終業式の日は消化試合みたいなもので、午前中に学校が終わった。チャイムと同時に、解放感に溢れた教室内は一気に賑やかになる。
俺の期末テストの結果は全教科、赤点回避。苦手な数学と英語に至っては過去最高点だ。
勉強中に分からないところがあっても、大衡にメッセージを送ればその都度教えてくれた。「何回教えれば覚えるんだよ」なんて文句を言いつつも、途中式までしっかり書いた写真を送ってくれたり、タイミングを合わせて通話してくれたり……かなり借りができてしまったけれど、いい結果が出て良かったと思う。
そして明日は約束のクリスマスイブ。楽しみと緊張が半々だ。
帰る前に一言かけようか、でもみんながいるところでクリスマスの話はしない方がいいよな……。そんなふうに迷っていたら、大衡の周りにはいつメンの男女が集まり始めた。
「大衡、明日のクリパ、やっぱ来れねーの?」
「バイトだって言っただろ」
「えー、休めよ、クリスマスくらい! バ畜かよ!」
下田がブーブー文句を垂れている。俺と会うなんて言ったらみんなに色々問い詰められるに決まっている。角が立たないように断るのも大変そうだ。
「ていうかさぁ、大衡くん去年もバイトって言ってなかった? ホントは彼女とデートとか?」
「違うから。彼女いねえし」
「怪しい〜!」
女子って恋バナ好きだよなぁ。誰が誰を好きだとか、誰と誰が付き合ってるとか。まあ大衡ほどのイケメンなら、付き合ってる人がいるのか気になるのも分かる気がする。
……俺たちは付き合ってなんかないけど。クリスマスに会うのだってデートとかじゃないし。ただ遊びに行くだけだし。
「大衡くん彼女いないなら、あたし立候補しようかな」
荷物をまとめてスクールバッグのファスナーを閉めた時、そんな声が聞こえた。思わず動きが止まる。なるべく存在感を消して横目で様子を窺うと、クラスで一番可愛い子が大衡にアピールしていた。
「あたし大衡くんなら全然アリだよ」
「いいじゃん、付き合っちゃえば?」
「何言ってんだよ、いきなり」
大衡は笑顔を貼り付けていたけれど、困っているように見えた。こんなの陽キャ特有のノリで、本気の告白なんかじゃない。そう分かっていてもつい聞き耳を立ててしまう。
「大衡みたいな国宝級イケメンがフリーなの、なんかのバグだろ」
「お前らも悪ノリすんなよ」
大衡は場の空気壊さずに躱そうとしている。これが大衡のやり方で、いつもそうやって受け流してきたんだと思う。
でも……曖昧な返事して、本当に付き合う流れになっちゃったらどうするんだよ。ちゃんと断れるのかよ。
そんな思いが浮かび、胃が重苦しくなる。
……どうして俺、モヤモヤしてるんだ?
「イケメンっていえばさぁ、昨日の推しの配信が神すぎて……」
別の話題に移ったみたいだ。ほっとしている自分に気づき、またその理由が分からなくて内心で首を傾げる。
最近ずっとこんな感じだ。大衡に小馬鹿にされるとムカつくのは相変わらずだけど、それ以外の時はなんだか胸がふわふわしたり、そわそわしたり……。うまく言葉にできない感覚がずっとある。
左右田と話せば気分転換になるかな。待たせるのも悪いからさっさと行こう。大衡とは明日会うんだし、今日絶対に話す必要もないし……しょうがないよな。そう自分に言い聞かせて廊下に出る。
隣の教室の扉に手をかけ、力を込めようとした時、後ろから「待てよ」と呼びかけられた。振り返れば大衡が立っていた。
「帰んのか」
「うん、これから友達と寄り道するから」
「へえ、友達いたんだな」
「隣のクラスにいるっていつも言ってるだろ」
知ってるくせに、こいつは……。俺を煽りに来たのか?
