先生、野田君の目が今日も死んでいます

 雨あがりで泥濘む足元の水溜まりを避けて歩き、ブランコの境界柵に腰かけた。公園に植樹されている樹々が夕風に揺れ、時折思い出したかのように葉から零れる雫。雨でしばらく大人しくしていたツクツクボウシの鳴き声が唸るように重々しい。
 暗くなったスマホ画面に映り込む自分の顔を見たくなくてズボンのポケットに戻しかけたところで不意に名前を呼ばれて顔をあげた。

「野田!」

 公園の入り口の車止めに自転車を立てかけた深町は俺を見るなり笑顔で一直線に走り寄ってきた。

「やっぱりここだった」
「……なんで来るんだよ」

 スマホを持ってない方の手で慌てて頬をごしごしと擦る。

「や。たまたま買い出し頼まれてさ。味噌と片栗粉と牛乳とトマト缶。で、近所のより野田の家の近くのディスカウントストアが安いし、画像に映り込んでる遊具何となく見覚えがあるなって」
「……だからってわざわざ来なくてもいいだろ。呼びつけたわけでもねーし」

 深町から来たメッセージに既読を付けてしまったが、返事をする気力も無くて適当に目についた水溜まりに映る虹を撮って返送したんだった。
 泣き顔を見られたくなくて深町から顔を逸らせるが、深町はそんなことお構いなしに隣に腰かける。

「うん。買い出しに出たのはホントだけど、実はちょっと下心あった。さっき野田に借りた本めっちゃ面白くてさ。感想伝えたいけど上手く言葉にできなくて、直接会って話したかった。だからここの滑り台の画像来た時、あわよくば野田がいたらいいなって思って」

 隣で嬉々として話す深町の顔を直視できず、顔を逸らしたまま目を閉じた。

 今そんな話されても素直に感想の共有とかできる余裕無い。
 俺、家族の前でゆっくり漫画読むことなんかできないんだ。お前の家みたいに寛容な親じゃなくてさ。エロい奴じゃなくても漫画ってだけで隠さなきゃ家に持ち込めない。
 なんでうちはあんなに雁字搦めなんだろう。よその家の子の本棚が漫画で満たされているのを見て何度羨ましく思ったことか。

 言いたい言葉は喉の奥にぐるぐると溜まっていくのに、口を開けば羨ましさと妬ましさで黒く淀んだ言葉の羅列を紡いでしまいそうで気の利いた返事の一つも返すことができない。

「なぁ、野田。今からうち来ないか?」
「……行かない」
「さっきの本の感想もだけど、今野田が描いてる本の話とかもしたいし。いつもお邪魔してばっかりだから、たまにはいいだろ?」
「……うるせーな」
「あ、そうだ。良かったらこれ飲むか? 遠慮しなくていいぞ。2本あるし」

 深町はエコバッグから取り出した牛乳を差し出してくる。

「牛乳ロングパックラッパとかしねーし! ってか、しつこいな! 買い出しの帰りなんだろ! さっさと家帰れよ!」
「お。やっとこっち向いた」

 けろりと毒気を抜く笑顔で深町が笑う。

「あ。もしかして牛乳そのまま飲むとお腹下すタイプか? だったらこれも一緒に買ってあるから大丈夫」

 エコバッグから子供だけで作れる牛乳と混ぜるだけのかの有名なフルーツソースデザートのパッケージが登場する。

 何がどう大丈夫なんだか。

「あっ! やべ。トマト缶早くしろって! 行くぞ野田!」

 スマホの通知音に反応した深町に有無を言わさず手を引かれる。振り払おうとするが、元野球部の馬鹿力よ。

「ちょっ……! 行かねーって、おい! 人の話聞けぇ!!」
「早く早く! ほら乗って!」

 半ば引きずられるように公園入口まで連行されて車止めに立てかけてあった自転車のハンドルを握らされる。

「先導するからついてきて! 深町家の夕飯は野田に託した!」
「だから行かねーって! おい! 勝手に託すな! おい!」

 深町は自転車の前籠にエコバッグを入れたまま、俺を置いてさっさと走り始める。

「野田! 急いで! ほら早くー!」
「うるせーよ! この脳筋が!」

 深町の背中はどんどん小さくなってゆく。俺が付いてくると信じて疑わないのか、速度を緩めたり、振り返ったりすらしない。置き去りにされた自転車の籠の中のエコバッグと深町の背中を交互に見つめる。エコバッグには外気温との差でできた結露で濡れて牛乳のパッケージが透けて見えた。

 怒りと諦めの混ざった盛大なため息を一つ。

「…………あああっ! もう!」

 カシャン、と右足の下でペダルが鳴った。慣れない他人の自転車の上に重い荷物が前籠に載っているので一漕ぎ目が左右にちょっとふらつく。深町に追いつこうと立ち漕ぎをすると、遠ざかっていた深町の背中が徐々に近づいてきた。

