先生、野田君の目が今日も死んでいます

「……野田? おい、どうした? 大丈夫か!?」 

 強い力で抱き起こされて身体が硬直する。深町の声が直接脳内に響いて思わず顔をしかめた。

「あっ! もしかしてアレルギーとか!? ちょっ、すぐ病院に……!!」

 違う。違う、そうじゃない!

 必死に首を横に振ると、頭がくらくらする。頭の中を大量の羽虫が飛ぶような音が響く。意識がどこかに吹っ飛んでいきそうだ。
 出ない声がもどかしく、歪む視界の中で深町の腕を必死で掴み返す。

「……アレ、……ギーじゃ、な……! ……は……っ!! ちが……!!」
「は!? アレルギーじゃないならどうしたんだよ、なぁ!?」
「……はぁ……っ、……耳元、で、怒鳴るな……!」

 声がする方向に適当に拳を振り回すと、どこかに当たった感触と深町の「でっ!」という短い悲鳴が聞こえた。
 自分の身体なのに、思い通りにコントロールできない。陸上にいるのに呼吸すらままならず、涙で視界が滲んでゆく。

「しば、らく……すれば……勝手、に、治る……」

 荒い息の間の切れ切れの言葉を聞きとれたのか、黙り込んだ深町は丸めた俺の背中を抱えるようにしてもう片方の手でそっと撫でた。遠退きそうな俺の意識を繋ぎ留めるかのように、温かくて力強い手の感触。身体を丸めて強く握り締めた自分の両手の隙間から、背中を撫でる深町の手の動きに合わせて呼吸を整えていく。
 どれくらいの時間が経っただろう。
 頭の中で飛び回っていた羽虫が徐々に数を減らし、膝に当たる硬い床の感触が戻ってきて、薄っすらと目を開くとフローリングの継ぎ目のラインに焦点が合ってくる。

 大丈夫。もう、大丈夫だ。

 自分に言い聞かせて、大きく息を吸い込み、長い時間をかけてゆっくりとそれを吐き出した。

「……悪かったな。もう、大丈夫だ」

 起き上がろうとすると、背中を撫でていた手が優しくそれを制止した。

「無理しなくていい」

 深町の声のトーンが落ちて、心配そうに顔を覗き込まれる。

「さっきみたいなあれ、よくなるのか? 急に具合悪くなったように見えたけど」

 俺は表情を読まれないように視線を逸らす。

「あー……。たまーに? でも、じっとしてればすぐ落ち着くし」
「心臓に持病があるとか? 病院とか行ったか?」
「検診引っかかったこと無い」
「そうか。何か怖い病気が潜んでるかもしれないから、詳しく調べてもらった方がいいかもな」

 視線を落とすと自分の両手が小刻みに震えているのが見えた。

 どうしよう。言う?
 俺が今抱え込んでる物、全部吐き出すことができれば楽になれるかな?
 いや、駄目だ。高校生にもなって、身長も追い越した親が怖いだなんて相談するの、ダサ過ぎんだろ。
 ましてや相手は同じ年のガキだ。他人の家庭の方針に手出しするのは限界がある。
 下手に弱みを晒すくらいなら……笑え、俺。なんてこと無かったって、笑い話にしてしまえばいい。

 さび付いた機械のように軋む口角を無理矢理あげてぎこちなく笑顔を作る。

「…………。無駄だよ」
「え?」
「心臓とかじゃなくて、たぶんストレスっつーの? 精神的な問題だと思う」
「精神的……」
「今ネットとかで調べたら出てくんじゃん。俺も最初は心臓病とか考えたけど、症状とか、発作とか、なんか違っててさ」

 喉の奥がきゅっと締まる。無理に笑おうとするのに、声が震えた。

 落ち着け。大丈夫だ。

 努めて明るい声を出す。

「心臓とか悪いわけじゃないし、好きなことやって伸び伸びしてればコロッと治んじゃねーかな。あーあ。いいな。深町んちは。漫画いっぱいあるし親もそういうの理解あるなんて、天国じゃん」
「じゃあさ、野田もいっそうちの子になるか?」
「あはははは! なるなる! それナイスアイデア! 今日から俺深町の家の子な!」

 無理だってわかってるから、笑って言える。絶対に叶わないってわかってるから。

「…………っ……!!」

 不意に脳裏に蘇る親から投げかけられた否定の言葉を、表情を、視線を、肩に食い込む指先の痛みを思い出す。思い出さないようにすればするほど、喉元が引きつり、笑っている顔と混乱する頭とでぐしゃぐしゃになっていく。
 俯くと、視界が歪んでポトリと涙が落下していくのが見えた。