「つーか、なんか用?」
「明日、忘れてねえよな」
「覚えてるよ。大衡こそ遅刻するなよ」
「するか、お前じゃあるまいし」
「俺だって遅刻なんかしねーから!」
そんなにだらしないと思われてるのかよ、俺は。スマホのカレンダーにしっかり登録してるのに。
「いいから、早く戻れよ。大衡、ずいぶん人気あるみたいだし」
すっきりしない気持ちを引きずっているのか、どことなく嫌な言い方をした自覚はあった。しかし一度口から出た言葉は取り消せない。
大衡は一瞬だけ周りを見回すと、俺の頭に手を伸ばしてきた。また上から頭を押されるのかと身構えたら、予想に反して軽くぽんと触れられた。
「……そんな顔すんなよ。明日、ちゃんと行くから」
「……っ!」
びっくりして身体を引くと、大衡は「じゃあな」と背を向けて教室に戻っていった。
大衡の姿が見えなくなってから、何となく前髪をいじる。なんだよ、なんなんだよ、あいつ。それ言うために来たのかよ。
「俺、どんな顔してたんだよ……」
たったこれだけで、さっきまでのモヤモヤが薄れている自分を素直に認めたくない。
精一杯絞り出した声は廊下の喧騒に紛れて消えていった。
翌日、午前十一時。
ちょっと特別に電車で遠出して、港近くの観光地までやって来た。SNSでもよく話題になる人気のスポットで、街全体がクリスマスカラーに装飾されてキラキラしている。深く息を吸うと海風に乗った潮の香りを感じた。
昨夜は洋服を選んだり、待ち合わせ場所を何度も確認したり、放課後のことを思い出してまたちょっとモヤモヤしたりドキドキしたりを繰り返したせいで落ち着かなかった。結局今でもモヤモヤの正体はよく分からないままだ。
一人で部屋に籠もっているとまた余計な考え事をしてしまいそうで、かなり早めに家を出た。これなら遅刻もしないし安心だ。もし大衡が一分でも遅れたらいつもの仕返しで煽ってやろう。
そんなことを企みながら、待ち合わせ場所である駅直結のショッピングモールに向かうと、その入口には人混みでも一際目立つ姿があった。
……待ち合わせって三十分後だったよな?
「大衡、もう来てんの?」
声をかければ大衡はスマホの画面から顔を上げた。
「なんだ、思ってたより早いな」
「大衡こそだいぶ早いけど」
「俺はいいんだよ」
なんだそれ。意味分からん。
初めて見た大衡の私服は、膝丈のステンカラーコートにシャツとニットのレイヤード、ワイドパンツ。流行を押さえており、モノトーンを基調とした中にニットのベージュが差し色になっていてオシャレだ。
SNSでコーディネートの写真を見るのと、こうして顔を合わせるのでは全く印象が違う。同い年なのに大人っぽくて、ただ立っているだけで周囲の注目を集めている。
大衡は俺の頭のてっぺんから爪先に向かって目を動かした。
「お前の格好、俺の写真の真似したのか?」
「真似っていうか、参考にしてみたんだけど」
俺の服装は丈の長いコートにニット、太めのチノパン、スニーカー。カジュアルだけどラフすぎない、ゆるコーデだ。自分では結構いい感じだと思う。大衡とは身長と脚の長さは多少違うけど……誤差だろ、たぶん。
「……」
「……ど、どう?」
そんなにまじまじと見られると品定めされているようで緊張する。大衡は視線を何度か上下に往復させ、眉間に皺を寄せた。
「努力したのは一応分かるけど……あんま似合ってねえな」
「えっ」
「アイテム単体はいいけど、お前が着ると脚が短く見える。そもそもお前と俺じゃ体格が違うだろ。そのまんま真似しても似合わねえよ」
「はあ!?」
出会って五分も経っていないのにいきなりボロクソに言われた。俺には大衡ほどのセンスはない。でもそれなりに気合を入れたのに、せっかくのクリスマスなのに……ちょっとは褒めてほしかったのに。
「そ、そこまで言わなくていいだろ……」
悔しさのあまりそれ以上言い返せない。いきなり帰りたくなってきた。
気まずい沈黙の中、大衡は目を逸らしながら頭を掻いた。
「あー……」
「……」
「……悪い」
……え、あの大衡が謝った?
顔を上げると、大衡はすでに目の前のショッピングモールへ歩き出していた。距離が開きそうになり、慌てて追いかける。
「ど、どこ行くんだよ」
「お前、服屋見たいって言ってただろ」
「……もういいよ。無理して合わせてくれなくていいから」
「んなこと言ってねえ。早く来いよ、服選んでやる」
服? 大衡が俺の服を選ぶ? 憧れのインフルエンサーTakaくんに、マンツーマンでコーディネートしてもらえる……?
