先生、野田君の目が今日も死んでいます

「夕飯できてたから、よかったら一緒に食べようと思って持ってきた」

 返事より先に、お腹の音がぐぅ、と元気よく応じた。無言のまま二人で俺の胃袋のあたりを見つめる。

「足りなかったらお代わりもあるから」

 笑顔の深町が差し出したフォークを受け取り、口の中で、……どーも、と呟く。

 なんだ今日は。格好悪いとこばっか。

 美味しそうな湯気を立てる皿を手に、深町は行儀悪くずずっ、とパスタをすすった。真似をして皿のパスタにフォークを突き立て、口いっぱいに頬張る。バジルとニンニクが効いたエビがゴロゴロ入ったトマトパスタだった。

「愛梨さんから野田がこっちにいないかって連絡回って来てさ」

 んぐ、と口いっぱいに頬張ったパスタを詰まらせそうになる。

「大丈夫か? ほら、水飲め」

 差し出されたグラスの水を一気に飲み干した。

「なんでお前愛梨姉と連絡先交換してるんだよ」
「この前のイベントの時に『次のイベントでもお世話になるかもしれないから』って」
「言っとくけど、愛梨姉には聖さんがいるから狙っても駄目だからな」

 びしっ、と釘を刺したつもりだったが、深町の動揺の方向性は違っているようだ。

「え? あ、ああ。そんなつもりは無いんだけど。二人がご夫婦だってちゃんとわかってるし。SONOR先生の描く本が推しというか。俺としては愛梨さんより、えーと……」

 愛梨姉のペンネームを聞いてようやく状況を理解する。

「……ああ、そういうことか。それなら別にいい」

 愛梨姉自身にというより、愛梨姉が描いた本に関心があるタイプだ。

「えーと、話元に戻すぞ。んで、愛梨さんからだけど、もし野田がこっちにいるようだったら迎えにいこうか? って」

 差し出されたスマホ画面には深町と愛梨姉とのやりとりが表示されている。

 『龍くんと連絡がつかないみたいで』『今姉さん頭に血が上ってるみたいだから 少し時間を置いた方がいいみたい』と、俺自身のこともだが、愛梨姉が母さんを心配するようなメッセージも入っているのが見えた。

「まだ返事はしてないんだ。野田の意見を聞いてからにしようと思って。野田はどうしたい?」
「俺、は……」

 今家に帰るのは嫌だ。でも愛梨姉の所に行くと、母さんと俺の板挟みになって愛梨姉を困らせるのもわかってる。

 もやもやと答えが出ないまま視線を上げると、じっとこちらを見つめる深町と目が合った。

「野田。もしかして、なんだけどさ。親御さんと揉めた?」
「……。揉めたというより、話も聞かずに一方的に否定された。成績も進路も、漫画も、生活態度に関してもひっくるめて」

 否定されて簡単に夢を諦められたら、どれほど楽だっただろう。

「昔からそうなんだ。絵画コンクールで賞とかもらっても、そんなの将来何の役にも立たないでしょ、で終わり。勉強できなくて、漫画ばっかり読む俺は価値が無いんだって」

 自分で言って笑えてくる。というか、自虐的に笑うことしかできない。
 だからといって、母さんの求める「価値のある子」になるために全てを投げうって勉強に打ち込む気力も無い。

 長い間沈黙して考え込んでいた深町は、ぽつりと呟いた。

「野田。作戦会議をしないか?」

 俺は唐突な深町の提案に、作戦会議? とオウム返す。

「野田は漫画家になる夢を諦める必要が無く尚且つ親御さんとも上手くやる方法」
「……無理だよ。うちの親、両親共に『勤め人以外は人に非ず』って思考なんだ。特に母さんの方は昔から極端な『ゲージュツカアレルギー』でさ。母方のじいちゃん、芸術にのめりこんで家庭を省みない人だったんだって。小さい頃からそれが原因で苦労したとかで、フリーランスとかでも一切拒否られる」
「進学について親御さんと話したことは?」
「大学と専門学校のパンフレット破り捨てられた。前に学校の先生に相談して、先生経由で話してもらったこともあるけど、地雷だったらしくて母さんが学校に乗り込んできて『うちの子を路頭に迷わせる気か!』って啖呵切ってさ。家帰っても先生に相談を持ちかけたこと自体をずっと説教されて、ラノベとか実用書とかでも漫画っぽい表紙の奴は母さんが不機嫌になるから家に持ち込めなくて……」

 勝手に外されたブックカバーや図書館の利用履歴までチェックされた苦い記憶が蘇る。

「あのさ、野田はどこに目標を置いてる?」
「どこって?」
「『漫画家になること』が野田のゴールであって、『漫画を教えてくれる学校に行くこと』がゴールではないんだよな?」
「漫画家になるにはそれを教えてくれる学校に行くのが一番の近道だろ」
「そうだな。でも、今の野田の家庭環境では親御さんと話し合いの機会を持つことすら難しい状況なんだろ?」

