先生、野田君の目が今日も死んでいます

 夢を見た。
 子供の頃から何度も繰り返し見続ける夢。

 大人たちは喪服を着て、だけど誰一人悲しんでいる様子は無かったから、たぶん会食を兼ねた法事の何回忌とかだったのだろう。

「龍くん。ちょっとお散歩行こっか」

 隣に座っていた愛梨姉に話しかけられて頷いた。
 付いて来ないのだろうかと振り返ったが、母さんは彫像のように姿勢を正したまま微動だにせず、自身の腕を握り締めて減りもしない机の上のグラスをじっと睨みつけていた。
 お斎の会場を後にして愛梨姉に手を引かれ、ホテルの申し訳程度の中庭に出る。中央にはひょろりとしたシンボルツリーが生え、その周囲を芝生が覆っていた。

「あいりねえちゃん。おじいちゃんってわるいことしたひとなの?」
「え? 何でそう思うの?」

 ぎょっとした顔で愛梨姉が振り返る。

「おじいちゃんのはなしになると、おかあさん、こわいかおになる」

 恐い顔、かぁ。と呟いて愛梨姉は笑う。

「姉さんは、父さんとちょっと性格が合わなかったからね。犯罪を犯したりするような人ではなかったけど」

 愛梨姉の言葉に一つ不安が消え、しかし次の疑問が浮かぶ。

「おまわりさんにつかまるようなことしてないのに、なんでおかあさんだけじゃなくておじいちゃんみんなにきらわれてるの?」
「ええ!? いやいや、嫌われてはないと思うよ? 少なくとも母さん、ええと、龍くんのおばあちゃんは嫌ってなかったし、私も、別に父さんのことは嫌ってない。人から恨みを買うような人ではなかったと思うけどな」
「じゃあなんでさっきのおじさんはおじいちゃんのことておくれっていったの?」

 酒に酔って顔を赤らめた遠縁らしいおじさんは祖父の遺影を引き合いに、芸大受験に失敗して浪人をしている子供がいるという夫婦に「もっと現実に目を向けさせてやらなきゃこんな風に手遅れになるぞ」と絡んでいた。

「うーんと、なんて、説明したらいいのか難しいんだけど……」

 愛梨姉はしゃがんで俺と目線を合わせる。

「姉さんの中では、『こんなお父さんだったらいいな』っていう『お父さん』のイメージがあったんだけど、現実の父さんはちょっとちゃらんぽらんっていうか、まぁ龍くんのお父さんとは真逆のタイプでさ。勤め人じゃないし、生活費とか子供の進学費とか勝手に使い込んじゃうし、他所の女のとこ……ってこれはまぁいいや。えーと、で、龍くんのおばあちゃんと、姉さんにすごくすごく大変な思いをさせたまま死んじゃったから、手遅れって言われちゃうんじゃないかな」
「ごめんねっていわなかったから?」
「たぶんね。でも、もしごめんって言えてたとしても、姉さんは父さんの事許せなかったと思う」

 謝っても許してもらえないこともあるのか。

「姉さんは頑張り屋で、他人にも厳しいけど、自分にも厳しいでしょ。昔から自分のやりたいことずっと我慢して、私や母さんのために頑張り続けてきたの。でも、姉さんの中ではその努力や我慢は本当は父さんの役目で、父さん役を押し付けられたような形に思えちゃってさ」
「おかあさんが、おとうさんやく?」
「んー。上手にまとめられないな。姉さんは、父さんに、自分が大切にされていないんじゃないかってずっと誤解し続けてるの。で、さっきみたいに親戚の人たちも、父さんが家族を大切にしない人だって誤解してる」
「おかあさんもさっきのおじさんもまちがえてるの?」

 いつも真面目で間違ったことをすると厳しく叱る母さんの姿と、酒に酔って周囲に絡む弛緩しきった赤ら顔のおじさんとの共通点が結びつかず、自然と頭が疑問に傾いていく。

「龍くんには、まだ難しいかな」

 向かい合った愛梨姉も、同じ角度に首を傾げる。

「こういうの、正解って無いんだと思う。同じ物を見ても、皆自分が見たいように物を見るから。少なくとも、父さんは姉さんのこと、大切に思ってたよ。龍くんが生まれた時も、父さん大喜びでさ。何か月も工房にこもりっきりで超大作を作り上げて。……まぁ、怒り狂った姉さんにぼっこぼこに作品ぶっ壊されちゃったんだけどさ……」