彼の正体はこの性悪な大衡だと分かっていても、夢のような状況につい贅沢さを感じてしまう己のファン心が憎かった。
まず訪れたのは十代から二十代に人気のアパレルショップだった。リーズナブルかつトレンドの服が揃っており、俺も好きな店だ。
大衡は店内を見回して、トップスやパンツを何着も手に取った。
「とりあえずこれ全部試着してみろ」
「こんなに?」
「着てみないと分かんねえんだよ、人の服選んだことねえから」
促されるままに試着室に入る。ひとまずボタンダウンシャツを着て、扉を開いて全身を見せた。
「こんな感じだけど」
大衡はしばらく俺をじっと見た後、「次」とだけ言った。良いのか悪いのかくらい言えよ。
次はパーカーとストレートパンツ。その次はスウェットとカーゴパンツ、そのまた次はマウンテンパーカー……まるで着せ替え人形みたいだ。
「まあまあだけど、ちょっと違うな……じゃあ次」
「まだ着んの?」
「あと少しだよ。一番似合うやつ選んでやる」
大衡の表情は真剣だった。ダメ出しはショックだったけれど、あれがいつもの意地悪とは違うことは俺にも分かる。きっと、ファッションに妥協しないからこそあんな言い方になったんだ。
本気で選んでくれているなら、俺も疲れたなんて言っていられないな。
その後もいくつか試着して、最終的にボアジャケットとテーパードパンツに決めた。元々着ていたニットに合わせると脚が長くすっきりとした印象に見える。分かっていたけれど、大衡は俺なんかより遥かにセンスが良いと改めて思った。これでもっと性格が良ければ文句無しなのに。
試着室から出てレジに並ぼうとしたら、大衡にカゴを奪われた。
「俺が払う」
「え、なんで?」
「いいから店の外で待ってろ」
有無を言わさない態度に疑問符を浮かべながらも、言われたとおりに入口で待つ。
大衡は気前がいい奴ではない。ポイントつけたかったのか? でもそんなにセコい奴でもないような……。
店頭に並ぶマネキンを眺めていたら、会計を終えた大衡が戻ってきた。手渡された紙袋の中には綺麗にラッピングされた包みが入っていた。
「これ……」
「やるよ。……今日、クリスマスだろ」
ってことは……これは俺へのクリスマスプレゼントだ。途端に照れくさくなり、大衡の顔が見られなくなる。
「元々服を渡すつもりだったけど、何が似合うか分かんなかったんだよ。だから今日選ぼうと思ってたのに、お前がらしくねえ格好してくるから……ついあんなこと言った」
大衡は俯き、数秒黙り込んだ。そしてぼそりと呟く。
「……言いすぎたけど」
不器用な反省の様子に、思わず口角が緩みそうになった。
素直じゃない言い方なのに、いつもみたいに腹が立たない。むしろくすぐったい気分だ。
「ほんと、それな。さっきのは言いすぎだろ」
「……」
「でも、俺もう怒ってないから……。ありがと、大衡」
顔を上げたのは二人同時で、一瞬合った目はすぐ逸らされた。
「……そろそろ腹減っただろ。なんか食いに行くか」
大衡の頬はうっすら赤くなっていた。
「おお、すげー……!」
俺の目の前には、三段重ねのリコッタパンケーキ。ホイップクリームとたくさんのフルーツがトッピングされた、写真映えする一皿だ。
昼食は俺のリクエストで人気のパンケーキ屋にやって来た。一人では入りにくくて来れなかったけれど、どうしても食べてみたかったのだ。
まず記念に写真を撮ろう。確か、高さがあるものは横から撮るんだったな。背景をぼかして、光を調整して……。
「いい感じかも」
スマホの画面を大衡に見せると、「良くなったな」と言われた。
「写真の練習したのか?」
「練習ってほどでもないけど……教えてもらった内容は、一応メモしてある」
「意外とマメだな」
嬉しそうな大衡の顔を見ていたら心がむずむずしてくる。
気を紛らわせようと、フォークとナイフを手に取る。ちょうどいいサイズに切ったパンケーキに、クリームとフルーツを載せて口の中へ。生地のもちもち食感と、甘みと酸味のバランスが絶妙だ。
「おいしい!」
「見てるこっちが胸焼けしそうだな」
大衡はエッグベネディクトパンケーキのポーチドエッグを崩しながら呆れ顔になった。
「そんなに甘すぎなくて食べやすいよ。大衡のは? 俺、甘くないパンケーキって食ったことないんだけど」
何の気なしに尋ねると、大衡は俺の顔と皿を交互に見た。そしてフォークに一欠片のパンケーキを刺してこちらに差し出してくる。
「一口やる」
「……え」
「食えよ」
食えって言われても……これは口を開けるべきなのか、それともフォークを手で受け取るべきなのか。どうしようと思いながら大衡の様子を窺うが、ただ俺を見つめているだけだ。
「おい、無視すんなよ。俺が馬鹿みたいだろ」
「た、食べるよ」
どちらが正解なのか分からない。迷いながら口を小さく開け、しかし顔を寄せる直前でフォークを奪うように取った。これでいいんだよな……?
