先生、野田君の目が今日も死んでいます

 玄関ドアを開くと、ちょうど今から仕事に出かけようとしていた母親と鉢合わせた。
 耳に装着していたイヤホンを片方だけ外す。

「ただいま」
「おかえりなさい。お母さん今から出勤だから。お夕飯冷蔵庫に入ってるから温めて食べてね」
「わかった。いってらっしゃい」

 母親をするりと躱して自室に向かおうとした瞬間、インターホンが響く。

「あら回覧かしら」

 母親が玄関ドアを開ける音を背に聞きながら、俺には無関係とばかりに階段の手すりに手をかけたところで名前を呼ばれる。

「あら。こんにちは。龍之介のお友達? 龍之介。ちょっとこっちいらっしゃい」
「友達ぃ?」

 足止めを食って渋々振り返った俺は、玄関ドアの向こうに立つすらりと背の高い男に目を留める。確かに同じ制服だが、こんな『オトモダチ』知らない。

「僕、野田君と同じクラスの深町と申します」

 いかにもスポーツマンといった体格の深町は、爽やかな笑顔を浮かべて母親に会釈する。

 同じクラスかよ。道理でなんとなく見覚えあるような気だけはしたわ。

「あらぁ。いつも龍之介がお世話になって」

 普段訪ねてくる友人など皆無の俺に、まったく真逆なタイプの友人がいたと勘違いした母親は上機嫌でよそ行きの声を弾ませる。

「龍之介。深町君に冷たいお茶お出ししてあげて」
「えええ……」
「せっかく遊びに来てくれたのに、私今から出勤で。おもてなしできなくてごめんなさいね」
「あ、お構いなく。お気をつけて」
「ありがとう。ゆっくりしていってね」
「……えええ」

 にこやかに会釈を交わす二人には、俺の抗議の声など届かないらしい。
 パンプスの靴音を響かせて母親が出ていき、ドアが閉まった玄関には話した記憶も無い『オトモダチ』が取り残される。

「ごめん、急に。これ、渡しに来ただけだから」

 深町と名乗った男が差し出したのは一通の封筒。受け取って中のプリントを引っ張り出して開くと、『1学期末試験 成績不振者再試験日程』という見出し。

「……んげ」
「江木先生が野田に渡そうと後追いかけてたところにたまたま行き合わせてさ」
「え。学校から走って追っかけてきたの? 俺チャリ通だけど」

 額にうっすらと汗をかいた深町は爽やかに笑って頷く。

「後ろから何回か声もかけたんだけど、聞こえなかったみたいで」
「……あ」

 俺は手の中に転がるイヤホンに視線を落とす。

「じゃ、俺帰るな」と、片手をあげて玄関ドアに手をかけた深町を慌てて呼び止める。

「ごめん。冷たい茶出すから、あがって」
「ああ、気にしないでいいよ」
「でも、俺のせいでわざわざ走らせたんだし」
「あー……うん。じゃ、一杯だけごちそうになろうかな」

 深町は顎にまで垂れた汗を手の甲で拭って笑顔を見せた。
 階段を上がって廊下の奥にある自室のエアコンのスイッチを入れる。むわりと湿った暑い室内に、冷涼な空気がさらさらと流れ始める。

「あー、涼しー」

 エアコンの吹き出し口の真下に立った深町は嬉しそうに目を細めて指先で摘まんだ制服の襟元を揺らした。

「お茶すぐ持ってくるから、適当に座って涼んでて」

 学習デスクの椅子の背もたれに通学用のデイパックを引っ掛け、机の上にさっき渡された再試日程の封筒を放って一階から黒豆麦茶が入ったグラスをトレーに載せて早足で自室へ折り返す。

 さっさと飲ませてとっととお帰りいただこう。

 部屋に戻ると深町とやらは床に大人しく正座をして待機していた。育ちが良いのか他人の部屋を勝手に漁ったりするタイプではないらしい。

「そんなかしこまらなくても、椅子とか勝手に座っててよかったのに」

 フローリングダイレクト正座は拷問だろ。

 学習デスク付属のキャスター付きの椅子を引っ張り出して、座るように勧める。

「ああ。ありがとな」

 椅子に座った深町は、美味そうに喉を鳴らしてあっという間にグラスのお茶を飲みほした。

「美味いなこれ。麦茶? ともちょっと違うような……」
「ああ、黒豆麦茶。今母さんがハマってるらしくてさ」
「へぇ、初めて飲んだ」
「ふーん……」
「………………」
「………………」

 にこにこにこにこにこにこ。

 謎の沈黙。深町の謎の爽やかな笑顔。

 交友関係が広くない俺はこういう時の対処の仕方がわからない。これ何の時間だ?

