先生、野田君の目が今日も死んでいます

 放課のチャイムと同時に振り返って深町の腕を引っ張る。

「深町。今日、帰りうち寄って」

 深町はもちろん、といつもの嬉しそうな笑顔を見せる。いつも俺に見せる顔。休み時間にポニテ女子に向けていたのと同じ笑顔。

 くそ。人の気も知らないで。

 苛立って蹴りを入れてやりたくなる衝動を抑える。

 まだだ。今逃げられるわけにはいかない。

 深町の腕を掴んだまま駐輪場まで連行する。

「野田? なんか機嫌悪い? なんかちょっと雰囲気違くない?」
「通常運転だ。深町チャリは?」
「ああ、ランニング代わりに朝走ってきたから今日は徒歩」

 自転車の鍵を解錠するために手を放していたら、その間ストレッチをしていた深町はさっさと俺の家の方角に向けて走り出す。

「じゃ、先行ってるな」
「あっ! おいっ!」

 慌てて呼び止めようとしたが、軽い足取りで走る深町は結構早い。

「ああもう!」

 苛立ちながら自転車で後を追い、信号待ちしている所に追いついた。

「お、来た来た」

 無邪気に笑う深町の脇腹を小突きたい衝動をハンドルをぎゅっと握って堪える。

「俺準備あるから先帰るけど。……深町、逃げるなよ?」
「え? ああ、うん?」

 信号が青に変わると同時にペダルを踏み込み、過去最速で帰宅する。靴を脱ぎ散らかし、鞄を放り投げて洗面所に走り、マウスウォッシュを口に含んで高速で口腔内を洗浄した。ダイニングに戻ってグラスとお茶のボトルをテーブルに置いたところでインターホンが鳴ったので、オートロックで勝手に施錠された鍵を開け、深町の腕を掴んで家の中に引っ張り込む。

「わっ! ……っと、野田? どうした?」
「茶用意してるから先にそれ持って部屋上がって飲んで。本もいつもの場所のは無事だから勝手に出して好きに読んで」
「な、なんか忙しい感じ? 今日はもう帰「待て帰るな。忙しいけど忙しくない。とにかく部屋に行ってろ。俺もすぐ行くから」

 深町の言葉に無理矢理被せ、ボトルとグラスが乗ったトレーを渡してぐいぐいと深町の背中を押した。

「わ、わかった。じゃ、お邪魔します」

 もの言いたげにちらちらとこちらを振り返りつつも階段を上っていく深町を見送り、額の汗を拭う。

 やだな。汗とかかきたくないのに。

 制服のシャツを摘まんで臭いを確認する。着替えは自室なのに。

 俺は布用の消臭剤を片手に風呂場へと向かった。



 自室なのでノックも無しにドアを開けると、深町はスマホを片手に教科書を開いていた。

「あ、野田。もう用事済んだのか? 元素記号の語呂合わせで笑える動画見つけてーー……」

 この後何が起こるかも知らずに笑顔を向ける深町。俺は部屋に入るなり素早く歩み寄り、深町のシャツの胸倉を両手で掴む。

 恨むなよ。これも夢の実現のためだ。

「深町。三割引きじゃないキスすんぞ」
「え? は?」

 状況が掴めず疑問符を浮かべた深町を引き寄せ、間抜けに開いた唇に無理矢理唇を押し付ける。

「んんっ! んぅーっ!?」

 行き場を失った深町の手が空を掻くが、構わずにそのまま開いていた深町の唇の中に舌を突っ込み、逃げ腰の舌を追う。

 逃げんな。観念しろよ。

 焦れて深町の後頭部を押さえ込み、角度を変えて舌の裏側と思しき場所をべろりと舐めあげてから解放する。

 これ、ほんとに気持ちいいか? 正直味の無い生温かいこんにゃくを舐めた感触で気持ち良さは到底感じられないが、まぁ個人差というものもあるだろうからな。

 唾液で濡れた口元を手の甲で拭い、肩で荒く息を吐く深町をフローリングに押し倒して跨り、深町のシャツのボタンに手をかける。

「ちょっ……! 野田っ! どうしたいきなり!?」
「どうしたも何も無い。お前俺の事好きなんだろ。だったら黙ってそのまま大人しくしてろ」
「いやいやいやそれにしてもさ!!」

 ボタンを外そうとする手を妨害せんと深町の手が俺の手を掴もうとするが、それを払い除ける。もたつく指先で残り2つのボタンは外そうとしたが、焦れったいので諦め、下からインナーごと無理矢理たくし上げた。

