気がつくと、心配そうにあたしを見つめる神田先生の顔があった。うっわ、なんて幸せな目覚め……って、あたしはなんで保健室にいるんだろう?
「リレーの後に、君は気を失ったんだ。命に別状はないから安心してほしい」
あたしの心を読んだみたいに神田先生が口を開く。
「え、あたし、倒れたの?」
全然自覚がないので、ドッキリでも仕掛けられているんじゃないかって気持ちになってくる。だけど、神田先生はドッキリを仕掛けてくるタイプじゃないだろうから、まあ言っていることも本当なんだろうとは思う。
そう言えば、無理してオーバーペースで泳いでいたから、脳ミソから酸素が無くなっていた気がする。
「え? じゃあ……」当然のごとく、あたしはある考えに行き着く。
「もしかして、先生が人工呼吸してくれた、とか……?」
おぼれて気絶した人にすることと言ったら人工呼吸だ。あたしはラッキーで先生をファーストキスの相手にできたのだろうか。いや、それをキスと呼んでいいか怪しいところなんだけど。
「いや、さすがにそれはしないよ」
神田先生はちょっと赤くなりながら言う。かわいい。絶対に照れてる。あたしは意識が薄れているにも関わらず、密かに調子に乗った。
「人口呼吸は、野村先生がね……」
「いやああああああああ!」
「あ、ウソウソ。冗談だ、落ち着いて!」
パニックで絶叫したあたしを、神田先生がなだめる。
「気絶はしたけど、人工呼吸が必要な状態ではなかった。だから君には誰も人工呼吸なんてしていないよ」
「……良かった」
気付けば、涙がこぼれていた。そんなに嫌だったのか、ノムセンだと。遅れてちょっと笑えてきた。でも、
「そういう冗談って、良くないと思います」
あたしは頬をふくらませて怒ってますアピールをする。神田先生もやり過ぎたと思ったのか、ちょっと気まずそうに苦笑いしている。
「あの」
でも、あたしにはもっと話したいことがあった。
「負けちゃいました、水泳」
「……そうだね。でも、よく頑張ったよ」
良くないよ。だって、勝って先生にアピールするはずだったんだから。でも、先生は勝ち負けなんかどうでもいいみたいだった。
「美浜さん、すごくカッコ良かったよ」
「カッコいいって……頑張ってもこのザマですから」
その言葉の通り、あたしは自分がカッコ良かったなんて少しも思えない。その賞賛は一番になった人だけに与えられるべきものだから。
「君を見ていると、尊敬していた人を思い出すんだよ」
「尊敬していた人って?」
「昔にお世話になった人のことだよ。こんな俺を、最悪な状態から引き上げてくれた」
「はあ……」
あたしはちょっと戸惑っていた。珍しいな、先生がこんな風に語りだすなんて。そんな思いも知らずに、先生はちょっとした笑い話でも思い出すみたいに口を開く。
「なんで急にそんな話を?」
「なんでだろうね。一生懸命に頑張る姿が重なったのかな」
先生は何を考えているのか読めない表情でどこか遠くを見ている。思い出、なのかな。その、あたしが思い出させた人の……。
そんなことを思っていると、また先生が口を開く。
「昔は俺も結構な悪ガキでね。学校の先生たちを困らせてばっかりだった」
「え? 神田先生が? 本当に?」
「本当だよ。昔の俺は運動しか取り柄が無いバカでね、高校へも陸上のスポーツ推薦で進学したクチだった」
とても今の神田先生を見ていると信じられないけど、こんなところで嘘を吐いてもしょうがないし、本当ではあるのだろう。一人称も「俺」に変わっているし。
「高校に入った俺は、全国優勝を夢見て陸上に青春をかけてきた」
「スポーツ推薦ってことは、相当すごい選手だったんですね」
「それなりにはね。だけど、ある日ケガをしたんだ。アキレス腱の断裂で、もう陸上はあきらめるしかなかった」
先生はとても切ない顔で遠くを見ていた。
「当時の俺は荒れてね。陸上しか取り柄がなかったのに、唯一の取り柄を失ったんだ。もう何のために生きているのかも分からなかったよ。学校の外でケンカもたくさんした。そんな時に出会った生活指導の先生が、俺のことを助けてくれたんだ」
「それって初日に言ってた、神田先生を助けてくれた先生のこと?」
神田先生と初めて会った時の話を思い出した。先生には憧れて、尊敬していた恩師がいるって。
「そうだよ。その先生が、俺を助けてくれた」
「何ていう先生なの?」