「……あー、えーとぉ。お代わり、とか、いるか?」
「あ! ごめん! ねだったつもりではないんだ。いや、普段野田とあんまりしゃべる機会ってあんまり無いから、生活感っていうか、そもそも物とか食べてるイメージがあんまり湧かなくて、意外だなーと思って」
「は? 物食べたり飲んだりするのが意外?」
「自覚無いのか? 結構クラスの女子とか騒いでんの。儚げでミステリアス美少年って」
「……そんなの初めて聞いた」

 そも、クラスの女子と喋る事なんて皆無だ。

「野田って教室でも大体寝てるし、放課後とかも気が付けばいないし。あ、部活とかは?」
「やってない」
「ふーん。そっかー」
「………………」

 はい。会話終了。

 手持ち無沙汰にさっき深町から手渡された封筒を手に取り、ラックに収納してあるストレージボックスを引っ張り出して中に放り込む。

 よし。証拠隠滅完了。

「あのさ、悪いんだけど、今からちょっと忙しいから……」
「あ! ああ! そうだよな! お茶美味かった。ご馳走様。じゃ、俺そろそろ帰るな」
「うん」

 良かった。直接的に帰れって言いにくいの察してくれて。

 通学鞄を拾う深町を横目にほっと胸を撫でおろしてストレージボックスを奥に押し込んだ瞬間、ラックが揺れて落ちて来た物が頭に当たる。

「だっ!!」

 何かが弾んで床を転がってゆく音。

 あー。またなんか適当に突っ込んどいたものが雪崩れたか? と思った瞬間、背後でガタガタン!と物が倒れる音が響いた。

「おい、どうし――……」

 振り返ると、椅子から転げ落ちた深町が驚愕の表情を浮かべて床に座り込んでいた。その顔からはみるみる内に血の気が引いていく。
 次の瞬間素早く立ち上がった深町に痛いくらいの力で両肩を掴まれる。

「のっ……野田っ!! 大丈夫かっ……!?」
「いった……! ちょっ……なんなんだよいきなり!!」

 痛みに顔を歪める俺に構わず、血相を変えた深町にベッドに押し倒された。

「だっ……!!」

 ベッドのスプリングで弾んだ拍子に後頭部を壁にぶつけ、反射的に痛む後頭部に両手を回した所でズボンのベルトを一気に引き抜かれる。

「……っ!?」
「心配すんな!! こういうのってもげたらすぐ病院に運び込めばくっつけてもらえるって聞いたことあるから!!」
「はぁっ!? 何の話だよ!? ちょっ!! やめろって!! 心、っていうかガチで体の準備ができてなっ……!!」

 必死の抵抗もむなしく歴然とした力の差で下着ごと一気にズボンを引き下ろされる。
 深町は俺の俺自身が無事であることを確認すると、体中の空気が抜けるかと思うくらい長い長い安堵のため息を吐いた。

「……なんだ。ついてんじゃん。俺てっきり事故かなにかでもげちゃったのかと……」
「もげ……何の話だよ?」
「……アレ。なんか急に転がってきたし、痛いって言ったから。俺てっきり、野田のだと思って……」

 深町が肩越しに指差した先にはシリコン製の男性の性器を模した玩具が転がっていた。

「…………。……はぁあっ!?」

 呆気に取られて身動きが取れなくなっていた俺は、状況を理解すると同時に怒りが湧いてくる。

 安堵のため息、だとぉ!? 人のこと押し倒した挙句ひん剥いておいて、なんだとはなんだこの野郎!!

 ふつふつと湧いてくる怒りに一発ぶん殴らなければ気が済まないと思った俺は、ふと先程の圧倒的な力の差を思い出して躊躇する。制服越しにもわかる深町の広い肩幅と日焼けて境目がはっきりわかりやすく盛り上がった腕の筋肉。
 力でやりあったところで叶わない相手にすることといえば……。
 俺はがば、と両手で顔を覆った。全身を小刻みに震わせ、精一杯の泣き真似をする。

「……ひどい! ……恥ずかしすぎる! もう婿に行けない……!」
「えっ!? わあっ!! ごっ……ごめんっ!!」

 なぜか手近にあったタオルケットを頭から被せられる。

「ゎぶ!」
「ほんとごめん!! あんなことされて、いくら同性でも嫌だったよな……。俺、なんてこと……!!」

 タオルケットの隙間からちらりと様子を伺うと、おろおろと慌てふためき、ベッドの前で平身低頭謝罪する深町の姿が見えた。

 やっぱりな。こういうタイプは殴られるより、こっちの方がダメージでかいだろ。

「ご……ごめんな、野田。俺にできることだったら、何でもするから」

 筋肉質な体躯をできうる限り萎縮させて謝罪する深町に、タオルケットの隙間からそっと尋ねる。

「……なんでも……?」
「ああ。なんでも。野田が気が済むことであれば」

 さて、どう利用するかな。

 ふと深町の肩の向こうに転がる先ほどの玩具を視界に捉えた俺は、奴の最大限の利用方法を思いつく。
 半分脱げかけていたズボンと下着を脱ぎ、タオルケットにくるまったままベッドから降りて土下座する深町の隣にしゃがみ込む。