「のっ、野田っ! ちょ、待て! 何があったか知らんけど、急展開過ぎて……んぶ」

 辛うじて深町の首に引っかかっていたシャツを引っこ抜いてそのまま後ろ手をついている腕の拘束代わりに中途で脱がし留め、今度は自分の着ているシャツを脱ぎ捨てる。

「どうした、落ち着けって!」

 落ち着いている暇なんて無い。
 誰か。そう、知らない誰かに奪われるくらいなら。

 脳裏に楽し気に話す女子と深町の姿がよぎり、焦りとも苛立ちともつかない感情で眉間に皺を寄せる。

「……既成事実さえ作ってしまえば、こっちのもんだよな」
「……へ? え、うわちょっ!! 待てって野田!!」

 深町のズボンのベルトに手をかけるが、シャツの拘束を解いた深町の手がそれを押しとどめる。

 くそ。

 少しでも動きを抑え込むために深町の顎に頭突きをかました。鈍い音と共に頭に痛みが走る。

「あだっ!! 何すっ……!!」

 俺の手を押さえていた手が深町の顎に回った隙をついて力任せにベルトを引っ張る。

「邪魔すんな深町! お前がやらないなら俺が突っ込むぞ!!」
「ぎゃあああっっ!! ほんとどうした野田あああっっっ!!」

 騒音レベルの深町の絶叫を聞きながらしばらく攻防を続けていたが、完全に拘束が解けた深町と力で競り合っても到底適うはずが無い。ほどなくして俺の両手はあっさりと制圧された。

「……落ち着けって。説明してくんなきゃわかんないだろ? 何かあったのか?」

 深町が肩で荒く息をつきながら眉毛をハの字に下げて、俺の顔を覗き込む。

 違う。
 心配されたいわけじゃない。
 困らせたいわけじゃないのに。

 耳に蘇る、セミとボブの会話。
 彼氏に我慢させてたら乗り換えられた、って。

 失敗した。
 深町を満足させてやれなかった。

 このままだと、深町が俺以外の誰かの物になってしまう。

 自分の中で上手に言語化できない感情が渦巻いて、溢れて、零れた。

「え……? あ、悪い! 痛かったよな?」

 大粒の涙を流す俺に臆した深町が慌てて握り締めていた両手の拘束を緩める。
 俺は俯いてぶんぶんと首を横に振った。

 痛くなんかない。この期に及んで俺の動きを止めるために触れる深町の手は優しい。

 そのままぺたん、と深町の膝の上に座り込む。

「……深町は、俺のこと好きって言った」
「……うん。そうだよ」
「…………。俺は、おっぱい大きい女の子が好き」
「うん。知ってる」
「BLジャンルでいうなら、スパダリ攻めが好き。カッコいいから」
「うん。よくスパダリ攻めの読んでるもんな」

 ぺと。

 深町の胸に手をあてる。

 温かくて弾力があって、でも柔らかくはなくて。

 ぽたぽたと涙が零れ続ける。

「違う」

 声が震えて、喉の奥が引きつれてひぐ、と情けない音が出た。

「深町は、おっぱい無いし」

「あー……うん。もうちょい胸筋鍛えるよ」

 胸を押さえたままの俺の手に、そっと深町の手が重なる。

「おっちょこちょいで早とちりだし、声でかいし脳筋だし。全然スパダリじゃないし」
「お、……ぅ。地味に傷つくからさ、それくらいに……」
「…………。全然ドキドキしないんだ。漫画とかアニメとか、みんな『好きな人の顔見たりしたらドキドキする』っていうのに、深町のはコレジャナイ感っていうか」
「……コレジャナイ感……かぁ……」

 なのに、涙が止まらない。
 自分で自分の感情が説明できない。

 どうしたらいいかわからなくて、もどかしくて、深町の首に腕を巻き付けるように抱き付いて筋肉の盛り上がりを感じる肩に顔を埋める。

「深町と同じ気持ち、返せないかもしれない」

 全然タイプじゃないのに、でも、他の人に取られるのは嫌だなんて、とんでもないわがままだ。わかっているのに。

 愛梨姉が聖さんと結婚した時でさえ、こんな感情にはならなかった。
 大好きな二人が一緒になって、俺だけの愛梨姉じゃなくなって、ちょっと寂しくて、でも、嬉しかった。

 でも、深町のは違う。
 俺以外の誰かに、柔らかい笑顔を向けてほしくない。なんて、独占欲でしかない。

「野田」

 耳のそばで心地良い低音が囁く。

「ちゃんと俺の気持ち考えてくれてありがとう」

 俺はみっともなくボロボロと涙を零し、深町の首にしがみついたままこくんと頷いた。背中を大きな手が優しく撫でてくれる。その温かさに、少しずつ高ぶっていた感情が鎮められてゆく。