 母さんが祖父に怒りをぶつける姿を想像する方が、酔っ払った赤ら顔のおじさんと母さんの共通点を見つけ出すよりも容易にできた。

「父さんが姉さんに贈りたかった愛情と、姉さんが父さんから受け取りたかった愛情の形がずれちゃっただけ。私にとっては種類は違うけど、どっちも優しい人」

 まぁ私がそう言えるのも、姉さんが自分を犠牲にして私のために頑張ってくれたからなんだけどね、と口角を上げた愛梨姉の吹っ切れない顔。

 あれからどれくらい経っただろう。

 目に見えて両親から手をあげられたことは無い。制服や私服も、お小遣いも、食事も、困らない程度には与えられてきた。

 母さんは厳格で生真面目で融通が利かない人。父さんよりかは話もするし、最低限の近所付き合いもできる。笑いもするけど、外で会った他人のだらしなさやルールやマナーを軽視する姿勢に、勝手にイラついてる。
 もちろんその対象は他人だけではなく、父さんや俺自身に向けられることもある。折に触れて母さんの指の爪が食い込むほど握り締められることがあり、それが時間を置くと小さな痣になることが何度もあった。

 虐待、と呼ぶには曖昧な力加減で。
 でも、何事も無かった、とは言い切れない痛みで。

 たぶん、世間一般に見て、母さんの言っていることは正しいのだろう。

 家庭的とは言い難い家庭に育ち、自我を抑えて母と妹と助け、家庭を持ってからは清く正しく子供を導き、他人に迷惑をかけない生き方。

 理解はできる。
 母さんみたいな人ばかりになれば、世の中は正しく安全になり、犯罪や事故なんかも減るのだろう。
 なのに、時々――……。


 ………………。時々、どうしようもなく。


 ゆらりと闇が揺らいだ。

 母さんの望む正しい人生の先に幸福を見いだせない自分は、きっと間違っているんだ。

 足の爪先が少しずつ闇の中に溶け込み、感覚を失くしていく。

 でも母さんの正しさの枠に自分を当てはめた所で、俺に残されるものって何だろう?

 膝が、腰が、底なし沼のような闇に呑まれていく。

 ……『正しい人生』を送ること。それは、俺にとってどれだけ空虚なんだろう。

 腹が、肩が、顔が、抗うように伸ばした腕が、真っ黒な闇に沈む。



 このまま自分を手放してしまえば、行きつく先はーー……



 全身が闇に呑みこまれる直前、不意に最後に残っていた指先に、ほわりと熱が宿った。微かに握り返すと、その熱は力を帯びた人の手を形作り、ぎゅっと握り返してくる。

 優しく呼ぶ声。
 溺れてもがくように、俺はその手を必死に握り締めた。



「野田。大丈夫か?」

 そっと薄目を開くと、常夜灯の淡い光に照らされた馴染みの無い部屋の天井を背に、深町が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

「……あ、れ?」

 即座に状況が理解できず、起き上がって周囲をきょろきょろと見回す。部屋のあちこちに積み重ねられた本が並んでいた。

「よかったら1口飲みな」

 握りしめていた深町の手をそっと解放し、差し出されたペットボトルの水を飲んで、息をつく。
 幾分か落ち着いてきたので涙の筋が残る目元をごしごし擦る。

「あんまり強く擦るとものもらいできるぞ」

 俺の手と目の間に深町の手が割って入り、指の背で目元を優しく撫でた。

「怖い夢見た?」
「……うん」

 眠い。のに、寝るのが怖い。

 ここ数か月、ずっとこうだ。ベッドに入っても眠りが浅く、うなされて夜中に何度も目覚める。目が覚めたら覚めたで夢に引きずり込まれる感覚が恐ろしいので漫画を描く。で、日中眠くなってを繰り返し続けている。

「手冷えてるな。少しエアコンの温度下げ過ぎたか」
「なぁ。そっちで一緒に寝てもいい?」
「いいよ」

 先にベッドに上がって壁際に詰めた深町は、横向きに寝転んだままタオルケットを持ち上げて俺が入るスペースを作ってくれる。遠慮無くタオルケットの中に潜り込んだ。
 パジャマ代わりらしい深町のTシャツに顔を埋めてぐりぐり擦り付けると、そっと両肩を押さえられ、深町の体が壁際へと退いていった。