「そりゃよかった。うち姉ちゃんと妹で男兄弟欲しかったから丁度良いや――……って、野田?」

 急に黙り込んだのを不自然に思ったのか、深町が再び顔を覗き込もうとする気配を感じて反射的に手を突っ張る。どこに当たったのかはわからないが、小さくぐぇ、という音が聞こえた。

「っ、見るな!!」
「えっ!? あ、えーと、うん??」

 背中を撫でていた手がそっと離れ、視界の端で深町は正座をしたままフローリングの滑りを利用して律義にくるりと反対方向に向いた。

 ほんと素直だな。こいつ。

 ほっとしつつ、慌てて呼吸を整える。

 大丈夫。見られてなければ、泣いたってノーカンだ。

 さっきの会話を反芻し、大きく息を吸い込み、勢いよく深町の背中に顔を埋める。

「ぐぉっ!? のっ……野田っ!?」

 派手な悲鳴をあげながらも、深町の体幹はこれくらいでは動じない。
 ぶつけた衝撃でじんじんする額を押し付けたまま言う。

「……ほんとに深町の家の子になれたらいいのに。そしたら……親に勝手に漫画捨てられたりすることも無いのに……」
「……え、何だそれ。勝手に捨てられたのか?」

 困惑気味な深町に、唇を噛んで、返事を飲み込んだまま頷く。

「何でそれ早く言わないんだよ!!」

 大きな深町の声にびくり、と肩が跳ねた。突然の声量に驚いたのか、窓越しに近所の家の小型犬の鳴き声が響いた。
 向こうを向いていた深町が振り返る。

「一大事じゃん! あれ野田の教科書なんだろ? 今すぐ取り戻しに行こう!! ゴミステーションの場所は? 今ならまだ収集車間に合うだろ?」
「でっ、でもっ! ……持ち帰っても、また俺がいない間に捨てられるだけだし……」
「ここに運べばいい!!」

 顔を上げると、真っ直ぐな深町の瞳に俺が映るのが見えた。
 漫画を勝手に捨てられたりしない場所。俺の宝物を、ちゃんと大切な物として扱ってもらえる場所。
 あまりにも魅力的な申し出に、思わず息を呑む。

「……いいのか?」

 真面目腐った表情を崩して、に、と深町が笑う。

「一時預かりってことで。俺も読みたい奴あったし。野田が読みたくなったらいつでも遊びに来ていいよ。もちろん持ち帰れる状況になったらいつでも持ち帰ったらいいし」
「……うん」
「よし! じゃ、行くか!」

 言うやいなや、深町は俺の手を取って立ち上がらせた。
 外に出ると、すでに日が落ちて頭上には所々雲で覆われた星空が広がっていた。
 深町は再び俺に自転車を渡して夜道を俺の家の方角に向かって走り始める。

「は!? 何で走るんだよ!?」
「早くしないと収集車もだけど、表紙の絵の綺麗さに惹かれて誰かが持ち帰るかもしれないだろ!」

 どうだろう。俺みたいなオタクが近隣に住んでないとも限らないが……。

「ほら早く! 俺野田んちはわかるけど、ゴミステーションの場所までは知らないんだから!」

 どんどん先へと走る深町の背中が小さくなってゆく。

「……っの、体力バカが!!」

 こいつのペースに合わせてたら筋肉痛確定だ。

 ペダルを踏み込んで深町の背中を追う。

「待てよ深町! こっちは運動部じゃねーんだから手加減しろよ!」
「えー? 何か言ったかー?」
「……バーカ! 深町の脳筋バーカ!!」
「ぅえっ!? 突然の悪口なんでだよ!?」

 ほんと、馬鹿みたいだ。親に自分自身が全否定された気分になってたのも、漫画捨てられたって言えなくて悩んでた時間も。

 街灯の下で口を尖らせる深町に追いつき、肩で息をつきながら逃走防止に深町のシャツの裾を掴む。

「おーい。大丈夫かー?」

 余裕をかます深町の脇腹を、シャツを掴んだ握りこぶしのまま軽く小突くと、ひぅっ! と小さい悲鳴をあげて横に飛び退った。ザマァとばかりに鼻で笑う。
 ゴミステーションに積まれた漫画はありがたいことに手付かずだった。
 手分けして深町の家まで運び込み、本の乾かし方をネットで調べて表面の水分を拭き取ってから深町の部屋にあった図鑑などを重し代わりに乗せて紙の波打ちを防ぎながら乾くのを待つ。雨上がりに直接地面に置かれた分は路面の水分を吸い込んで濡れてはいたものの、その上に重ねられた冊子はほぼ無事だった。