「だったらさ。俺とセッ○スしてよ」
「………………は?」
「だからさ、深町の"それ"挿れて、サクっとイかせてくれないかな」

 そう。冒頭の展開。
 俺はタオルケットから手を出して、深町の下半身を指差した。

「……なっ……、なっ……!!」 

 なぜーーーーっ……!?
 深町のよく日焼けた顔に声にならない声がありありと表現される。

 わかりやすい奴。でも、それくらい単純な奴の方が利用しやすいな。

 驚愕の表情を浮かべる深町の耳元に唇を寄せて、俺はわざとらしくゆっくりと囁く。

「取ってくれるんだろ? 『せ・き・に・ん』」

 見る間に顔を朱に染め上げ、汗をかき始める深町は両目を固く閉じてぶんぶんと首を横に振る。

「でっ……でもっ、そういうのって本当に好き合ってる者同士がすることっていうか、遊びですることじゃないっていうかっ……!」
「俺だって遊びですることじゃないくらいわかってるよ? でも、あんな辱めを受けさせておいて、他の人にしてもらえだなんて……無責任じゃないか?」

 深町にこっちを見る余裕があるかどうかは知らんが、とりあえずしおらしく、少しでも被害者めいて見えるよう、俯き加減に視線を落とす。

「親にも見せたこと無い痴態を晒して……これから先、嫁を取るのも婿に行くのも絶望的なのに……」

 タオルケットに顔を埋め、深町から見えないように指先を舐めて付けた唾液を目尻に塗って涙の演出を図る。

「……わ、わかった」

 諦めたように頷き、神妙な面持ちで顔を上げた深町は、真面目腐った顔で宣言した。

「ちゃんとできるかわからないけど、野田が気が済むように努力する」

 よし。言質は取った。

「じゃ、俺準備してくるから。深町もその間にこれ見て準備しといて」

 深町の左耳に無理矢理イヤホンをねじ込み、タブレットの動画を流して深町の手に握らせる。面食らった様子の深町は肌色多めのタブレット端末画面と女の子の喘ぎ声が流れてくるイヤホンがねじ込まれた左側と俺の三方をきょときょとと見まわす。

「え? え……えぇ? ええええっ……!?」
「10分で戻るから、勝手に出すなよ」

 念押ししてマントのようにタオルケットを巻いたまま風呂場へと走る。
 予告通り10分で準備を終えた俺がドアを開くと、すっかり茹で上がった深町がご丁寧に画面を消したタブレット端末と外したイヤホンを傍らに並べ、フローリングに正座をしたまま待っていた。

「……野田、あの……」
「おい真面目にやれよ。こっちはちゃんと準備してきたってのに。ほら、さっさとこれ着けろ」

 放り投げたゴムを受け取った深町は、手の中のゴムを認識して再び赤面した。

「……あのさ、本当に、すんの?」

 凛々しい深町の太目の眉尻が困ったと言いたげに下がる。

 汚れ防止のためにベッドにバスタオルを広げ、肩にかけていたタオルケットを床に落として制服のカッターシャツを脱ぐ。俺も自分用のゴムを口に咥えて封を切った。

「冗談でここまですると思うか? お前もさっさと覚悟決めろよ」

 深町は長い長いため息を吐いた後で自身の頬を両手でぱちん、と叩いてから立ち上がり、ベッドに歩み寄ってくる。
 俺はゴムを着け終えて使い捨てのローションを股間に垂らした。

 ……冷た。

 深町がベッドの縁に膝を乗せると、2人分の体重を受けたベッドが軋んだ。目が合うと、戸惑ったように一瞬視線を逸らされ、それから再び真っ直ぐ瞳の奥を覗き込むように見つめてくる。睫毛の一本一本まで数えられるほどの距離に深町の日に焼けた精悍な顔。瞳孔と虹彩の境目がわかりにくいほどの澄んだ黒曜石のような瞳がすっと細くなり、近づいてくる。

 ……あ、キス。

 そう思った瞬間、俺は深町の口元を片手で押さえてその顎ごとぐい、と力任せに上に押し上げた。

「別にキスとかそういうのしなくていいから、言われたことだけやれよ」
「むえ? ……わ、わかった……」

 俺の手を払い除けもせず、深町は顎を押し上げられたまま小刻みに頷いた。
 一旦体を引いた深町は、ふぅ、と小さくため息を吐いて自身のズボンのベルトに手をかけた。静かな部屋にカチャカチャと金属音が響く。

「……そんなガン見すんなよ」

 深町が身体をよじって隠そうとする。

「ん? ああ。わりぃ」

 修学旅行やプールの着替えは皆前を隠すしトイレも最近は個室派が増えているから、意外と他人のなんて拝む機会が無い。
 つい凝視していた俺は、指摘されて慌てて顔を横に向ける、ふりをして横眼でちらりと確認する。俺が部屋に戻った時にタブレット端末の動画は停止してあったが、内容はちゃんと視聴したのだろう。寛げられたズボンの隙間から覗く下着の中身はしっかりと反応している。
 深町は先ほどのゴムのパッケージを両手でもたもたと開け、取り出してからも数回表裏を返し、小さく、これでいいのか……?と自問しながら装着する。

