先生、野田君の目が今日も死んでいます

 "好き"って、結局のところ何だ。

 帰宅してからネタ帳を開く。
 いつもなら描き留めるのに手が追いつかないほど創作のアイデアが浮かんでくる。なのに今日はペンが進まず1ページも描けないまま。何を描いても陳腐で、薄っぺらな物語にしか見えない。

 これ、本当に面白いのか?

 自問すればするほど隘路に迷い込んでいく。
 気になって過去に描いた自作を読み返してみた。
 描いている時には面白いと思っていたはずなのに、冷静になってみるとご都合主義に思えたり、話の流れが不自然に思えたり。違和感ばかりが目に付いてしまう。
 わかったような気になって、誰の事も好きになったことが無い自分が描く物語。『想像の産物』のメッキはあっさりと剥がれた。
 結局それ以上自分の過去作を読む気にもなれず、他の作家さんの作品を開いたが、流し読みしても気分が乗らない。
 気づけば一晩中漫画を読み漁り、いつものように小鳥のさえずりを聞いていた。

 『一晩中恋について思い悩んで眠れませんでした』

 この一文だけ読めば、どれほどロマンティックな青春を謳歌しているのかと勘違いされそうだ。現実はスランプに陥って止まったペンを動かす原動力が見つからないってだけなのに。

 授業にも身が入らず、でも結局熟睡もできずに目を閉じて耳だけ周囲の音を拾いながらの半覚醒状態だ。
 元々ショートスリーパー気味ではあるものの、さすがに何日も眠れないと額の辺りが重く感じるし全身の倦怠感が抜けない。ここ最近ゆっくり眠れたのは深町の家に泊まった時くらいだ。

 眠れないから泊めてって言ったら、深町泊めてくれるかな。
 いや、一緒に寝ないって宣言されたんだった。
 ああもう。好かれるのって結構面倒臭いな。

 休み時間に入って周囲のざわめきが大きくなる。痺れかけた腕を動かしてもう少し寝心地が良くなるように体勢を変えようとした時、近くの席から怒声が上がった。

「信っじられないっ!! あり得なくない!?」

 この声は隣の席のセミだ。目を開けなくてもヒステリックに愚痴っているのが普段から耳につく。

「また? その手のによく引っかかるよね。相手大学生だっけ?」

 冷静に返すのはおそらくいつも一緒にいるボブだ。

「その手のにっていうか、当たり前でしょ!? 世間の常識!! 不同意とか犯罪案件だから!!」

 セミは語気荒く息巻く。

 寝不足の頭に響くので今日くらいは静かにしてほしい。

「結局ナミとはそういうことしなかったんでしょ? やめてやりな、犯罪者扱い」
「…………。しなかった。けど、あたしが断ったからって、それを理由に他の子に乗り換えるとかさ、不誠実じゃん。告ってきたのあっちからなのにぃ」

 張り上げていたセミの声が勢いを失い、徐々に涙声に変わっていく。

 へぇ。お付き合いって思ったより色々と面倒くさそ。

 他人事とばかりに聞き流しつつも、恋愛に関するトラブルは今後の創作のアイデアに使えるかも、と拾い聞きしてしまう我が身がさもしい。

「そうだね。ナミは悪くないよ。えっちしないくらいで他に乗り換えるなんて碌な奴じゃないと思う」

 ボブは慰めたつもりだったのだろうが、「たっくんのこと悪く言わないで」とセミが涙声で返す。

 セミよ、お前一体どっちの味方だ。

「ごめん。ナミのこと泣かせたから、『たっくん』にちょっとムカついた。悪口のお詫びに、帰りに新作ラテおごるよ。期間限定今日からだよね? 粒あん黒蜜ほうじ茶ラテ」
「……うん」

 おいおい甘やかしすぎだろ。

 しかしそんなボブの甘やかしが功を奏したのか、セミの声から悲しみの色が消える。

「……あーあ。世のカップル全部爆発しないかな……」

 悲しみの色どころか不穏な気配が混ざり始めた。

「他人を呪いなさんな。白玉もトッピングしてあげるから」
「……うん。あたしのことわかってくれるのはやっぱ峰岸だK……発破アァァァァッッ!!!」

 突然の窓ガラスを揺らす怒号にビビッてうっかり身体が数センチ跳ねる。

 休み時間の教室が静まり返るが、それも一瞬のこと。
 「誰だよダイナマイト爆発させようとしてる奴」「いつもの堀だろ。安定の情緒不安定」という声の後、再び何事も無かったように日常が復活する。