大衡の視線を感じながら、大きめのパンケーキをぎこちなく口に運ぶ。とろりとした黄身が塩気のあるベーコンに絡み、俺のパンケーキとは全く違った味わいだ。
「うまいか?」
「うん、おいしい。こういうのもアリだな」
大衡は俺の言葉を受けて小さく笑うと、僅かに目線を外してカフェオレに口をつけた。
……なんだよ、今の。俺が深読みしすぎなだけ? それとも修学旅行の時の仕返し?
ていうか意識したの、俺だけかよ。別に意識してほしかったわけじゃないけど!
一人であたふたしたのが恥ずかしくて、俺はパンケーキの上のいちごをフォークで突き刺した。
食事を終えて、近くにあるクリスマスマーケットを覗いてみた。ドイツ料理やクリスマス雑貨の出店がずらりと並んでいて、見ているだけでもわくわくしてくる。
ローストビーフやシチューパン、ホットチョコレートに目移りしていると大衡に「まだ食うのかよ」と呆れられた。
「パンケーキ食ったばっかじゃねえか」
「いいんだよ、育ち盛りだから」
「育ってねえだろ」
「あーもー! それやめろ!」
頭をぐりぐりと撫でてくる手を振り払う。こいつは俺の身長をいじらないと気が済まないのかよ。俺をからかう時ばっかりいい笑顔になるあたり、本当に根性がねじ曲がった奴だ。
「お前はこのくらいのサイズ感でちょうどいいだろ」
「ふん、大衡なんか電車乗る時頭ぶつけちまえ」
乱れた髪を手で直していると、マーケットの一角に設置されたスケートリンクが目に入った。よく晴れた空の下で、大人から子どもまで楽しそうに滑っている。
「なあ、やってみない?」
「いいけど。お前、初めてか?」
「うん。せっかくだしやりたい」
上手くできるかは分からないけれど、子どもでも滑っているんだからたぶん大丈夫だろ。もしかしたら自分でも気づいていなかった才能に目覚めるかもしれないし!
……なんて思っていた俺が甘かった。
「うう……」
俺は人生初のスケートに苦戦していた。脳内のイメージでは優雅に滑れていたのに、いざ氷上に立ってみると、転んだら痛そうだという思いが先行してしまう。
一方、大衡は何度か経験があるらしくスイスイと滑っている。こんなところでも差をつけられるとは……。
亀並みの速度で手すりを伝って歩いていると、リンクを一周回ってきた大衡が俺の隣で止まった。
「まさか子どもより下手だとはな」
「う、うるさいな……初めてなんだよ」
「結構ビビリだよな、お前」
「怖くねえよ、慎重なだけだから!」
このまま馬鹿にされるだけじゃいられない。心を奮い立たせ、思い切って柵から手を離してみる。すると亀よりちょっとだけ速いスピードで滑り出した。
「できた!」
そのまま人の流れに沿って前へ前へと滑っていく。俺だってやればできる! でもどうやって止まるんだ?