 おいおい。そんなんで大丈夫か。

 深町はポジション間違いを疑いたくなるほど不安気な声をあげた。

「……あ。そういえば、男相手ってどうすれば……」

 今更かよ。

「こっち。ちゃんと洗ってきたから」

 深町の手首を掴んで誘導する。俺の肌に触れた瞬間深町の手がびくりと震えたが、掴んでいた手を離しても逃げ出す様子は無い。

「……痛かったらすぐやめるから、言って」

 深町は低く囁くように言って、俺は頷いて返す。
 後ろ手をついたまま座っている俺の膝を割るように膝を進め、息がかかる距離でゴム越しの体温を感じる。

 体温高いな、こいつ。そう思った瞬間、つるんと滑った感触。

「…………ん?」
「あ、あれ? ごめん」

 もう一度押し当てられる。ぐ、と一瞬押される感覚はあるが、再びつるりと滑ってしまう。

「あー……。ちょっと待て。ローションつけ過ぎたのかも」

 俺は下に敷いたバスタオルで軽く拭ってみたが、そんな小細工を嘲笑うかのように深町自身は再びつるりと滑っていった。その後も数回押し当てては滑るを繰り返す。

「……あ、あのさ、野田……」

 焦りなのか限界が近いのか、深町は今にも泣き出しそうに瞳を潤ませる。

「んー。やっぱ括約筋が強すぎんのかな? 突っ込む方のサイズの問題かと思ってたけど、そもそも俺の方の器質的な問題かも。逆止弁とかついたニュータイプかもしれないし。あ、深町。それもういいわ」
「も……もういいって?」
「やっぱ無理っぽいから、自分で適当に処理して。はい」

 自分用に数枚取ってから箱ティッシュを深町に投げる。

「……トイレっ……借りていい?」
「ああ。部屋出て左な。あ、ゴム便器に流すなよ。配管詰まったら普通に修理費請求すんぞ」
「…………。……わかった」

 若干前屈みに部屋を出て行った深町を見送り、ローションで濡れた手をティッシュで拭ってゴミ箱に投げ入れる。

「あーあ。やっぱファンタジーかぁ……」

 床に転がっていた玩具を拾って撫でながら、俺はため息と共に呟いた。


 数分後部屋に戻ってきた深町は何とも表現し難い表情をしていた。部屋着に着替えてPC画面に向かっていた俺はおざなりに手を振る。

「おつー。抜いた?」
「いや。人んちでそんなんする勇気無いから、ひたすら鎮まるの待ってた」
「へぇ。そういう時ってやっぱ素数数えたりすんの?」
「素数? ええと……世界平和とか、地球温暖化とか、宇宙の起源とか……」
「ああ。とりあえず壮大だな」
「それよりさ。聞いておきたいんだけど、野田ってその……いわゆるLGBTとかって奴?」
「は?」
「あ、ごめん。プライバシーの問題だから、言いたくないなら無理に言う必要は無いんだけど……」
「ああ。違う違う。さっき提供したおかず動画のラインナップ見ただろ? 俺が興味あるのはCカップ以上の女の子」
「だ……だったら、さっきのは何で……?」
「んー。なんて説明したらわかってもらえるかな。とりまこれ読んでくれる?」

 表紙が肌色多めの薄っぺらい本を差し出す。

「え? う、うん」

 受け取ろうとした深町の手から一旦すっと本を退く。

「ちょい待ち! ちゃんと手ぇ洗ったか?」
「洗ったわ!」
「んじゃ、はい」

 本を受け取った深町が恐る恐るといった様子でページを捲り始めたのを確認し、PC画面に向き直る。

 そんなに分厚い本じゃないからすぐに読み終わるだろ。

 描きかけだった液タブにペンを滑らせる。煽情的な微笑 のキャラクターの瞳と鼻先、唇にハイライトを描き込んでより艶っぽく。遠近感を出すために炎を浮かべた手を投げ縄ツールで囲んでフィルタでぼかしを入れたところで背後から声がかかった。

「あの、全部読んだ、けどさ。ええと、これって……」
「そ。BL。読んだことある?」
「……なんかスマホでサイト開いた時に広告でちらっと見たことくらいは……」
「無料試し読みの漫画サイトとかでは? ○○とか××とか結構一話丸ごと試し読みとかさせてくれる奴あるけど普段そういうの使わない?」
「肩壊すまでは部活忙しくてスマホって連絡用以外はほとんど使うこと無かったし、今もティックトックとかSNSチェックするくらいで……」
「あー……。じゃ、まずそこから説明しなきゃいけない感じか。ちょっとこれ見てくれる?」

 俺の肩越しにPC画面を見た深町はきょとんとした表情を浮かべる。

「漫画? いや、アニメ? あー……ごめん。俺こういうの疎くて。あ、でも映画の宣伝で見たかも。えーと、なんてタイトルだったっけ。確か妖怪とか一杯出てくる奴……」
「『燼ノ盟約』の燐火の主。で、これは俺が描いてる二次創作漫画の表紙イラスト」
「え、描いたって、これを!? 野田が!? うわ……すっご……!! これ、本当に野田が描いたのか?」

 ふふん。なかなか良い反応するじゃん。

「知らなかった……。野田って漫画家だったんだな。俺でも知ってるくらい有名なの、こんな身近な奴が描いてたなんて……」
「いやいやいや、ちょい待ち。原作者じゃなくて、俺はあくまで同人誌。二次創作の方」
「二次……?」
「んー。やっぱそこから説明しなきゃだよな」