 今なら、聞けるかな。

 腕の力を緩めてそっと身体を離すと、俺の手を肩に載せたままの深町が、いつもと変わらない優しい笑顔でこちらを見つめ返す。

「……別のクラスの女子と深町が喋ってた」
「え?」

 元カノの野球部マネージャーに向けるのと全然違う表情で。少し頬を上気させ、緩んだ柔らかい表情で。

 ずび、と鼻をすする。

 ああ。その話? と合点がいったように深町が笑った。

「隣のクラスの里見さんがドルオタなんだけど、野田が最近教室で起きてることが増えたから目ぇつけられたらしくてさ」
「……何それ。目ぇつけられるって、カツアゲでもされんの? 俺」
「違う違う。『野田君アイドルとか興味無いか聞いてみて』って声かけられた」

 話がよく見えない。

「は? なんでそいつ俺に直接言ってこないの?」
「なんか畏れ多いんだと。野田って普段教室じゃほとんど人と喋らないから、警戒されないように俺経由で話を通したかったらしくてさ。オーディションとか受けさせたいって。自分でアイドル発掘してプロデュースしたいらしくて。で、そのまま、野田の話題で盛り上がってた。あ、同人誌とか腐活動の話とかは言ってなくて、主に野田って睫毛長いよなーとか、学校ではいつも気怠そうだけど意外と表情豊かだよなーとか。『同担かよ!』って盛り上がってさ。ちなみに野田。オーディションとかは?」
「興味無ぇ」
「はは。一蹴だ」

 なんだよそれ。結局俺の話であんな笑い方してたのかよ。

「……アホらし」

 真相を知って急に力が抜け、タオル代わりに深町の肩でごしごしと顔を拭う。

 涙だか鼻水だかが肩を濡らしたが、いらんこと俺の心を乱した罰だ。これくらいはさせろ。

「……で。なんでこんなことになってんのか、聞いていいか?」

 相変わらず小さい子をなだめるように深町の手が優しく背中を撫でる。
 居心地の良い肩に顔を埋めたまま、少しだけ深町の方に顔を向ける。

「……セミとボブが」
「ええと。同じクラスの堀と峰岸、か?」
「知らんけど。そいつらが言ってた。『彼氏にヤらせなかったら別の女に乗り換えられた』って」
「あー……。それは、最初から体目的で付き合ったパターンだな」
「最初の時も俺がちゃんとできなかったし、あの後もそういうことしなかったから、深町、俺の事嫌いになると思った」
「俺が? 野田の事を?」

 目を閉じてこくん、と頷く。

「俺、深町の事利用しようとしたし」
「何それ。ヤり捨てられる予定だったのか? 俺」
「…………」
「いや。そこで黙るのやめろよ。肯定っぽいじゃん」

 否定はできない。
 最初は漫画の参考に一回経験できれば、それで用済みになるはずだったのに。

「別にさ、俺、野田のことそういう目的で好きって言ったわけじゃないし。……その、自分でも予想外に反応するから気が動転して、冷静になるために距離を取ろうとしただけっていうか」

 ん?

「じゃ、今のこの状態って、深町にとっては逆効果? 離れた方がいい?」
「や。むしろ今は役得だと思ってる」

 背中の大きな手が離れようとした俺の上体を優しく抱き寄せ直す。

 あ、そう。
 本人がいいならいいか。とばかりに再び体重を預け直すと、抱きしめられたまま赤子をあやすようにゆっくりと上体を揺らされる。

「安心していいよ。俺、結構しつこいから。野田が俺の事嫌いにならない限り、離れたりしない」

 俺の頭に、深町の頭がことん、と触れた。

「……うん」

 すん、と短くすすり上げ、そっと目を閉じた。温かく、ゆりかごのように揺れる心地の良さに、自然と張っていた身体の力が抜けてゆく。


 ああ。ここは、なんて居心地が良いんだろ。


 ゆる、と頬が緩み、ゆりかごの揺れと共に伝わってくる鼓動と規則的な深町の穏やかな呼吸に、自然と口角が上がった。