「お、大衡……っ、うわぁ!?」
振り返った瞬間、ぐらりとバランスを崩した。
「馬鹿、危ねえって……!」
焦った声が聞こえ、身体が後ろに引かれる。それでも踏ん張りきれなくてどすんと尻餅をついた。……けど、覚悟していたより痛くない。
「いってーな……危ねえだろ」
大衡の声がやけに近く聞こえる。反射的に閉じていた目を開けてみれば、整った顔が目の前にあった。
俺は大衡を下敷きにして倒れ込んでいた。転んだ拍子に巻き込んでしまったらしい。
触れる吐息と、くっついた身体から伝わる体温に、距離の近さを思い知らされる。
「お前、下手くそなんだから気をつけろよ」
「ご、ごめん……!」
低い声が耳元で響き、心臓が壊れそうなほど早鐘を打つ。
立ち上がろうとするが、足元が滑って上手く力が入らない。大衡は先に体勢を立て直すと、ため息をついて俺に右手を差し出した。
「しょうがねえな、ほら」
「え……」
大衡の右手を見て、顔を見て、再度右手を見て。
もう一度大衡の顔に目を移してみれば、まっすぐな瞳が俺を見つめていた。
「……」
ただ手を取るだけだと分かっていても勇気が要る。
俺は躊躇いながらそっと右手を伸ばし、大衡の手に重ねた。大衡はその手を握り、ほんの少し顔を綻ばせた。
「あ、ありがとう」
身体を支えてもらいながら何とか立ち上がる。もう一度滑り出そうとしたら、今度は左手を握り直された。
「そのまま掴まってろよ」
「え、でも……」
「危なっかしくて見てらんねえ」
大衡は前を向くと、俺の手を軽く引いた。焦茶色の髪から覗く耳は赤くなっていた。
寒いから……じゃ、ないよな……。
「……分かった」
助けなんかいらない、一人で滑れる……強がる言葉が頭の中に浮かんでは消える。大衡も勇気を出したのかもしれないと思うと、どの言葉も相応しくない気がした。
「足元ばっかり見てると転ぶぞ。前見ろ」
手を引かれながらゆっくりとリンクを滑っていく。大衡は時々こちらを気にしつつバランスを取ってくれているようだ。
冷たい風が火照った頬を撫でる。転ばないためだから、そもそも握手みたいなものだから……と誰とはなしに弁解しながら、俺も強く握り返した。
「せめてこのくらい滑らないとつまんねえだろ」
「ちょ、あんまスピード出すなよ!」
風を切る速度が増し、クリスマスマーケットの景色が流れていく。まだちょっと怖い、けど……手を繋いでいれば大丈夫だとも思える。
「大衡、絶対離すなよ」
「それ、フリか?」
「ちげーよ!」
自然に笑う大衡を見ているうちに、俺も楽しくなってくる。
もう少しだけ、この手を離したくないと思った。
スケートに慣れ始めた頃には日が傾いていて、だんだん暗くなってきた。頬に触れる空気も冷たさを増している。
「そろそろ終わりにするか」
「……うん」
スケート靴を返却する時、繋いだ手が離れてわずかに寂しさを感じた。それを追い出すように一度頭を振る。なに考えてるんだよ、俺。
「この後どうする?」
「そうだな……」
大衡が何か言いかけた時、突然周囲から歓声が上がった。声の方を向いてみると、大きなツリーがライトアップされていた。ゴールドとシルバーのオーナメントがライトを反射し、辺りを明るく照らしている。
「うわ、すごい!」
近づいてみるとますますきれいに見えた。何枚か写真を撮り、しばらくその煌めきに見惚れる。大衡もスマホを構えながらツリーを見上げていた。
盗み見た横顔は光を受けて輝いている。何故だか脈が速くなってきた。
「なんか、今日の大衡……」
「なに」
「……何でもない」
喉から出かけた言葉を呑み込んだ。大衡は怪訝そうに俺を見ている。
今日の大衡はかっこよく見えるなんて、どうしちゃったんだろう、俺。こいつの顔の良さなんて今更なのに。
「ねえ、あの人イケメンじゃない?」
ふと、近くにいた女の子たちの声が聞こえた。大衡をちらちらと見て、俳優の誰々に似ているなんて小声で話している。
……やっぱり、モテるよな。学校でも告白されまくってるし。