「待てよ深町! チャリ返すってば! 止まれこら!」

 追い抜きざまに後頭部を叩いてやろうと右手を振りかぶるが、深町は急に角を曲がり、俺の手をあっさりと躱す。

「俺の家こっちなー」
「どゎぁっ!! あっぶね!!」

 予想外の動きに体勢を崩し、派手なスキール音を響かせながらもなんとか自転車を停止させる。籠の中の荷物が時間差でガタガタと振動してハンドルを揺らした。

 ……卵とか割れ物入ってねーだろーな?
 ってかサドルに座ると自転車をかなり傾けないと地面に足が付かねーわ。
 くそ。足の長さの違いか。

「早く早くー! 家まで競争ー!」

 すでに次の角で楽し気に手を振る深町を睨みつける。

 何が競争だ。さっきまでと言ってること違うじゃねーかよ。

 体勢を立て直してハンドルを握り直し、再び強くペダルを踏み込んだ。

「待てよ深町! なんで追いかけっこみたいになってんだよ! ってかお前んちなんて知らねーし、お前が先導するって話だったんだろーが!」

 俺が付いてくるのを確認すると、再び深町が軽やかに走り始める。

「先に到着した方が好きな味選べる権なー!」
「意味わかんねーし絶対それお前の方が有利じゃねーかよ!」

 住宅街を怒鳴り合いながら必死に深町の背中を追う。再び顔を出した夕日に照らされながら、所々に残る水溜まりを弾き飛ばしてペダルを漕いだ。

 結局謎のチェイスの後で表札に『深町』と書かれた家の門柱に手を着いたのはほぼ同着だった。

「……マジあり得ねーわ。……なん、でっ……こんな体育の授業でも、ないのに……」

 笑う膝に両手を付いて息も絶え絶えの俺をよそに、深町は余裕の表情で自転車を受け取って前籠から重量級の荷物が入ったエコバッグを手に取りからからと笑う。

「野田って普段から省エネに生きてるもんな。ま、たまには運動するのもいいだろ」
「……は? 運動ならさっきコンビニまで往復したわ……」
「まぁまぁ、そうおっしゃらず。汗かいたから絶対これ美味いぞ。イチゴとメロンどっちにする?」
「そんなんイチゴ一択だろ」

 せっかくここまで来たんだからそれくらいは食って帰ろう。

「りょー。はぁい。ようこそいらっしゃいませー」
「……。おじゃまします」

 玄関ドアを抜けると、よその家の匂いがした。

「荷物渡してくるから待ってて」
「ん」

 靴箱の上にはディフューザーが載っている。鼻を近づけてふんふんと嗅ぐと、花のような甘い匂いがした。
 廊下の向こうから「トマト缶ここ置いとくよー」「ありがとねー。いやー助かるわー」と深町のお母さんらしき人とのやり取りの後、食器がかちゃかちゃとぶつかり合うような音が聞こえる。

「ごめん。待たせたな。すぐ準備するから上がって。俺の部屋二階ね」

 頷いて深町の後ろに続いて階段を上ると、深町は廊下の一番奥のドアを開ける。
 学習デスクとベッドが置かれた深町の部屋は、意外、と言っては失礼かもしれないが、すっきりと片付いていた。
 そして何より一番に目に飛び込んできたのが、天井まであるぎっしりと中身が詰まった本棚だ。足元の低い棚には大きくて分厚い海洋生物の図鑑や世界地図、歴史図鑑。参考書に教科書、漫画本、ハードカバーから文庫本まで、売り物のように隙間無く整然と並んでいる。

「すげぇ……。お前やっぱ読書家なんだな」
「ああ、うちお年玉を現金じゃなくて図書カードでくれる親戚がいてさ。で、本買ったらついつい捨てられなくて」
「あぁっ!! これ『艦黙』新シリーズの最新刊じゃん!!」

 精緻な機械描写と、ハードボイルドで重厚なストーリー展開が魅力の超大作漫画だ。

「『艦船黙示録』知ってんの!? この前映画化されたの語りたいのに、元のシリーズが古すぎてこれ好きな奴周りにいなくてさぁ!!」
「俺も俺も!! 一番古いシリーズの3巻まで近所の理髪店で読んだんだけど、店長が腰やっちゃって閉業して読めなくなっちゃってさぁ!! でも電子で買うにはシリーズ長いしバイブル化されてんのか古本出回んないし、そも知ってる世代が親より年上だし……」

 深町は勿体付けてこほん、と咳払いする。

「そんな野田に嬉しいお知らせです。父さんの部屋にコミックス全巻揃ってます」
「マ!!? あれ確かシリーズ50巻超えしてなかった!?」
「67巻までコンプ。持ってくるわ。ちょっと待ってて」

 すごいすごい!
 親の部屋にまで漫画置いてるんだ!
 ってかあのシリーズ同世代で知ってる奴初めてだし!