 ぐぅの音も出ず、頷く。

「落ち着いて話を聞いてくれる親御さんなら進学後のOBの活躍とか、その道で食べていけてる前例やデータを提示することで説得できるかもしれないけど、野田の場合は別の方法を試してみる方がいいんじゃないかな」
「……何が言いたいんだよ」

 返す声が情けなく震える。

「野田の家ってバイトOKしてもらえそう?」

 首を横に振る。

「学生の本分は学業だからバイトする暇があれば勉強しろって言われる」
「未成年の住み込みの仕事は親の同意が得られないといけないし、やっぱり高校在学中は難しいか……。高校卒業してとりあえず稼げる仕事に就くってのも選択肢の一つではあるけど、拘束時間が長くなるから漫画を描く時間を割くのは難しくなるだろうし、大学か専門学校進学を考えてみないか?」

 落とした視線の先で組んだ俺の手が小刻みに震えていた。

「例えば絵に関する仕事、美術館のキュレーターとか図書館の司書であれば勤め人だし地方公務員扱いの所もある。漫画のストーリーに使える知識を集めるのなら大学の文学部や人文学部、教養学部なんかを選ぶと親御さんを説得させやすいと……」
「そうやってる間に他の奴らはどんどん漫画描いてデビューしてくんだ! 早く、早く始めないと……!」

 強く拳を握って言い返すが、深町も退く気配は無い。

「焦って身体壊してちゃ意味ないだろ。さっきみたいに具合が悪くなったりするのなら、尚の事今は衝突は避けるべきだ」

 なんだよ。深町なら味方になってくれるって、わかってくれるって思ったのに。

「……それって、漫画家になるための学校を諦めろってことだろ」
「違うよ。とりあえず親御さんには勤め人になるって姿勢を見せて、納得させる。でも、今やっている漫画作りは絶対にやめない。大学や専門出てから、漫画家コースのある学校に入り直したらいい。ダブルスクールを許可している学校であれば、在学中に夜間や通信コースがある学校と並行して通うことだってできるかもしれない」
「……それ、前に親が学校に乗り込んだ後で進路指導の先生にも言われた。『そんなに焦って進学先を絞らなくても、大学行って会社勤めしながら趣味で続ければいいじゃないか』って続く奴な。別の職業ならもっと真剣に考えてくれたんだろうけど、所詮はうちの両親と同じ。『漫画はあくまでお遊びでやるもんだ』って。……深町もわかった風なこと言って、結局あいつらと同じ考えなんだろ?」

 堪えても溢れた涙が次々と組んだ手に零れ落ちていく。

 大人ぶって夢を諦めてる奴がバカみたいだって言ったじゃん。
 挑戦してるの、格好良いって言ったじゃん。
 結局全部その場しのぎに俺をぬか喜びさせて、ガキくさいって心の中でバカにしてたんだろ。
 最悪だ。そういうのが一番キツい。

「……もういい。バカみたいなこと言って時間取って悪かった。やっぱ俺帰るわ」

 立ち上がって部屋を出ようとしたが、腕を掴まれる。

「待って野田」
「放せよ!」

 振りほどこうとした腕を引き寄せられて後ろから抱き竦められた。俺はムキになって前にテレビで見た不審者対策講習を参考に『両腕を挙げてしゃがむ』を実行しようとしたが、深町の手は交差してがっちりと俺の両肘をホールドしていてびくともしない。かくなる上は深町の足を力一杯踏んづけてやろうと片足を上げたところで、静かな声が鼓膜を揺らす。

「野田。最後まで話を聞いて」

 耳に息がかかる距離の声に、思わず身体が竦んだ。

「俺は漫画を趣味にしたらいいなんて思ってない。野田が本気で打ち込んできたのも知ってるし、読んでる人を喜ばせたい、もっと良い作品を作りたいって熱意を持ってることも知ってる。何より俺だって野田の作る漫画をもっと読みたいし、楽しみにしてる」

 喉の奥が震え、視界が涙で歪んでゆく。

「……っ! だったら……! なんで諦めろって言うんだよ!」
「むしろ諦めるなって言ってるんだよ! どんな手を使ってでも自分のやりたいこと貫くのが野田のやり方だろ? 野田の描いた漫画を楽しみに待ってる人のためにも、回り道をしてでも描き続けられる方法を一緒に考えよう」
「……意味、わかんねぇ」
「今親御さんの意見を突っぱねて野田の意見を無理矢理押し通して、すぐに漫画家になれると思うか? 親御さんの同意や協力が無いまま野田が希望する学校に通えるだけの進学費用は用意できるのか?」
「そ……れは、奨学金? とか、教育ローンとか……」
「これから先には制度が変わるかもしれないけど、今はまだ奨学金に所得制限がかかる。野田は一人っ子だから多子世帯支援制度も使えないし、教育ローンは保護者が申し込む制度だからご両親を説得しきれないなら利用は難しいと思う」
「…………」
「この前見せてもらったパンフレットの学校の住所、野田の家から通うには結構遠かったけど、通学の交通費、授業に必要な教材費、場合によっては一人暮らしの引っ越し費用とか生活費は?」