人付き合いが好きじゃないって言っても、こんなにイケメンなら彼女くらいはいたことがあるんだろう。誰かとデートしたり、さっきみたいに手を繋いだり、抱きしめたり……。そんな想像をすると、息が上手く吸えなくなる。
大衡みたいな男だったら、本当は俺よりも、もっと可愛い子の方が――。
「小山」
「あっ、な、なに!?」
不意に顔を覗き込まれ、思わず大きな声が出てしまった。
「このあと時間あるか」
「え……あるけど、何?」
「……こっち」
大衡は人混みを縫って歩き始めた。
訳も分からずついていくと大きな観覧車に着いた。
SNSでクリスマスの映えスポットを探している時、この観覧車を紹介している投稿を見かけた。興味はあったけれど、ものすごい混雑でチケットがすぐ売り切れてしまうらしくて諦めていた。なによりいかにもデート感が溢れてすぎていて、行きたいとは言えなかったのだ。
「乗るの?」
「せっかく来たしな」
大衡は観覧車を見上げたまま答える。しかし案の定、チケット売場には「完売」の看板が出ていた。
「だめだ、売り切れてるよ」
「大丈夫だ、もう買ってある」
大衡は財布の中から完売しているはずのチケットを二枚取り出した。そして迷わず乗り場へ向かっていく。
少なくとも俺と合流してから買う時間はなかったはずだ。つまり、待ち合わせの前にわざわざ買っておいたというわけで……。
俺はようやく、大衡が早く来ていた理由を察した。
「お前のリクエストは叶えただろ。最後くらい付き合えよ」
今日は俺の希望の場所を中心に巡っていた。観覧車は、最後に残された大衡の希望。でも……いいのかな、俺と二人で。
「俺でいいの?」
ついそう漏らすと、大衡の眉が僅かに寄った。
「一人で乗れって言うのかよ」
「そうじゃないけど……」
大衡は俺でいいのか。俺は大衡でいいのか。どうしてここまで来て尻込みしてしまうんだろう。
言葉に詰まって俯くと、大衡は俺に一歩近づいた。
「……俺はお前と乗りたいんだよ」
「……!」
「お前は?」
大衡の背後では七色に光るゴンドラがゆっくりと回っていた。その光景は涙が出そうになるほど綺麗だった。
「お……俺も」
大衡からもらった紙袋の持ち手をぎゅっと強く握る。
「俺も、大衡と乗りたい」
順番を待つ間、会話は少なかったけれど気まずくなかった。
オレンジ色のゴンドラに乗り込み、向かい合って座る。地上の建物が徐々に小さくなり、都会の喧騒も遠ざかっていく。夜空には星が瞬き、眼下に広がる夜景はそれを映したようにきらきらと輝いていた。
大衡は長い脚を組んで窓から写真を撮った。
「撮れた?」
「ああ」
「そっか……」
大衡の目に、この景色はどう映っているんだろう。思い出に残る一日になったんだろうか。俺と過ごして良かったって、思ってくれたんだろうか。
ふと、先程まで俺たちがいたクリスマスマーケットとツリーが見えた。頂上まであと少しのようだ。
観覧車が下まで戻れば、今日はきっと解散だ。二人きりの時間は、あとわずか。向かい側に座ったままじゃ、手を伸ばしても届かない。
「……隣、来る?」
今しかないと思い、意を決してそう告げれば大衡は目を見開いた。
「ほら、こっちの方が景色がよく見えるから!」
慌てて言い訳じみたことを言うと、大衡の表情が緩んだ。
「なんだ、お前高いところも怖いのか?」
「怖くねーよ!」
「だよな。ナントカと煙は高いところが好きって言うしな」
こいつは口を開けば俺の悪口を言うように設計されてるのか? しかし今それは置いておく。
「いいじゃん。と、隣がいいんだよ……」
照れくさくて語尾が消える。大衡は「そうか」と呟きながら腰を上げ、俺の左隣に移動してきた。肩が触れ合うほどの距離に心拍数が上がる。
「あのさ、大衡、これ……」
俺はずっと渡せずにいたプレゼントを差し出した。
箱の中身は、茶色いレザーのイヤホンケースだ。クリスマスに会うと決まってから、何日も迷ってプレゼントを選んだ。
