先生、野田君の目が今日も死んでいます

「あー……。ずっと夏休みが続けばいいのに」

 学校から帰宅早々ベッドに倒れ込んで延々と愚痴る。階下から黒豆麦茶が入ったグラスを運んでくれた深町は学習デスクにトレイを置きながら苦笑した。

「夏休みは十分楽しんだだろ? 初日から新学期全否定しなくても」
「こちとらイベントと締切に追われて夏が全然休めてねぇんだよ。日中まだまだ暑いんだからもう少し休ませろっての。あー、くっそ暑ー。深町、エアコンスイッチ入れてー」
「はいはい」

 イベントの手伝いや原稿校正などで夏休み中ほぼ毎日家に遊びに来た深町は、勝手知ったる様子で俺の部屋のエアコンのスイッチを入れた。爽やかな風が体の熱を下げていく。

「野田。お茶は?」
「いるー」
「ん」
「さんきゅ」

 ベッドまで運んでもらったお茶を受け取り一気飲みすると、体の内側からも一気に熱が引いていくのが心地よい。ふぅ、と一息ついてから移動し、PCを起動させる。グラスの中の氷がカラン、と涼し気な音を立てた。

「さ。次のイベントに向けて、原稿やんなきゃな」
「え? もう? この前2回もあったばかりなのに?」
「秋イベに向けて話進めておかないと新刊出せないからな。SNSも更新しないといけないし」

 くぁ、とあくびをしながら液タブ用の手袋を嵌める。

「新刊ってオリジナルの方?」
「そう」
「物語の筋書きとか作るのか? プロット? とかいうんだっけ?」

 小説を読み慣れている深町からはすんなりと専門用語が出てくる。

「あー……うん。そういうの書いておくと便利とは聞くよな」
「野田はやらないのか?」
「短編だし、面倒くさいから直に描き始めることの方が多いかも」
「そんなアバウトな感じでいいんだ」
「アバウトって言うけど、基本は4の倍数ページにするし、過不足は番外編のおまけページで埋めたりする」
「4の倍数って?」
「印刷と製本の都合で大体そうすることになってんの。でかい1枚の紙に4ページ分まとめて印刷して、それ折り畳んで本にするから」

 玄人のように説明するが、全部愛梨姉から教えてもらった知識だ。

「へぇ。好き勝手に枚数決められないんだ。ルール細かいな」

 門外漢な深町は付け焼き刃な俺の説明に素直に感心する。

「俺作業に入るから。いつもみたいに適当に引っ張り出して好きに読めよ」
「ああ。ありがとう」

 深町はイベントの手伝いや校正が早く終わった日には俺が持っている漫画を読むのが日課になりつつあった。本棚に並ぶ一般的な図鑑や教科書とは別に、親に踏み込まれた時対策として漫画はクローゼットを細工して二重底にしてあるスペースに隠してある。深町はすでにそれらを読破する勢いだ。購入したが積み読のままにしている本も少なくない俺より余程熱心に読み込んでいる。
 クローゼットの底板を外しながら背中越しに深町が「そういや今日山居先生に呼び出し食らってなかったか?」と聞いてきた。

「あー。再々試の話でちょっとな」
「再試?」
「再々試」
「……ん? 『再』多くないか?」
「再試落としたから再々試で間違ってねーよ」

 液タブの画面にオリキャラの顔のラフを描きながら適当に答えると、深町はクローゼットの底板を握り締めたまま唾を飛ばさんばかりの勢いで怒鳴る。

「ちょっ……! 何落ち着いてんだよっ!! 再試ってだけでもヤバいのにそれ落とすなんて大丈夫なのかっっ!?」
「っだぁあああっ!! 声でけーよお前はよ!! 室内で屋外運動部の声量やめろ!!」

 鼓膜を突き抜ける声量に思わず耳を押さえた。

「あ、ごめん。いやでも、こんなことしてる場合じゃないだろ! 試験の予定日は? 試験範囲は?」
「うるせーって! 今集中してんだから邪魔すんなよ!」

 深町側の耳を塞ぎながらペンを動かすが、深町も食い下がる。

「とにかく対策しないと! 今再々試ってことは、一学期の学期末の範囲だよな?」
「あああああっ!! もう!! うるさいうるさい!! 帰れバカ町!!」

 椅子に座ったまま深町の足を蹴る。だっ!! と短く悲鳴をあげて足を押さえつつも……いや、この場合バカは野田だろ、と冷静にツッコんでくるあたりなかなか癪に障る。

「とにかく試験対策手伝うから。教科は?」
「うるせーな。天才ならそれくらい当ててみろよ。俺より頭良いんだろ」
「拗ねてる場合か! 真面目に聞けって!」
「今真面目に描いてんだろ! 邪魔すんな! 帰れよ!! 二度と来んな!!」