「朝比奈先生……朝比奈佳乃先生っていう、とても綺麗で優しい先生だった」
神田先生は懐かしそうに、でもどこか悲しそうに遠くを見ている。先生が思わず綺麗だなんて言うってことは、きっと本当に美人だったんだろうな。会ったこともないのに、なんだかジェラシーを感じる。
「当時の俺がどれだけ荒れていても、朝比奈先生は俺のことを見捨てないでくれた。ある日になってまた暴れたら怒られてさ、ヤケになった俺は朝比奈先生に『陸上を失った俺なんかに何が出来るんだ』って言ったんだ。そうしたら『どんなことでもいいから一生懸命になってやってみさい。それで見えてくる世界だってあるんだから』って言われた。当時は『何言ってんだこいつは』って思っていたけど、それがきっかけで気まぐれに中学レベルから勉強し直してみたら案外できてね。そこから人生が変わっていったよ」
「そんなことが……」
そんなの、不良マンガの世界でしか見られない光景だと思っていたけど、なんだか先生の言葉には嘘が無い感じがした。
「それでね、ちょっと脱線はしたけど、俺は更生することができたんだ。それで思った。俺も、こんな教師になりたいなって」
先生の目に、うっすらと涙が浮かんでいる気がした。もしかしたら、神田先生もその朝比奈先生のことが好きだったのかなって。そしてその恋は叶わなかったのかな、なんて思う。
なんだか悔しいな。あたしはこんなに神田先生のことが好きなのに。目の前の人を思うと、切なくて夜も眠れなくなるのに。会ったこともない朝比奈先生に、あたしはちょっと嫉妬した。
「今、その朝比奈先生ってどうしているんですか?」
なんとなしに、神田先生にそこまでさせてしまう人がどうしているのか気になった。
でも――
「……朝比奈先生は、亡くなったんだ」
「えっ……」
「女性特有の病気だった。気付いた時には、もうどうにもならない状態だった」
神田先生は少しだけそっぽを向いて顔を拭った。それからまた続ける。
「それもあるのかな。彼女が俺に残してくれたものって何だろうって考えた時に、それって誰かを助けることだと思ったんだ。ほら、今って『人を助けてはいけない』みたいな風潮があるだろ?」
たしかにひどい目に遭っている人がいても関わらない方がいいみたいな考えが主流になっている気がする。
「そんな中で、誰もが愛想を尽かせた中で、朝比奈先生がただ一人俺を救ってくれた。だからこそ、俺も誰かにそんなことがしてあげられる人になりたい。そう思ったんだ」
神田先生の左目から涙の粒がポロっとこぼれる。それを見たあたしも、思わずもらい泣きしてしまった。
流れ落ちる涙を拭いながら、ふと考えがよぎる。
この人は、一体どれだけのものを背負って生きてきたのだろう。それと同時に、あたしはこんな人にちょっかいを出しては誘惑をしようなんてしていたのか。なんだか恥ずかしくなってくる。
こんなの、叶わないよ。一度も会ったことのない朝比奈先生の存在があまりにも大きくて、あたしみたいな存在なんてかすんでしまう。
きっと、あたしが告白なんてしたところで、この先生には何も届かないんだろう。だって、彼の見ている先には、もうこちらの世界から旅立った朝比奈先生がいるんだから。
こんな失恋の仕方ってあるんだろうか。まさか、この世にいない人に負けるなんて。でも、神田先生の心に、ずっと朝比奈先生がいるのは事実だった。きっと神田先生は、今でも朝比奈先生のことが……。
「……ゴメン、ちょっと個人的なことを話し過ぎたね」
神田先生が我を取り戻したように言う。「どうしてこんなことを話してしまったのだろう」という風にうろたえているようにも見えた。
「いいんです。朝比奈先生の話、とっても感動しました。先生もきっとそうなれるって信じています」
気付いたらあたしの方がポロポロと泣いていた。
保健室の引き戸がガラガラっと開く。保険医の先生が目覚めたあたしを見て「え? なんで泣いてるの?」って顔でちょっと引いていた。
「それじゃあ、私は自分の仕事に戻るから。何かあったらまた言ってね」
神田先生は返事を待たずに保険医の先生に挨拶をすると、そそくさと保健室を出て行ってしまった。
「ズルいよ、そんなの」
部屋に取り残されたあたしは一人つぶやく。その小さな声は、真っ白な部屋の空気に混ざって消えていった。
ズルいなんて、誰に向けて言ったものなのだろう。神田先生なのか、それとも会ったこともない朝比奈先生なのか。