大衡の趣味のひとつは音楽を聴くこと。普段使いできるイヤホンケースなら喜んでもらえるかと思った。あれだけ服装にダメ出しされた後だと不安になってくるけれど、きっと渡せずに帰ったら後悔する。
「好みに合うか分かんないけど、一応SNS映えするものを選んだつもりだから」
大衡は受け取った箱をじっと見つめた。そして一旦目を伏せ、またすぐに俺を見る。
「どこにも載せねえよ」
「あ……そっか。そう、だよな」
やっぱり俺のセンスじゃダメなんだ。結構がんばって選んだんだけどな……。
鼻の奥がつんと痛んだ瞬間、頭をぽんぽんと軽く撫でられた。
「誰かに見せる必要ねえだろ。俺だけ知ってればいい」
「……!」
「……嬉しい。ありがとな」
大衡の指が俺の髪を梳いた。その動作が、昨日の放課後を思い起こさせる。
昨日もこんなふうに頭を撫でられた。ざわめく廊下、わざわざ追いかけてきた大衡、そして――。
「あ……俺……」
「ん?」
「なんか今日、変だ……」
今日だけじゃない。昨日も、その前も、ずっと変だ。胸が高鳴ったり、つかえたり、締めつけられたり、初めての感覚ばかりが襲ってくる。たぶん、友達相手にはこうならない。
「ムカつくこともいっぱいあるのに……大衡といて、楽しいって思う」
初めて、こんなに長い時間を二人きりで過ごした。最初はどうなるかと思ったけれど、今の言葉は本心だ。
「でも、ムカつくとか楽しいだけじゃなくて……他の人とも出かけてんのかなとか、もっとお似合いの人がいるんじゃないかなとか思ったら……」
コートの裾をぎゅっと握り締める。風の音も、ゴンドラが揺れて軋む音も、何も聞こえなくなる。
「よく分かんないけど、なんか、嫌だった」
大衡の気持ちを知ってから、ずっと自分の気持ちに整理をつけようとしてきた。けれど考えれば考えるほど、知らない感情がいくつも芽生えていく。
距離が近くなった嬉しさとか、他の人に対するわだかまりとか、あと一歩踏み出せない自信のなさとか……処理しきれない感情が思考を掻き乱してしまう。
大衡の方を直視できず、ただ景色を眺めるふりをする。窓に映る俺は情けない顔をしていた。
短い沈黙を破ったのは大衡だった。
「何を勘違いしたか知らねえけど、俺は初めてだから」
「な、何が?」
「誰かと二人で出かけるのも、クリスマスに会うのも」
「え、彼女いたことあるんじゃ……」
「ねえよ。今まで誰とも付き合ってない」
予想外の言葉に唖然としてしまう。大衡は真剣な声色のまま続ける。
「誘われたり声かけられたりすることはあるけど、お前以外と行くつもりないからな」
「で、でも、今日慣れてる感じだっただろ」
「何に?」
「……デ……デート……?」
「へえ、お前デートだと思ったのか」
「そういう意味じゃねーよ!」
咄嗟に反論するが、大衡はそれ以上俺をからかわず、脚を組み直した。
「色々調べて計画立てたんだよ。効率的に全部回れるように」
「なんでそこまで……」
「……クリスマスに二人で会うっつったら、期待するだろ……色々」
期待……してた? 何を、どこまで?
そっと顔を左に向ける。大衡は照れくさそうに一度咳払いをした。
「お前、俺のことどう思ってるんだよ」
「どうって……分かんないよ」
「本当に?」
大衡の瞳には俺が映っていた。射止められたように目が離せない。
「……嫌いだったら、クリスマスに会ったりしない……」
何とかそう絞り出したが、大衡は納得していないようだった。
「それじゃ分かんねえ」
「そんなこと言われても……」
「逃げんなよ、ばか」
そんなこと言われても、困る。だってこの想いを言葉にしてしまったら……全部を認めることになる。
「こ、こんな時くらい馬鹿って言うな」
「お前がいつまでもはっきりしないからだろ」
「真剣に考えてるからだよ!」
ああもう、なんだよこいつ。優しいんだか意地悪なんだか分からない。
「つーか、はっきりしないのは大衡もだろ! 俺一回も大衡の気持ち聞いてないんだけど!」
大衡の気持ちはSNSで知っただけで、まだ言葉にされていない。なのに俺にばっかり言わせようとしやがって……!
