ。
「「俺/僕たち二人で争ってても意味ねぇじゃん」」
Aは先手必勝とばかりに教室を飛び出そうとした。Bも追いかけようとしたが、一歩も二歩も遅い。
Aが教室のドアに手をかけようとしたところで、ロッカーから「待って!」と声がした。
AB二人は顔を見合わせる。みるみる赤くなっていくそれすら、まるでどちらがより赤いか競っているようだ。その反応と声が女の子ということから導き出されるのは一つ。
「こうなることだろうと思って、呼んでおきましたー」
彼は両手を彼女に向けてひらひらさせる。彼女が照れ臭そうにロッカーから出てきたが、それは彼が大袈裟に登場させたからだけじゃないのは言うまでもない。
それにしてもいつの間に呼んだのか。私と彼は一緒に教室に入ってきたわけではなくて、私が後だったから必然的にその前になる。けど、そうだとしたらまるではじめからこうなることが分かっていたみたいだ。
「あ、あの……」彼女が言いよどむ。男二人の唾を飲む音が重なって、教室に響いた。誰の耳にも聞こえたはずなのに、誰もそれには触れない。
私までドキドキしてきた。
二人がこの夕焼けの教室が特別なものになるか、灰色の思い出になるかをライトの点滅みたいに何度も脳内で繰り返し再生し、特別なものであってくれと全力で願っているのが伝わってくる。
長い間、彼女は言いよどんでいる。よどむという字のどろどろとした感覚が彼女の口元に集中しているような気がした。そこの空間に手をつっこんで割いて中にある答えを引っ張り出してやりたい。彼女は、私と彼を見つめてはまた下を向き、何やらぶつふつ言うということまで追加した。
「私が好きなのは……」固唾を飲む音が自分からもした。
彼女が私ではなく彼の方を向く回数が増えたからだ。
もしかして、いや違うはずだ、と自分も心の中でお祈りをはじめる。
AもBも彼女の視線をゆっくりとたどっているのが横目に見えた。
「カシオ君!」と彼女はいきなり大きな声をあげたかと思えば走り出した。彼女は私の横を通り過ぎるとき、キッと私をにらんで「柿子さん、私負けないから!」と言ってから教室を出た。
私はとっさに彼を見た。でも、目が合うことなく彼女を追いかけてしまった。
ま、負けた?
敗北感を胸に私は彼女を追いかける彼を追いかける。
けれど、それもすぐに杞憂だったと分かった。彼が走っている理由は、彼女を追いかけるためではなかったのだ。
「待てー! カシオー!」
AB両名が血相を変えて追ってくる。私たちは廊下の角を曲がったところにある、手洗い場の下にうずくまって隠れた。彼、カシオ君の声なき提案だ。私の腕を優しくとって、そうしてない方の手でしゃがむように指示し、意図せず教壇の中と同じになった。
「ちくしょう! どこいきやがった! おい、お前はあっちを探せ。俺はこっちを見てくる!」
「お前とか呼ぶな! けど、分かった!」
バタバタバタと足音が遠くなっていくと、クックックと笑うカシオ君の声がした。無理矢理低くした声は悪だくみをたくらむボスのモノマネのモノマネくらいのクオリティでかわいい。
「やっぱり二人とも仲良いじゃん」
そうだねと返す。私はあえて元気ない様子で言ったのに、カシオ君はまだ笑っていて気づかない。
膝をギュッと抱く。すると、ようやく気づいたカシオ君がどうしたの? と顔をのぞきこんできた。
膝に心臓の鼓動を感じる。汗くさくないだろうか。顔が赤くなってはいないだろうか。
「ねぇ、カシオ君はさ……受けるの?」
「ウケるって、さっきの? いやぁウケたウケた」
「えっ、受けたの! 告白?」
いつどのタイミングで? もしかして彼女が言いよどんでいるときの何度か目があったときのアイコンタクトで?
「あぁ、いや、それは受けないよ」
彼はなぁんだといった顔をして、手刀の形にした手を顔の前で振ってから、
「だって恋愛ってさ。心のバグだもん。悲しいとかさみしいとかつらいとか、心に穴が空いたときに埋めようとする行為だよ」と人差し指を立てて、ときどき小さく振る。
「じゃあ、恋しちゃ、ダメなの?」
「ダメじゃないけど、僕はそこまで興味ないかな?」
そう、なんだ……。私の声は自分でも言ったかどうか微妙なくらいの音量で、この距離でもカシオ君に聞こえたかどうか分からない。
「今はログ子ちゃんと、こうしているほうがいいかな」
カシオ君からの急なうれしい言葉に心は簡単に舞い上がって、連動して体も動いた。そのせいで勢いよく顔を上げて頭を打ってしまう。
大丈夫⁉︎ とカシオ君が大きめの声を出したことで、いたぞー! とAB両名にバレてしまった。
「行こう!」
カシオ君が私の手を取って走る。打ったところは痛いし、上履きが脱げそうになってるし。でも、待ってという声は聞いてもらえない。
あぁ、カシオ君はずるいなぁ。
多分さっきの言葉も、私が思うような意味はなくて、私と一緒にいるという意味じゃなくて、争っている人の前に現れては仲裁することをさしてる。
別にいいんだ。私が自分で書記役を志願したんだし。なんとも思われてなくたって当然だ。いや、ああいうふうに言ってくれたってことは、いてもいいって思われてるってことだし、むしろ喜ばなきゃ。
上履きのかかとを踏んでしまう。跡がついちゃうと、先生やお母さんに怒られちゃうという心配も重なって、頭が真っ白になりそうになるのを、カシオ君が私の手を取って走っているという事実がなんとか食い止めてくれていた。
階段を降りるとき先生に注意されて、ゆっくり歩く。そのときに手も離れて、少し残念だったけれど、かかとを直して、先生が過ぎ去ったのを確認して、二人して走り出したあと、逃げ回っている間中、その感触をずっと思い出していた。