 さっきより強く蹴りを入れるが、さすが元運動部というべきか、深町は手にしたクローゼットの底板で蹴りを受け流した。タブレット用のペンを持った手を横なぎに払って深町の脇腹を狙うが、それもあっさりと手首を掴んで阻止される。

「野田。ちょっと落ち着けって。話がしたい」
「……手ぇ痛ぇ」
「…………」
「…………」

 互いに暫く睨み合った後で、ため息をついた深町がそっと手の拘束を緩めた。
 俺は舌打ちをして椅子を回転させ、解放された別に痛くも無い手首を反対の手でこれみよがしにさすりながら液タブの画面に向き直る。

「……野田。ちょっと鞄漁るぞ。とにかく試験範囲の確認と対策しないと」

 俺が座っている椅子の背もたれに掛けておいた通学用のデイパックのチャック音が響く。

「おい! 勝手に触んな!」

 振り返って手を伸ばすが、深町は素早く身を躱して黄蘗色の封筒を抜き取った。

「これだよな。前に俺が届けたことがある奴」

 封筒の中の再々試のお知らせに素早く目を通した深町は血相を変える。

「……数学、英語、化学の3教科も!? これ再試でも駄目だったのか!?」
「駄目だったからこその再々試なんだろーがよ。わかったろ。俺はお前ほど頭良くないの。住む世界が違うの。わかったら関係無いお利口さんはさっさと家帰れ」

 深町の手から再々試のお知らせを奪い返し、しっしっ、と手を振る。

「現実逃避してる場合かよ。な、一緒に試験勉強しよ?」
「現実逃避なんざしてねーわ!」
「してるだろ! やらなきゃいけないこと放っぽり出して!」
「俺にとっては試験なんかよりこっちの方がやらなきゃいけないことなんだよ!」
「だからって学校の勉強を疎かにしていい理由にならないだろ!」
「なるんだよ! 高校生の今だからこそ実績を作る必要があるんだ!」

 力いっぱい学習デスクを叩き、噛みつくように言い返す俺に深町は一瞬怯む。

「……深町にはわかんねーよ。親からは『たかが漫画なんて』って読みもしないのに端っからバカにされてる。『そんな物描いても将来何の役にも立たない』『好きな物で食っていけるのは選ばれたほんの一握りの人間で、お前にはそんな才能も無いんだから』って」

 机の引き出しから引っ張り出した紙の束を深町の胸に押し付けた。

「これ……大学に、専門学校のパンフレット? どれも漫画とかデザインとかのばっかり……」

 挑みかかるような気持ちで深町を睨めつける。

「俺は趣味で漫画を描きたいわけじゃない。寝食も忘れて一日中読んでいたいし描いていたい。そのために学びたいし、その手順として親を説得するために俺が描いた漫画で稼いだり賞を取ったりして実績を作る必要がある。他の雑事に時間を割いてる暇は無い」

 深町はパンフレットに視線を落とし、黙り込む。

「……どうせ、お前だってガキくさい発想だって思ってんだろ」

 一方的に言った後で口を尖らせると、深町は首を横に振った。

「ガキくさいだなんて思ってない。……ごめん。野田の事情何も知らないで勝手なこと言った」

 深町は学校案内のパンフレットの表紙をじっと見つめたまま言う。

「俺、自分が将来何やりたいか全然決まってなくて、やりたいことが決まるまでの時間稼ぎで無難に適当な学校に行くことしか考えてなかった。野田みたいに、ちゃんとやりたいこと決めてるって格好良いと思う」

 初めて真正面から肯定され、思わずきょとんと眼をしばたたかせる。

「バカに……しないのか?」
「なんでバカにするんだよ。大人の真似して何もせずに『どうせ叶わない夢だ』って言う奴の方がビビッててよっぽどバカみたいだ。挑戦してる野田は格好良い」

 深町の真っ直ぐな瞳に見つめられ、じわりと頬が熱くなるのを感じた。
 オタクとかガキくさいとかの否定の言葉は散々言われ慣れてきたが、深町みたいな運動も勉強もできる世間一般に見て格好良い奴に格好良い認定される世界線があったとは。

「野田。絶対に夢を叶えて。俺もっと野田の描く話が読みたい」
「っ……!! 恥っ……ずい奴! 夢を叶えてー、とかクッサいセリフ、お前頭ん中お花畑かよ」
「お花……え? あ、そんな恥ずかしいこと言ったか?」
「十分恥ずいわ!」
「えー?? 野田の恥じらうポイントがいまいちわかんねーな」

 緩みそうになる頬にぐっと力をこめて表情を引き締める。本音としては踊り出したくなるくらい嬉しかった。相手が深町ではなく、イベントで出会ったお客様であれば、満面の笑みで両手くらい握ったかもしれない。
 昔から漫画を描いているってだけで同級生にはオタク扱いされてからかわれたりバカにされたり。自然と学校で漫画の話をしなくなり、その分家にいる時間を漫画に費やすようになっていった。のめり込めばのめり込むほど同級生と会話する機会が減少していき、孤立、というほどではないものの、学校という空間に馴染めていないことくらいは感じていた。
 別に趣味の合わない奴らに無理して同調するつもりは無いし、無駄に時間を取られるのも惜しい。そんな暇があるなら少しでも漫画を読みたいし、自分の感情を吐き出すために描きたい。
 他人の意見なんていらないと思っていたのに。なんでこんなに俺が描いた物を読みたいって言われただけで、嬉しくなるんだろう。