 PCの検索窓に『燼ノ盟約』と入力し、無料試し読みができる人気漫画サイトを開いて表紙の画像を表示させた。
 俺は物分かりの悪い生徒に教える先生よろしく、画面を爪の先でコンコンと弾きながら説明する。

「こっちが原作。で、俺が描いてるのはこの漫画を元にオマージュした派生作品」
「あー、えと、野田じゃない人が描いてるのが原作? で? 野田も同じ漫画を描いてる……??」
「ほら、原作とは絵のタッチが違うだろ」

 PC画面を二分割して原作表紙と俺が描いたイラストを並べて見せる。

「ああ。そう言われてみれば髪型とか服装は一緒だけど、ちょっと顔の雰囲気が違うな」
「俺はこういう原作のキャラやエピソードを踏襲しつつ、実はこのキャラとこのキャラがこんな関係だったら面白いな、とか、こういう隠しエピソードがあると面白いんじゃない? っていう妄想を詰め込んで漫画にしてるの」
「え? あ、じゃあ、さっき読んだ漫画って野田が描いた奴!?」
「そう。いわゆる『薄い本』」
「やっぱすごいじゃん!! 野田にこんな才能があったなんて知らなかった!! なんて雑誌に載ってるんだ!?」

 興奮気味の深町の前で手を横に振り、軽くいなす。

「雑誌に掲載されるような有名作家もいるけど、俺のはあくまで自費出版」
「自費……ええと、自分で本にしてるって意味? え、でも本屋とかには?」
「そういうの取り扱いしてる本屋もあるらしいけど、俺のは基本ネット配信か即売会ね」
「へぇ……! すごいな、こんなの作れるなんて……!」

 キラキラした眼差しで薄い本を見つめる深町に俺の自尊心は満たされてゆく。

「さっきの質問の答えはそれ。俺自身はLGBTではないけど、描いてる漫画のジャンルはBL。つまり男同士の恋愛物。お前に頼んだのは漫画のストーリーや作画の参考にするための材料集めってわけ。もちろん"コレ"も」

 手にした大人の玩具を振って見せると深町は視線を逸らし、顔を赤らめる。

 わかりやすく初心な反応。

「留守中うっかり親が部屋に乱入した時に備えて本棚の上に布テープで貼り付けて隠しておいてたんだけど、粘着が弱ってまさかのタイミングで落ちてきたみたいだな」
「ざ、材料集め、で、あんなことするのか……?」
「もちろんしない人もいっぱいいるとは思うよ。でも感想に『喘ぎ声が「あんあん」しか言ってなくて薄っぺらい』とか『作者の経験値が知れるレベル』とか書かれんの癪だろ? そこで、だ」

 びし、と玩具で深町を指して言う。

「経験者のテクでリアリティ有る濡れ場を体感して作品に昇華させるためにお前を利用……んんっ! とかではなく、協力を願い出たんだ」
「経験者?」
「いるんだろ? 彼女。クラスの奴らが話してんの聞いた。野球部のマネージャーだっけ」

 急に深町の表情が曇り、視線を逸らされる。

「…………。もう結構前に別れたよ。俺が部活辞めた時」
「ああ、現在進行形でないならより好都合じゃん」
「好都合って……勝手なこと言うなよ。それが野田に何の関係があるっていうんだよ」

 不貞腐れて俺を睨む深町。

 ほんとこいつ感情が顔に出るタイプな。

「悪い悪い。確かに彼女とお前の交際事情なんて俺には関係無いけど、別に付き合ってる奴らに波風立てたいわけじゃないし。彼女と別れたんだったら尚のこと、俺とそういう事しても問題無いだろ?」
「なっ……なん、っでいきなりそんな話に飛ぶんだよ!!」

 今度は良く日焼けした顔を一気に首まで赤く染め上げて視線を宙へとさまよわせる。

 うーん。ほんとにわかりやすい。

「いきなり未経験の奴に相手されんのはケガさせられそうだし、かといってヤリちんは病気の心配があるし、オッサンは生理的に無理だし。程よく経験者で、でも経験人数は少な目、生理的に受け付けないってほどの顔でもないし、条件は揃ってるんだよな」
「けっ……経験とかってそういうの、お前一体どういう貞操観念してんだよ!! ほんと信じらんねーわ!!」
「はぁ? 逆にお前の貞操観念を疑うわ。バージンロード歩く花嫁が皆バージンだとかいう夢物語でも吹き込まれてんのか?」
「バっ……!! 声がでかいって!!」

 慌てた深町に両手で口を塞がれる。

「だっ……大体っ、そういうのって女の方に負担がかかるっていうし、収入とか生活基盤とか、男としてきちんと責任取れるようになるまではするべきではないっていうか、その、まだ未成年だし、早すぎるんじゃないかって……」

 しどろもどろに大量の汗をかく深町を見て、確信する。

「……深町。お前もしかして童貞か?」
「………………」

 手持無沙汰に玩具でぺちぺちと手の平を叩きながら、俯いて真っ赤に染まった深町の耳を見下ろした。

 沈黙は言葉よりも雄弁に真実を現すってか。

「ってか紛らわしい言い方すんなよ! 『男相手』どころか、まるっと初めましてだったんじゃねぇか!」

 手に持っていた玩具を深町の頭に振り下ろす。手にはびょびょびょん、と程よい玩具の弾力が響いた。

「……だっ!!」
「……ったく。せっかく彼女がいたってのに何やってたんだよ! この根性無しが!」
「野田が言うみたいに爛れた付き合い方する奴ばかりじゃねーんだよ! この節操無しが!」
「じゃあ付き合うって何したんだよ」
「野田が言った以外にも、することくらいあるだろ!」
「ああ。押し倒すとか揉みしだくとか?」
「もっ……!? そっ……んなことっ……!」