 いやこれもう寝てもいられないな。

「邪推しなさんなって。一緒にいる男女が全て付き合ってるわけじゃないから。あの子一年の時に同クラだったからたまたま喋ってるだけじゃない?」
「ううう……だってぇ。不公平くない!? あたし今傷心中なのに、この前も女子マネとにゃんにゃんごろごろしてたくせに、今日は別の子だなんてとっかえひっかえ不貞行為が過ぎんか!? 爽やかスポーツマンの皮を被ったリーディングサイアーっっ!! うわあああんっっ!!」

 種牡馬もこんなところに引用されたくはなかっただろう。

 騒音に耐え兼ね、河岸を変えるか、と上体を起こしたところで教室の後ろのドアの所に立つ深町と目が合った。
 にへ。と笑って小さくこちらに手を振る深町。
 ん。と声無く頷いて返す、と、今まで気づかなかったが、深町の隣にいたらしい小柄なポニテ女子が興奮した様子で身振り手振りを交えながら深町に話しかける。

「……は?」

 しかもよく見れば、その子は深町のシャツの腰の辺りを掴んで。

 なんだあれ。

 この前見た野球部のマネージャーとは別の子。

 さっきボブが言ってた、一年の時の同クラって奴?
 それにしては距離近すぎねぇ?

 ポニテが何やら熱弁するのを、小柄な体型に合わせるためにか深町が少し前屈み気味になって頷いて返す。何より、マネージャーの時とは違って、少し照れたような笑顔を浮かべて。

「…………はぁあ?」

 なんだあれ。
 マネージャーの時と全然表情違うじゃん。
 あんな顔俺以外に向けるの、初めて見た。や、学校ではほとんど寝て過ごしてるから深町が他の奴と絡んでるのを見ること自体あまり多くはないけど。

 それでも、よそ行きのお上品な笑みではなく、あれは本当に好意を寄せる相手に向ける表情にしか見えない。
 深町の普段の表情がわかりやすい分、こんな時にそれがわかってしまう自分が本当に嫌になる。

 いいじゃん別に。
 俺、別に深町と付き合ってるわけじゃないし。
 心変わりくらいすることだってあるだろ。ってか、そも、俺の事が好きってこと自体、深町の早とちりだった可能性だってあるし。

 なのに、胸の中にもやもやとした飲み下しきれない気持ちの悪さが疼く。

 朝飯食わずに来たからかな。

 そう自分をごまかしながらも、楽し気に盛り上がって話し込む深町とポニテ女子の隣を通って教室を出る気にもなれず、再び机に突っ伏す。

 このまま深町がポニテ女子と付き合った方が誰の目から見てもバランスの良いカップルになるだろう。所詮BLはファンタジー。現実は、小柄でにこにこ可愛く笑う女子の方が選ばれるのは自明の理だ。

 深町があの子と付き合ったら、…………。

 …………。

 数秒思考を停止させ、出た結論。

 ーー……普通に俺が、詰むっっ!!ーー

 深町が勉強教えるっつってたけど、基礎が入ってないって話で終わったまま結局何も対策とかしてねーし、新作のプロットも行き詰まってるし、校正も時間も手間もかかるし、最近では深町に投げっぱなしのSNS作品へのコメ確認巡回作業も自分でやんなきゃならなくなるし、背景とかプロップ(小物)とかに取り入れ始めた3Dモデリングソフト俺じゃ扱いきれないし、進路の相談とかも乗るっつってたけど、結局大学か専門かも決まってねーし。

 窮地に立たされていることに気付き、身体が無意識の内に小刻みに震える。

 まずい。非常にまずい。
 お付き合いってあれだよな? 友情より恋人優先する奴だよな?

 深町は面倒見が良いし誠実対応をモットーとしてるから、即座に見捨てられることは無いだろうが、彼女ができれば今まで通りに深町を占有することは難しくなるだろう。
 それに彼氏の友達がBL漫画描いてるなんて知られたら、無きにしも非ずの疑いをかけられて俺との接触を控えるように説得されるかもしれない。

 そうなれば、進学どころか進級すら危うい上に、いつ抜けるかもわからないスランプに陥ったまま漫画も仕上げられなくなった俺の未来なんて無に等しいんじゃないのか!?

 嫌な汗が止まらないのは暑さのせいばかりではない。

 ……決めた。こうなったら手段は選んでいられない。

 隣の席でまだ愚図っているセミを反面教師として、戦略を練る。スマホを開いて検索をかけていると、母さんから急な仕事が入ったので帰りが遅くなる、とのメッセージが入った。

 作戦実行には好都合だ。

 俺は夢の実現のためにはすべてを犠牲にする覚悟ができている。
 悪いな、深町。そして名も知らないポニテ女子。お前たちのそのささやかな恋路、打ち砕かせてもらうぞ。

 暗くなったスマホの画面に、不敵な笑みを浮かべる俺の顔が反射した。