「……野田。言っとかなきゃいけないことがあるんだけど」
「……何?」

 眠さで不機嫌な俺は寝心地の良いクッションを取り上げられ、むきになって肩を押さえる手を払い除けて再び深町のTシャツに顔を埋める。柔軟剤の甘い匂いと弾力ある胸板。適度な温かさで気持ちが良い。

「……俺、たぶん野田のことが好きだ」

 夢と現のあわいで囁かれた言葉に、とろりと眠気が差してどうでもよくなっていた俺は適当に答える

「……。一時の気の迷いってやつだろ。いいから寝かせろよ」
「弱ってるとこ付け込むみたいで、ほんとこんなタイミングで言うつもりなんてなかったんだけど……。でも、だからこそ、そんなにくっつかれたら……」
「ああもう黙れよ。今せっかく気持ち良く眠れそうなんだって」

 再び壁際へと退こうとする深町が壁にゴン、と頭をぶつけた。
 俺は逃げられないように深町を壁までじりじりと押し切って胸板に顔を押し付けて背中に手を回し、片足を深町の腰に乗せて抱き枕代わりにホールドする

「だって今言わないと……こんなのって、こんなのって、生殺しだろぉっ!!」
「深町うるさい」

 深町の顔面をぴしゃりと平手で叩いて黙らせてから、回した腕に力をこめる。冷えた指先に温度が戻り、温泉にでも浸かっているかのようにほかほかと温まってゆく。
 自分の家より余程安心できる場所で、俺はゆっくりと深い眠りに落ちていった。



 翌朝久しぶりにスッキリと目覚めた俺は、正座で半泣きの深町を前に、申し訳程度の謝罪の言葉を述べた

「……だから、悪かったって」
「……もう野田とは一緒に寝ないからな」

 むくれて口を尖らせる深町の目の下にできたクマ。

「別にそんな怒るほどのことでもないだろ」
「やっぱり。野田はこれっぽっちも悪いとか思ってないよな」

 むぅ、と目に見えて深町がむくれあがる。

「ってかさ、俺が悪いの?」
「人の一世一代の告白を、普通黙れとか言うか?」
「あー……うん。ごめん。うん? いや。俺悪くねーわ。深町の告白のタイミングが悪いだろ」
「だってさ、意識してる相手にあんなにくっつかれたらさ、平常心でいられるわけないだろ! ちょっと離れてほしいって言おうとしてたのに、野田がぐいぐいくるから、俺、俺っ……!」

 その先が続かず黙り込んで項垂れる深町の視線の先を追うと、深町は正座のまま慌ててタオルケットで前を隠す。

「あー……。ただの条件反射っていうか、パブロフ犬っていうか。生理現象だろ、それ」

 っていうか俺も動揺し過ぎだろ。パブロフ犬って犬種かよ。秋田犬、柴犬、パブロフ犬。

 タオルケットを握り締めたままぶんぶんと勢いよく首を横に振る深町。

「あのさ。俺も朝そんなになることあるし、……えっと、俺関係無くね?」
「関係無くない!」

 深町は顔を赤らめて言い切った。

 うーん。どう言えば機嫌を直させたものか。

 沈黙に耐えかねたのかぽつりと深町が呟く。

「……ごめん。俺の勝手な言い分ばっかりで」
「え? あ、いや。まぁ、うん」
「野田が女の子好きなのは知ってるし、野田自身が望んでないことを無理矢理する気も無い。でも、俺の感情を条件反射とか生理現象とかでまとめてほしくない」

 えええ。こいつ本気かよ。

「あー……。んーと……。……深町の感情を蔑ろにするようなこと言ったのは、俺が悪かったよ。ごめん」

 深町は素直にこくりと頷いた。

「……あと、あんまり距離詰められすぎると自分でもどこまで我慢できるか自信が無い」
「いや。ある意味一番安全牌だろ」
「野田は意識しなさすぎんだろ! あれだけBL本読んで描いてしてるくせに!」
「2次元と現実は別物だし」
「……。なんでそこシビアに割り切れるんだよ……」

 深町が疲れ切った長い長いため息を吐いた。