 再び赤面。

「おい。ほんとに何もやってないのか。ってか、そもそもそれって交際って言えんのかよ」
「……キス、くらい、は、した、けど」

 度重なる追及に観念したのか途切れ途切れに絞り出すように言った深町は、熟れた顔を横に向けて、もういいだろ、と小さく呟いた。

「深町。今時保育園児でももう少し進んでるぞ。キス、手つなぎ、ハグを卒園し損ねてたのか?」
「そりゃその年齢の時と意味合いが全く違うだろ……」
「大体さぁ、そんなんで彼女は満足したのか? いくら奥手でも、さすがに焦れたんじゃねーの? よくドラマとか漫画とかであるじゃん。『家に遊びに来て』『今日親帰って来ないの』みたいな展開とかさぁ」

 マイク代わりに玩具を口元に寄せて伏し目がちにしなを作ってセリフを回すと、深町の動きが止まった。

「あー、それは……」

 ふと言い淀んだ深町に一気に詰め寄る。

「え!? 言われたことあんの!? なぁんだ、持ってんじゃん王道エピソード!」
「え、あ、いや。でも、あれはそういう意味で言ったんじゃないかもしれないし……」
「いやいや絶対そういう意味だって。で? そこからどうなったんだよ? ここまで話したんだから包み隠さず全部吐けって!」

 肩を組んでインタビューよろしく深町に玩具を突きつけた。

「ちょっ……! だからそれやめろって!」
「ああ、ごめんごめん」

 適当に玩具をぽい、と放り投げ、改めて問い質す。

「で? 行ったの? どこまで?」
「どこまでって……普通に『家に遊びに来て』って言われたから、家に……」
「ここまで来て焦らすなよ! で、それから?」
「リビングに通されて、一緒に野球の試合の録画見て」
「あーもうそんなとこいいって! 端折れ! 『今日親帰って来ないの』って言われたとこから話せ!」
「あー、うん。今日親が帰らないって聞いたから、夕飯の準備があるか確認して、家中の戸締り確認して」
「ん? んん? 戸締り?」
「一部屋だけ電気が点いてると一人だと疑われるかもしれないから複数の部屋の電気を点けて、ガスの元栓閉めて。「男がいるって思わせた方が不審者が近づきにくいだろうからこれをベランダに干しておけば完璧」って俺のユニ貸して」
「いや、ちょっと展開おかしくなってきてないか?」
「俺が出たらすぐチェーンかけて鍵閉めて。インターホンが鳴っても絶対すぐに開けないように。何か困ったことがあったらラインしてって言って早めに帰った」

 呆れて二の句も継げないとは、まさにこのことか。

「野田? どうした?」

 目を閉じて眉間を揉みながら長い長いため息を吐く。 

「……いや、無いわぁ。さすがに彼女できたことない俺でもわかるよ、誘われてる流れだって」
「いや、どこがだよ。親が帰ってこない一人で留守番の時は、戸締りと防犯対策最優先だろ。っていうか、そんな状況でどうこうなろうなんて、いくらなんでも不誠実すぎるって」
「だぁーかぁーらぁー! 小学生の初めてのお留守番じゃないんだからさぁ。せっかく勇気振り絞ったのに彼女可哀そうすぎ」
「えー……? あ、そう、なの、か……?」

 困惑して凛々しい眉尻をしょぼんと下げ、叱られた子供のようにこちらを上目遣いで見つめる深町を鼻で笑う。

 やめろよ。男の上目遣いなんて寒いだけ。それやって可愛いって思われるの女子供くらいだ。

「ま、それなら俺とも失敗して当たり前だってのがよくわかった。ってか、無理してケガさせられなくてむしろ良かったわ」
「あ、はい。えーと、それに関してはほんとにごめん、なさい? でいいのか?」
「じゃ、お疲れさん。解散で」
「えっ?」
「え?」
「あ、いや。俺、野田が嫌がるようなことしたのに、最初に野田に頼まれたことは失敗して、まだ何もそれらしい償いができてないから……」
「ああ、そういえばそうだったな」
「あの、ほんとに悪かったと思ってるんだ。俺の早とちりで野田に嫌な思いさせて。だから、その、……(聞こえるか聞こえないかの小さい声で)挿れる、とか以外の、何か、俺にできる償い方があれば……」

 さっき言ってた『オトコのセキニン』って奴ね。
 それのおかげで俺に童貞奪われかけたってのに、ずいぶんと誠実なことで。

 姿勢を正して息を呑み、死刑宣告を待つような面持ちでこちらを見つめる深町。

 ま、せっかく本人が望んでることだし、使えるものは利用させてもらうか。

「深町、絵描ける?」
「絵? うーん。美術の授業で描いたくらいしか……」
「あ、いーのいーの。一からお前に任せるっていうより、下絵のペン入れ手伝ってもらいたくて。ようするに、俺がパパっと雑に描いた絵をなぞってもらえるだけでいいんだけど」
「やったこと無いけど、俺ができることであれば」