今になっても、つぶやいたあたし自身がその答えを分かっていない。
「リレーの後に、君は気を失ったんだ。命に別状はないから安心してほしい」
あたしの心を読んだみたいに神田先生が口を開く。
「え、あたし、倒れたの?」
全然自覚がないので、ドッキリでも仕掛けられているんじゃないかって気持ちになってくる。だけど、神田先生はドッキリを仕掛けてくるタイプじゃないだろうから、まあ言っていることも本当なんだろうとは思う。
そう言えば、無理してオーバーペースで泳いでいたから、脳ミソから酸素が無くなっていた気がする。
「え? じゃあ……」当然のごとく、あたしはある考えに行き着く。
「もしかして、先生が人工呼吸してくれた、とか……?」
おぼれて気絶した人にすることと言ったら人工呼吸だ。あたしはラッキーで先生をファーストキスの相手にできたのだろうか。いや、それをキスと呼んでいいか怪しいところなんだけど。
「いや、さすがにそれはしないよ」
神田先生はちょっと赤くなりながら言う。かわいい。絶対に照れてる。あたしは意識が薄れているにも関わらず、密かに調子に乗った。
「人口呼吸は、野村先生がね……」
「いやああああああああ!」
「あ、ウソウソ。冗談だ、落ち着いて!」
パニックで絶叫したあたしを、神田先生がなだめる。
「気絶はしたけど、人工呼吸が必要な状態ではなかった。だから君には誰も人工呼吸なんてしていないよ」
「……良かった」
気付けば、涙がこぼれていた。そんなに嫌だったのか、ノムセンだと。遅れてちょっと笑えてきた。でも、
「そういう冗談って、良くないと思います」
あたしは頬をふくらませて怒ってますアピールをする。神田先生もやり過ぎたと思ったのか、ちょっと気まずそうに苦笑いしている。
「あの」
でも、あたしにはもっと話したいことがあった。
「負けちゃいました、水泳」
「……そうだね。でも、よく頑張ったよ」
良くないよ。だって、勝って先生にアピールするはずだったんだから。でも、先生は勝ち負けなんかどうでもいいみたいだった。
「美浜さん、すごくカッコ良かったよ」
「カッコいいって……頑張ってもこのザマですから」
その言葉の通り、あたしは自分がカッコ良かったなんて少しも思えない。その賞賛は一番になった人だけに与えられるべきものだから。
「君を見ていると、尊敬していた人を思い出すんだよ」
「尊敬していた人って?」
「昔にお世話になった人のことだよ。こんな俺を、最悪な状態から引き上げてくれた」
「はあ……」
あたしはちょっと戸惑っていた。珍しいな、先生がこんな風に語りだすなんて。そんな思いも知らずに、先生はちょっとした笑い話でも思い出すみたいに口を開く。
「なんで急にそんな話を?」
「なんでだろうね。一生懸命に頑張る姿が重なったのかな」
先生は何を考えているのか読めない表情でどこか遠くを見ている。思い出、なのかな。その、あたしが思い出させた人の……。
そんなことを思っていると、また先生が口を開く。
「昔は俺も結構な悪ガキでね。学校の先生たちを困らせてばっかりだった」
「え? 神田先生が? 本当に?」
「本当だよ。昔の俺は運動しか取り柄が無いバカでね、高校へも陸上のスポーツ推薦で進学したクチだった」
とても今の神田先生を見ていると信じられないけど、こんなところで嘘を吐いてもしょうがないし、本当ではあるのだろう。一人称も「俺」に変わっているし。
「高校に入った俺は、全国優勝を夢見て陸上に青春をかけてきた」
「スポーツ推薦ってことは、相当すごい選手だったんですね」
「それなりにはね。だけど、ある日ケガをしたんだ。アキレス腱の断裂で、もう陸上はあきらめるしかなかった」
先生はとても切ない顔で遠くを見ていた。
「当時の俺は荒れてね。陸上しか取り柄がなかったのに、唯一の取り柄を失ったんだ。もう何のために生きているのかも分からなかったよ。学校の外でケンカもたくさんした。そんな時に出会った生活指導の先生が、俺のことを助けてくれたんだ」
「それって初日に言ってた、神田先生を助けてくれた先生のこと?」
神田先生と初めて会った時の話を思い出した。先生には憧れて、尊敬していた恩師がいるって。
「そうだよ。その先生が、俺を助けてくれた」
「何ていう先生なの?」
「朝比奈先生……朝比奈佳乃先生っていう、とても綺麗で優しい先生だった」