 速足で戻ってきた深町は、側面が日に焼けたコミックスの束をドン! と俺の目の前に置いた。

「とりあえず10冊な。読み返したいかもしれないから1巻から。読み終わったら次の持ってくるから」
「はわぁぁぁ……っ!! いいの!? こんな贅沢!!」
「むしろ読んで!! で、語らせて!!」

 さっそく一巻を手に取って表紙を開く。古い本特有の匂いが理髪店の待合の椅子で嗅いだ整髪料の匂いを想起させる。
 時間を忘れて黙々と一巻を読了した俺は、ありがたく漫画を閉じて至福に顔を緩めた。

「……はぁ。やっぱり凄く良い。何回読み返しても新たな発見がある」
「な。中国史を参考にした例えとか台詞回しが渋いんだよな。はい」

 深町はいつの間にか混ぜ終わってグラスによそったイチゴ風味のデザートを差し出す。シンプルなイチゴミルクカラーの上に濃い色のイチゴジャムがグラデーションを描き、ホイップクリームとミントの葉がトッピングされてさながらおしゃれなカフェスイーツのような装いだ。

「ああ、ありがと」

 口に運ぶと、イチゴの酸味と甘みと共に芳醇な香りが鼻に抜ける。

「ほゎぁぁぁ……!」
「ど? 味大丈夫そう?」
「何これめっちゃ美味ぁっ!!」
「あはは。お気に召したみたいで何より」
「これ食べるの小学生以来だ。……けど、なんかこんな洒落た食べ方してるなんて深町にしては生意気だな」
「なんだ。バレたか。時々姉ちゃんがこんなアレンジして出してくれんの、ちょっと背伸びして真似してみた。普段は牛乳とフルーツソース混ぜるのすら面倒で、パウチから直飲みしてから追い牛乳してる」
「いや、あれ原液はキツくね?」

 冷たくて、甘酸っぱくて、濃厚で。どこか懐かしい味なのに、初めての味。

「美味かったー。ごちそうさま」

 深町は俺の空いたグラスを受け取って二人分トレーに並べた。

「ん。気に入ったみたいで、良かった」
「いいなぁ。深町の家は。おやつもお洒落だし漫画読んでも叱られないし」
「俺は野田の家の方がすっきり片付いててモデルハウスみたいに綺麗で良いと思うけどな」
「うちは部屋散らかすなとか子供っぽいことするなとか、あれこれ締め付け厳しく、て……」

 言いかけて不意に両親とのやり取りを思い出し、言葉に詰まる。そんな俺に気付くことなく、深町はスプーンを動かしながら続けた。

「そうなのか? 部屋に野田専用のPCとか液タブ? とか、なんか高そうな物あったから、何でも買ってもらえる自由主義で裕福なご家庭かと思ってた。うちPCは家族共用か姉ちゃんの古いノートPC頼み込んで貸してもらうかだし」
「裕福かどうかってより、どこに金を使うかの違いだけだろ。うちは深町の家みたいに本が充実してないし、PCは愛梨姉のお下がり。液タブはお年玉と本の売り上げで自分で買った。全然自由なんかじゃない」
「へぇ。すごいじゃん。自分で稼いで買えるって自立してんな。俺部活やっててバイトとかしてなかったから小遣いでやりくりしてるけど全然足りない」

 深町にしれっと褒められて、頬が上気する。慌てて深町に顔を見られないようにぐりん、と顔を反対に向けた。

 すごい、とか、なんの臆面も無く言うよな、こいつ。

 不意にスマホの着信音が響いた。火照った体に冷や水を浴びせられたかのようにびくりと身体を震わせる。部屋の中に陽気な音楽が流れ続けるが、俺が黙り込んで動かないからか深町も無言で動きを止めた。
 相手は誰だかわかっている。だからこそ、今は電話に出たくない。
 着信音が止んだ時、止めていた息を吐き出したことで、呼吸すらできなくなっていたことに初めて気づいた。

 なんで、こんなに。この程度のことで、上手く息もできなくなるんだろう。

 心臓が小動物のように目まぐるしく拍動を繰り返すのに、凍り付いてしまったように指先が痺れて冷たい。苦しくて制服の胸のあたりをぎゅっと掴むが、暴れる心臓が落ち着くことは無い。

 どうしよう。まただ。

 何度も息を吸おうとするのに、陸上で溺れているかのようで。苦しくて涙で視界が滲み、冷や汗がこめかみを伝う。




 苦しい。苦しい。助けて。誰か。