先生、野田君の目が今日も死んでいます

「試験終わったからって、はしゃいで廊下走んなよー」
「はーい」

 背を向けたまま速足で適当に返し、廊下を曲がって担任からは見えなくなった途端に思わず走り出していた。
 腹の底から笑いが湧きあがる感覚。
 ドッグランで犬が楽し気に弾んで走る気持ちが今ならよくわかる。嬉しかったらちんたら歩いてなんていられない。
 体が浮かぶような感覚を覚えながら教室のドアを開けると、窓際の席に机を間に挟んで座る二人の女子生徒が驚いた表情でこちらを振り向いた。マニキュアを塗っていたのか独特の臭気が鼻腔を刺激する。

「あれぇ? 野田君だ」
「どうしたの? この時間に学校にいるなんて珍しいね」
「あ、ああ。ええと、うん」

 女子と喋るなんて業務連絡以外では高校入学以来初めてかも。名前も顔も覚えていないクラスメートに一方的に認知されていることに若干の居心地の悪さを感じながら深町の席に視線を送るが、すでに帰宅したのかその姿は見当たらない。

 まぁ待ち合わせていたわけじゃないし、メッセ送れば済む話なんだけどさ。

「あ、もしかして深町君探してる?」

 突然言い当てられ、セミロングの髪の女子の方を見ると、やっぱり? 最近2人仲良いよね、と、もう一人の茶髪のボブの子と笑顔で頷き合う。

「深町君ならまだ校内で野田君のこと待ってると思うよ。席に鞄残ってるし」

 ボブの子が指さした深町の机の横には確かに指定の通学鞄がぶら下がっていた。

「そうそう。さっきまで一緒にいたんだけどね。3組の野球部のマネージャーの子が来たら一緒に出ていっちゃって」
「ちょうど行き違いになっちゃったみたいだね」

 野球部の……。確か、深町が付き合ってたとかいう奴だ。

 セミロング女子が手を色んな角度に変えてマニキュアの仕上がりを確認しながら言う。

「あの2人付き合ってるんだっけ?」

「え? 私別れたって聞いたけど」とボブ。

「そうなの? だってさっき見た限りそんな別れた感無かったくない? ってか別れてからまともに話とかできる?」
「そりゃナミが毎回泥沼な別れ方するからでしょ。別に円満に別れて友達に戻ることもあるって。より戻すカプだっていくらでもいるしさ」
「嘘だぁ! 信じられーん! そんなの芸能人とかがビジネスのために綺麗事言う時の定型句でしょー?」

 大仰な仕草でセミロングが頭を抱えて首を横に振る。

「偏見えっぐ。万人が喧嘩別れするとは限らんのよ? ってかまだ固まってないんだから、大人しくライトあてなって。またガタガタに仕上がるよ」
「はぁい。あ! ほらほら。噂をすればのお2人様じゃない?」

 そう言ってセミロングが窓の外を指差した。
 陸上部とサッカー部が練習をしている第一グラウンドの隅を肩を並べて歩く、深町とハーフアップの女子。

「やっぱさ、付き合ってんだって! 別れたってのがガセでさ!」
「いや、あれただ荷物持ちしてあげてるだけでしょ」

 勝手に盛り上がるセミロングにボブは冷静に返す。

 俺もボブの意見に一票を投じる。夏休みの間ほぼ毎日のように顔を突き合わせてきたが、深町の言動からは彼女の気配は感じられなかった。
 何より最初に深町は言ったはずだ。野球部を辞めた時に別れたって。

 握っていた再々試験の答案がカサ、と音を立てる。
 気付いたら自然と足が動いていた。教室を飛び出し、廊下を走る。
 さっきまでの浮き立つ気持ちとは、全然違う。もわもわと飲み下しきれない真綿を喉の奥に詰め込まれたような、言い知れぬ不快感。
 靴を履き替えるのももどかしく、体育館への渡り廊下から上履きのまま第一グラウンドに走る。さっきまで2人が歩いていたと思しき場所に視線を移すが、すでに移動した後なのか姿は見当たらない。

 何やってるんだ。俺。

 熱気が残るグラウンド。埃っぽい砂煙に目を細め、肩で息をしながら、頬を伝う汗を手の甲で拭う。

「お前らこんな所で何やってるんだよ!」

 不意に聞こえた声に引き寄せられるように、俺はプレハブの部室が並ぶ第一グラウンドの一角に向かって走った。

 いた!

 校舎からは死角になるプレハブの部室前で、ユニフォームを着た男子生徒から庇うようにハーフアップの女子を背中に隠して対峙する深町。

「いい加減にしろよ一真! お前縒り戻したいのか知らねぇけど、村瀬に付き纏ったりして見苦しいんだよ!」
「旋人君やめて、そんなんじゃないから」

 いきり立つ男子生徒と困惑気味の女子生徒の狭間で深町はあくまで冷静に返す。

「縒り戻すとか、そんなつもりはなくて。俺はただ、村瀬に勉強のスケジュールとかマネジメント管理の話を教えて貰いたくて……」
「下心見え見えなんだよ! お前野球部辞めて急に成績上がったんだって? 別の戦略使えば村瀬ともう一遍やり直せるとでも思ってんのか!?」
「だから誤解だって」
「じゃあなんで今更こんな所でこそこそ会ってんだよ!! 知ってんだろ!? 今、村瀬が誰と付き合ってんのか!!」

 ユニフォーム姿の男子生徒は深町の胸倉を掴む。

「ちょっ……私、先生呼んで……」

 俺は身を翻した村瀬の横を通り、今にも殴り掛からんとする旋人の手をぱしり、と払い除けた。

「こんな所で何道草食ってんだ深町」
「の……野田……!」
「はぁ!? なんだお前!!」

 今度はこっちに食って掛かる旋人をじろりと睨めつける。

「お前こそ何なんだよ。さっきから聞いてりゃ人の話も聞かねーで。深町もそいつも縒り戻したがったりなんてしてねーだろ」
「おっ……! お前には関係無ぇよ!!」
「関係あるから口出しに来たんだろ。被害妄想も大概にしろよ。深町が言っただろ? 勉強のスケジュールとマネジメント管理の相談って」
「だから! それは村瀬に会うための口実で……。現にそんなの村瀬に聞かなくたって一真は成績も順調に上がってて……」

 突然の第三者の出現により戦意を削がれたのか、旋人の言葉に先ほどまでの勢いは無い。

 ふむ。もう一押しってところか。 

「馬鹿かお前。誰が深町の勉強の相談だっつったよ。これ見ろ」

 さっき受け取ったばかりの答案を旋人の目の前に突き出す。

「は……? 何だこれ。再、再試験……?」
「学業成績に問題があるのもスケジュール管理に問題があるのも、俺! 深町じゃねーの」
「だっ……だからって、……」
「ああ! もう! うじうじうっせぇな!!」

 俺が振り返ると、状況を理解できていない深町がきょとん、とした眼差しで見つめ返してくる。

 今までの経験上、深町は体幹が強い。少々俺が飛びかかろうが引っ張ろうが大概ぶれずに受け止めてしまう。だが、俺は知っている。



 深町は、脇腹が弱い。



 予告無しに深町の脇腹に人差し指を突き刺す。

 ……ぷす。

「ぅひゃうっ!! ちょっ!! 野田っ!! いきなり何を……」

 奇声をあげて体勢を崩し、前屈みになった深町の顔を両手で引っ掴んで唇にぐい、と唇を押し付けた。