神田先生は懐かしそうに、でもどこか悲しそうに遠くを見ている。先生が思わず綺麗だなんて言うってことは、きっと本当に美人だったんだろうな。会ったこともないのに、なんだかジェラシーを感じる。
「当時の俺がどれだけ荒れていても、朝比奈先生は俺のことを見捨てないでくれた。ある日になってまた暴れたら怒られてさ、ヤケになった俺は朝比奈先生に『陸上を失った俺なんかに何が出来るんだ』って言ったんだ。そうしたら『どんなことでもいいから一生懸命になってやってみさい。それで見えてくる世界だってあるんだから』って言われた。当時は『何言ってんだこいつは』って思っていたけど、それがきっかけで気まぐれに中学レベルから勉強し直してみたら案外できてね。そこから人生が変わっていったよ」
「そんなことが……」
そんなの、不良マンガの世界でしか見られない光景だと思っていたけど、なんだか先生の言葉には嘘が無い感じがした。
「それでね、ちょっと脱線はしたけど、俺は更生することができたんだ。それで思った。俺も、こんな教師になりたいなって」
先生の目に、うっすらと涙が浮かんでいる気がした。もしかしたら、神田先生もその朝比奈先生のことが好きだったのかなって。そしてその恋は叶わなかったのかな、なんて思う。
なんだか悔しいな。あたしはこんなに神田先生のことが好きなのに。目の前の人を思うと、切なくて夜も眠れなくなるのに。会ったこともない朝比奈先生に、あたしはちょっと嫉妬した。
「今、その朝比奈先生ってどうしているんですか?」
なんとなしに、神田先生にそこまでさせてしまう人がどうしているのか気になった。
でも――
「……朝比奈先生は、亡くなったんだ」
「えっ……」
「女性特有の病気だった。気付いた時には、もうどうにもならない状態だった」
神田先生は少しだけそっぽを向いて顔を拭った。それからまた続ける。
「それもあるのかな。彼女が俺に残してくれたものって何だろうって考えた時に、それって誰かを助けることだと思ったんだ。ほら、今って『人を助けてはいけない』みたいな風潮があるだろ?」
たしかにひどい目に遭っている人がいても関わらない方がいいみたいな考えが主流になっている気がする。
「そんな中で、誰もが愛想を尽かせた中で、朝比奈先生がただ一人俺を救ってくれた。だからこそ、俺も誰かにそんなことがしてあげられる人になりたい。そう思ったんだ」
神田先生の左目から涙の粒がポロっとこぼれる。それを見たあたしも、思わずもらい泣きしてしまった。
流れ落ちる涙を拭いながら、ふと考えがよぎる。
この人は、一体どれだけのものを背負って生きてきたのだろう。それと同時に、あたしはこんな人にちょっかいを出しては誘惑をしようなんてしていたのか。なんだか恥ずかしくなってくる。
こんなの、叶わないよ。一度も会ったことのない朝比奈先生の存在があまりにも大きくて、あたしみたいな存在なんてかすんでしまう。
きっと、あたしが告白なんてしたところで、この先生には何も届かないんだろう。だって、彼の見ている先には、もうこちらの世界から旅立った朝比奈先生がいるんだから。
こんな失恋の仕方ってあるんだろうか。まさか、この世にいない人に負けるなんて。でも、神田先生の心に、ずっと朝比奈先生がいるのは事実だった。きっと神田先生は、今でも朝比奈先生のことが……。
「……ゴメン、ちょっと個人的なことを話し過ぎたね」
神田先生が我を取り戻したように言う。「どうしてこんなことを話してしまったのだろう」という風にうろたえているようにも見えた。
「いいんです。朝比奈先生の話、とっても感動しました。先生もきっとそうなれるって信じています」
気付いたらあたしの方がポロポロと泣いていた。
保健室の引き戸がガラガラっと開く。保険医の先生が目覚めたあたしを見て「え? なんで泣いてるの?」って顔でちょっと引いていた。
「それじゃあ、私は自分の仕事に戻るから。何かあったらまた言ってね」
神田先生は返事を待たずに保険医の先生に挨拶をすると、そそくさと保健室を出て行ってしまった。
「ズルいよ、そんなの」
部屋に取り残されたあたしは一人つぶやく。その小さな声は、真っ白な部屋の空気に混ざって消えていった。
ズルいなんて、誰に向けて言ったものなのだろう。神田先生なのか、それとも会ったこともない朝比奈先生なのか。
今になっても、つぶやいたあたし自身がその答えを分かっていない。