 淡々と告げられる言葉に考えの甘さを突き付けられ、下唇を噛む。

 こいつなんでこんなに詳しいんだよ。進路指導教官か。

「……どうせ俺は考え無しだよ」

 唇を尖らせて投げやりに言うと、頭のすぐ後ろで深町が首を横に振る気配がした。

「必要な制度や支援は調べるし、できる限り協力する。どんなに遠回りしてでも野田は諦めたりしないで。漫画の学校に通うことは一時的に保留にしてでも、最終目標はそこじゃないんだろ?」

 俺の、最終目標。

 目を閉じて深町の言葉をゆっくりと飲み込んでから、頷いた。
 背後からの拘束がふっと緩む。

「今は野田を守ることを最優先に考えたいんだ。自立が難しい間はできる限りの衝突は避ける方が得策だと思う。とりあえず親御さんが納得するような大学か専門学校に進学することを直近の目標にしないか? で、進学したら、学業と並行させながら漫画を描くんだ」

 深町の言葉に俺をバカにする気配は微塵も感じられない。

「ゆくゆくは野田が本当に進学を希望している学校に行くための準備を在学中に進めよう。ただしその場合の学費は自分で払うことになるって覚悟した方がいい。この前みたいに即売会やネットで本を販売して学費を稼ぐんだ」
「…………」
「今は苦しいと思う。でも、この苦しさは期間限定だ。ずっと続くわけじゃないよ」

 期間限定。

 振り返ると、深町が俺の目を真っ直ぐに見つめ返す。

「……大学、県外とか選べば一人暮らしとかできるかな。そうすれば、今よりもっと自由な時間が取れるよな」

 深町が口角を上げてそっと頷いた。

 俺は大きなため息を一つ吐く。
 自然と口元は笑っていた。無理に作った笑顔ではなく、降参の合図。

 諦めじゃない。これは、生存戦略だ。

「ずいぶん遠回りになるな」
「そうだな。でも考え方次第では、まともに野田の意見に向き合わなかった親御さんに一矢報いることができるんじゃないか?」
「どういう意味だよ」
「自分達が野田を支配してコントロールしていると思いきや、漫画家になるための踏み台に使われたと知った時の顔。想像するだけで、ちょっと痛快だろ?」

 いたずらを企む深町の瞳がきらきらと光る。

 おい、爽やかキャラはどこに行った? 意外と腹黒いじゃないか。

 でも深町の言うことにも一理ある。
 俺は親の言いなりになるために存在するんじゃない。あれだけ己の正義を振りかざして俺の夢を踏みにじろうとした両親の鼻を明かすなんて、どれだけ気分が良いだろう。

「乗った。長期計画で二人にぎゃふんと言わせてやる!」

 差し出した握りこぶしに深町が笑顔でこつんと握りこぶしを合わせる。

「最高の『ぎゃふん』楽しみにしてる」
「なんだそれ」

 深町の笑顔に泣き笑いで返す。

「……あーあ。回り道とかじゃなく、一直線に近道したかったなぁ……」

 諦めを含んだ笑顔でため息を吐く俺の背中を、深町の大きな手が優しくぽんぽんと叩く。

「回り道だけど、行き止まりじゃないから」
「こうなったら途轍もなく道草食ってやろ。最悪留年か休学か」
「まだ入学どころか高校卒業すらしてないのにその心意気もどうかと思うけどな」

 不意に俺のスマホがメッセージの着信を告げる。母さんは電話派だから、たぶん愛梨姉からだ。

 深町が「あ、そうだ!」と唐突にコミックを手に取って見せる。

「『艦黙』5巻から話が急展開するんだ。そこから登場するキャラが後々結構重要な役回りでさ、で、キャラデザインとか絶対野田が好きそうなんだよな。だから、早く読んでほしい!」
「何それ。布教活動?」
「そうそれ! だから、野田が嫌じゃなかったら今日泊まってかないか?」

 こいつ誘い方下手くそかよ。推しを薦めるには必死すぎる勢いと強張った笑顔に、ぷ、と笑いが口をついて出る。

「それ、どんなキャラ?」

 深町の表情が緩み、笑顔に変わる。

「オニャンコ大佐っていうんだけど、無類のスルメ好きでさ。簡単に賄賂とかで陥落できるチョロキャラなのに、なぜかめっちゃダンディ。あ、ここから先はネタバレしそうだから自分で読んで」
「仕方ないな。愛梨姉には深町んとこ泊まるって俺から連絡入れとく」
「やった!」

 愛梨姉のトーク画面を開いて『今日深町んとこ泊まるから 悪いけど母さんに連絡しといてもらえる?』と送信すると、即座にOKスタンプが返ってきた。

 一時しのぎでしかない。問題を先送りにしているだけだとわかっているけど、今はこうすることしか思いつかない。
 スマホを伏せて再びパスタに向かう。海鮮系のパスタは味付けが濃いめで美味かった。