 イラストアプリの別ファイルから描きかけの漫画の下描き画像を開く。

「うわ……これ、野田が描いたの?」

 食い入るようにPC画面を見つめる深町。

「そう。ここ座って、これ着けて」

 俺は自分が座っていた椅子を深町に譲り、液タブ用の手袋を渡す。

「ええと、これ利き手の方に嵌めるのか? っていうか破れてないか? これ」
「そういう仕様なの。って、お前左利きか」
「あ、うん」
「じゃ、左手の親指人差し指中指が出るようにして、薬指と小指を覆うように嵌めて。キーボードは液タブと反対に置かなきゃいけないのか。ショートカットキーってわかるか?」
「Windowsのなら。CtrlとAとかCとかの組み合わせだろ」
「お。話が早いじゃん。大体使い方は同じようなもんだから。WindowsならCtrlの所がMacならCmdになんの。で、よく使うのがCmd+ZとCmd+Sね」
「あー……。ええと、元に戻す、と、セーブ?」
「ご名答!」

 期待なんてしてなかったけど、PCの基礎知識が入ってるなら意外と戦力として有望かもな。

 褒められて深町の表情がようやく緩んだ。

「じゃ、本題な。このペン持って、この画面の鉛筆画で描いてある複数の線の真ん中あたりを狙ってなぞってほしいんだ」
「なぞる」
「そう」

 緊張しているのか、ペンを持つ深町の手が小刻みに震えている。

「別に失敗してもはみ出しても別レイヤーの描き込みだし、いくらでもやり直しきくから、気負わずちゃっちゃと描けよ」
「れ、レイヤーって?」
「目に見えない透明な紙みたいな物。ほら、俺が描いた下絵も、こうやって可視ボタンを押すと正中線やアタリが消えたり出たりするだろ」

 マウス操作で不要な線を可視化したり不可視化したりして見せる。

「ほぉぉ。なんかよくわかんないけどこんな仕組みになってんだ」
「とりあえず試しに"しくじり線"をこのレイヤーでわざと作ってみた方がわかりやすいかな?」

 深町の背後から手ごとペンを握り、登場人物にざっくりと鼻ヒゲを描く。

「せっかくの綺麗な絵に何やってんだよ! もったいない!」

 慌ててペンを浮かせる深町の後頭部をぺしり! と軽く叩く。

「ほら。さっき言ってたキーボード操作。わかるんだろ? 『元に戻す』」
「え? あ、ああ」

 深町はペンと違ってキーボードの方は手慣れた様子でCmdとZを探し当てた。キャラの鼻ヒゲだけが綺麗さっぱり消え失せる。

「上手上手。大体この描き込みと修正の繰り返し。で、切りが良いところでセーブな。結構修正は何度も入れるから、利き手の反対の手はずっとキーボード固定で」
「わかった」

 深町は頷いて再び液タブへと向かい、ペンを構え直す。指先が白くなるほど強く握り込むペン先が震えるのを見て、俺は慌てて深町の手を両手で掬い上げた。

「ちょい待てぇ!!」
「なっ……なんだよ急に!!」
「ペンは、あくまで、軽く握れ。軽ぅーくだ。じゃないとペン先が潰れたり摩耗したり、保護フィルターはかけてあるけど液晶画面に傷が入ったりする。別に一回で完璧に描こうなんて意気込む必要は無い。さっきやったように何度でも描いた線を元に戻すことはできるし、描き込んだ後で消しゴムツールで消して修正だってかけられる」
「ああ、なるほど。わかった」

 ふぅ、と小さく息を吐いた深町は、姿勢を正して再びペンを構える。先ほどまでとは違い、力んだ様子は見受けられない。

 今度は大丈夫そうだな。

 そう思ったのも束の間だった。キャラクターの輪郭線をなぞるペン先はガタガタと揺らぎ、外側も内側も鉛筆線からはみ出していく。しかも何をどう解釈したのか、一度描いたガタガタ線を折り返して新たなガタガタを上書きした状態でキャラクターの輪郭から服のラインに移動しながら更にペン先の震えがどんどん酷くなっていく。

 ……こいつ一筆書きか何かに挑戦しようとでもしてるのか?