「……別にお前に言われなくても、俺は自分のやりたいようにやる」

 深町の顔に、ぱあっと眩しいほどの笑みが広がった。
 ペンを置き、PCの電源を落とす。

「あーあ。やめだやめ。誰かさんのおかげで全然集中できねーわ。コンビニ行ってくる」
「あ、そか。邪魔してごめんな。俺そろそろ帰るわ」

 デイパックの中からスマホを引っ張り出し、底板を元に戻すためにクローゼットに上半身を突っ込んでいる深町の背中に声をかける。

「それ、読みたい奴持ってっていいぞ」
「……え?」
「漫画。あ、貸すだけだからな。読み終わったらさっさと返せよ。あと、絶対に汚すなよ」
「いいの? やった! ゆっくり読んでみたいのあったんだよな」

 深町は小説と漫画を一冊ずつ手に取って嬉しそうに表紙を見せる。

「じゃ。これとこれ借りてくな」
「ああ」

 あえて興味無さそうに返す。

 深町は本のセレクトのセンスが良い。いっても、俺が選んで購入した本だから、俺の趣味に合うのは当たり前のことだけど。
 イベントで俺の介在無く深町自身が試し読みして購入した本も、どれもハズレ無く内容が充実していて面白かった。

「板、元の場所に戻しとけよ」
「こんな感じでいいか?」

 体をずらしてクローゼットの中を見せる深町の肩越しに確認し、頷く。

「よし。出るぞ」

 家の外に出た深町は靴紐を結び直しながら「コンビニって学校近くのとこ?」と上目遣いに俺を見る。

「いや。隣町の。今スピードくじやってる」
「そっか……」

 なんだその残念そうな顔は。

「別に俺がお前を家まで送る必要無いだろ。どうせ明日だって学校で顔合わせるんだし」
「や、ちょっと野田と一緒に歩きながら本の感想話したかっただけ」
「……話くらいならラインでもできるだろ」
「へぁ? あ、でも、野田が集中してる時にうっかりかけたりしたら迷惑だろうし……」
「別に通話でなくてもトーク機能あんだろ。忙しい時は通知オフにしてるから気付かないかもだけど、こっちの都合つく時間に適当に返す分には問題無い」

 俯きがちだった深町の表情が目に見えて明るくなる。

「借りた本読んだら興奮して即メッセ送るかも」
「好きにしろよ。忙しかったら無視するだけだから」
「野田この本読んだ?」
「ああ。それラスト直前のどんでん返……」
「ゎわっ!! っちょ、ネタバラしとかほんとやめろよ!!」
「うるせーな。何で聞いたんだよ。バラされたくなきゃさっさと帰って自分で読めよ」

 深町が体の前で作るバツ印の腕にチョップを振り下ろした。

「あー。そだな。なんか雨降りそうだし、走って帰るわ」

 黒い雲が広がり、暗くなってきた空を同時に見上げる。

「そういや深町なんで徒歩? チャリ乗れねーの?」
「部活辞めて身体なまりそうだからなるべく歩くようにしてる。朝晩も時間があれば走ったりしてるし」
「うへぇ。無駄に体力削るなんて理解できんわ。まぁせいぜい貸した本濡らさないようにしろよ」
「おう! じゃ、また明日な」

 笑顔の深町は手を振ってから、学校の方角へと向けて颯爽と走り出す。
 デイパックを揺らして走る背中に、俺は無言で右手をグーパーさせた。

 また、明日。か。

 姿勢の良い深町の背中が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、自転車に跨り隣町のコンビニを目指す。湿度が増した肌を撫でる生ぬるい風に顔を顰めた。でも雲で遮られて日光が少し弱まっているのでこの時間帯の割には活動しやすい。
 遠雷が聞こえた。急げばコンビニまでは濡れずに辿り着けるだろう。夏の夕立は文字通り土砂降るが、その分雨足が抜けるのも早い。雨粒が巻き上げる土埃の匂いを嗅ぎつけたのか、気の早い蛙がどこかの民家の庭から雨を歓迎する歌を歌い始める。

 ちょっと待て。もう少し、せめてコンビニに到着するまでは降るの我慢してくれよ。

 重く垂れ込めた雲に追い立てられてペダルを踏んだ。じとりと肌を撫でるぬるい風が急に冷たくなったと感じた途端、頬にポツリと雨粒が当たる。

 ヤバいヤバいヤバい。

 立ち漕ぎで目的のコンビニの看板が見える頃には腕や肩を数粒の雨が濡らし始めていた。