「ちょっと止まれ。別に一筆書きしなきゃいけないルールなんて……」

 幅広く筋肉のついた肩に手を置いた瞬間、深町の体がぐらりと傾いた。

「うわちょっ!? どうした!?」

 派手に椅子から転げ落ちて床に転がった深町は、見たことも無い顔色で荒く呼吸を繰り返す。

「い……息っ……! どこでした、ら、いいか……わからなく、てっ……!」

 …………。はい、確定。こいつ思った以上にとんでもなく不器用だったわ。

「息止めて絵描くバカがいるかよ。画家は皆エラ呼吸かっての。やっぱもういいや。帰って。邪魔だから」
「ちょっ、待っ……。ちゃんと、役に立つから……」
「どう役に立つつもりだよ。未経験、不器用、肺呼吸すらできないなら使い物にならないだろ」
「こっ……こうせい! とかなら協力できるかと!」

 必死の面持ちで挙手をしながらアピールする深町を品定めするように睥睨する。

「こうせいぃ?」

 構成、公正、後世、攻勢……脳内で思いつく限りの漢字変換を試みるが、どれも深町が協力できるというイメージが湧かない。

「さっき野田に見せてもらった本なんだけど、数か所誤字脱字や同じ意味の言葉の重複があったんだ。ああいうのの校正……っていうほどすげーことはできないかもしれないけど、修正提案とかはできると思う」

 校正。ああ、なるほど。その校正ね。

「セリフとか読み返しチェックしたはずだけど」
「でも、ここ。ほら、これ『姑息』って使ってるけど、『卑怯な』って意味で使ってるだろ? 正しくは『姑息』は『その場しのぎ』って意味で用法が違ってるんだ。ここだって送り仮名の『れ』が抜けてる」
「……お前細かすぎ。国語の先生かよ」
「さっき読んでる時に、話の内容よりこっちが気になって……」

 内容に入り込めなくなるレベルの誤字脱字か……。
 頭の中の天秤が『クビ』と『採用』の2つでぐらぐらと揺れる。まぁ、使えなかったら今度こそ蹴り出せばいいか。

「あー。そんじゃその、校正とやらを頼むわ」
「わかった」

 今度こそ得意分野を任されたとばかりに自信たっぷりの表情の深町は、鞄からペンケースとルーズリーフを引っ張り出し、教科書を膝に乗せて机代わりに薄い本の修正箇所頁と修正前、修正後のセリフを書き出していく。

「あ、それ本に直接書いていいぞ。販売用じゃなくて自宅保管用だから」
「でも、せっかく綺麗に描けてるのに、汚すのももったいないから」

 深町は何の気なしに言ったようだったが、俺が作った本を『綺麗』とか『汚すのがもったいない』と言われて、正直悪い気はしない。

「まぁ……好きにしてもらっていいけど」
「うん」

 俺の言葉を聞いているのかいないのか、深町はスマホを取り出し、時折フリック入力しながら本とルーズリーフの書き込みを続ける。見ていて不安になるほどルーズリーフが埋まっていくので、気になってPC作業に戻れない。

「おい。そんなに修正箇所あんのかよ」
「誤字脱字以外にも、この人物だけど、最初と途中で一人称が変わってる。『俺』だったり『僕』だったり」

 PCファイルから校正してもらっている本の印刷前データをチェックすると、確かに主要キャラのセリフの一人称が複数回『俺』になったり『僕』になったりしている。印刷前に確認したつもりになっていたが、徹夜明けで見落としたのかもしれない。

「……。深町。他の本の校正も頼めるか?」
「もちろん!」

 間違いを指摘されまくってプライドがズタボロの俺に反して深町は水を得た魚のように笑顔で頷いた。
 俺はあの後結局作業が手につかず、黒豆麦茶のお代わりをついだり冷蔵庫に入っていたお中元のフルーツゼリーを出したりして校正の結果を待つ。結局三冊の既刊と印刷前のPCファイルデータ全ての校正を終えた深町は、仕事終わりを感じさせる爽やかな笑みを浮かべてびっしりと書き込まれたルーズリーフを俺に提出した。
 

「間違い探し楽しい。クイズとかパズルみたい」

 受け取ったルーズリーフに目を通す俺の向かいでぺりぺりとゼリーの蓋を剥がしながら深町は言う。

「語彙力下がってんのなんでだよ。お前が言い出したんだから校正って言えよ」
「それにしても自費出版て大変なんだな。こういうのも全部自分でチェックしないといけないんだろ?」
「入稿までに余裕があれば、人に見てもらうこともあるけどな。ここ最近のは時間無くてバタついてたから、まぁ確かにチェックが甘くなってたわ」

 ルーズリーフに書かれた箇所は確かに指摘通り誤字脱字や日本語の用法間違い、キャラクターの言葉遣いに至るまで納得がいく修正が為されていた。

「……予想外。ってか予想以上だわ。何? お前国語の成績いいの?」
「悪くはないと思う。うち親が本好きでさ。塵川賞とか曲木賞とかの発表があると必ず買ってくんの。漫画も野球が忙しくなる前までは結構読んでたし。最近のはさっぱりわからないけど」
「PCもある程度使えるって言ってたよな?」
「WordとExcelの簡単な入力くらいなら」
「写植の打ち込み方教えるから、この修正箇所をイラストアプリに入ってる原稿から直接データ直すっての、頼める?」
「もちろん! あ、でも野田も漫画描くのにPC使うだろ? データ送ってもらうか共有できるなら俺の家のPCで作業するけど」
「マ!? そうしてもらえるとほんと助かる!」
「じゃ、ラインから俺のPCの方のアド送るわ」
「俺もイラストアプリのURL送る」

 嬉々としてアドレスを交換することに気を取られ、俺は深町が届けてくれた封筒の存在を完全に忘れ去っていた。まさかそれが後に騒動の引き金になるなどと、疑うことも無しに。