「今更言わなくても分かってるだろ」
「そういう問題じゃねーよ、大衡こそ大事なことはちゃんと直接言えよ! DMでしか告白できない中学生かお前は!」
「……」
大衡は俺を見つめながら少し考え込んで、「それもそうだな」と言った。
膝の上で握っていた拳を包み込むように、温かい手が重なる。
「小山」
「う……はい……」
「お前が好きだ」
「……っ」
「馬鹿でうるさくて……俺をちゃんと見てくれて、受け入れてくれるお前が好きだ」
分かっていても、言葉にされるとやっぱり込み上げるものがあった。
……あー、どうしてこうなっちゃったんだろう。俺はただ憧れのインフルエンサーをフォローしていただけで、ムカつく同級生と言い合いをしていただけで、優しくて可愛い彼女が欲しかっただけなのに。それなのに……。
俺は腹を括り、大きく息を吸った。
「俺も好きだよ、ばーか!」
大衡の胸に飛び込んで肩口に顔を埋めると、大衡は嬉しそうにはにかんで、俺の身体を抱きしめた。
「返事おせーよ、待たせすぎだ」
「う……うるさいな、しょうがないだろ……」
「でも……もういい。全部吹っ飛んだから」
ぎゅっと力を込められて身体が密着する。俺は腕の置き場に困って宙を彷徨わせ、やがてそっと大衡の背中に回した。
大衡は少しだけ身体を離し、俺の右頬に手を添えた。
「今更『やっぱやめた』とか言うなよ」
「言わないよ。……ちゃんと、好きだから」
鼓動の音にかき消されないよう、全部伝わるよう、目と目を合わせて告げると大衡は満足げに笑った。それは初めて見る表情だった。
頬から顎に手が移動して軽く持ち上げられる。それが何を意味しているのか、説明は要らなかった。
どきどきしすぎて、呼吸の仕方さえ分からなくなる。
大衡の顔がゆっくり近づいてきて――思わず息を止め、瞼を閉じていた。
唇に柔らかいものが触れる。永遠にも感じられる数秒間、そして顔が離れて、ゆっくりと目を開ければ至近距離で視線が交わった。
「俺も好きだ」
耳元で囁かれた声は夜の静寂に甘く響いた。
俺の期末テストの結果は全教科、赤点回避。苦手な数学と英語に至っては過去最高点だ。
勉強中に分からないところがあっても、大衡にメッセージを送ればその都度教えてくれた。「何回教えれば覚えるんだよ」なんて文句を言いつつも、途中式までしっかり書いた写真を送ってくれたり、タイミングを合わせて通話してくれたり……かなり借りができてしまったけれど、いい結果が出て良かったと思う。
そして明日は約束のクリスマスイブ。楽しみと緊張が半々だ。
帰る前に一言かけようか、でもみんながいるところでクリスマスの話はしない方がいいよな……。そんなふうに迷っていたら、大衡の周りにはいつメンの男女が集まり始めた。
「大衡、明日のクリパ、やっぱ来れねーの?」
「バイトだって言っただろ」
「えー、休めよ、クリスマスくらい! バ畜かよ!」
下田がブーブー文句を垂れている。俺と会うなんて言ったらみんなに色々問い詰められるに決まっている。角が立たないように断るのも大変そうだ。
「ていうかさぁ、大衡くん去年もバイトって言ってなかった? ホントは彼女とデートとか?」
「違うから。彼女いねえし」
「怪しい〜!」
女子って恋バナ好きだよなぁ。誰が誰を好きだとか、誰と誰が付き合ってるとか。まあ大衡ほどのイケメンなら、付き合ってる人がいるのか気になるのも分かる気がする。
……俺たちは付き合ってなんかないけど。クリスマスに会うのだってデートとかじゃないし。ただ遊びに行くだけだし。
「大衡くん彼女いないなら、あたし立候補しようかな」
荷物をまとめてスクールバッグのファスナーを閉めた時、そんな声が聞こえた。思わず動きが止まる。なるべく存在感を消して横目で様子を窺うと、クラスで一番可愛い子が大衡にアピールしていた。
「あたし大衡くんなら全然アリだよ」
「いいじゃん、付き合っちゃえば?」
「何言ってんだよ、いきなり」
大衡は笑顔を貼り付けていたけれど、困っているように見えた。こんなの陽キャ特有のノリで、本気の告白なんかじゃない。そう分かっていてもつい聞き耳を立ててしまう。
「大衡みたいな国宝級イケメンがフリーなの、なんかのバグだろ」
「お前らも悪ノリすんなよ」
大衡は場の空気壊さずに躱そうとしている。これが大衡のやり方で、いつもそうやって受け流してきたんだと思う。
でも……曖昧な返事して、本当に付き合う流れになっちゃったらどうするんだよ。ちゃんと断れるのかよ。
そんな思いが浮かび、胃が重苦しくなる。
……どうして俺、モヤモヤしてるんだ?
「イケメンっていえばさぁ、昨日の推しの配信が神すぎて……」
別の話題に移ったみたいだ。ほっとしている自分に気づき、またその理由が分からなくて内心で首を傾げる。
最近ずっとこんな感じだ。大衡に小馬鹿にされるとムカつくのは相変わらずだけど、それ以外の時はなんだか胸がふわふわしたり、そわそわしたり……。うまく言葉にできない感覚がずっとある。
左右田と話せば気分転換になるかな。待たせるのも悪いからさっさと行こう。大衡とは明日会うんだし、今日絶対に話す必要もないし……しょうがないよな。そう自分に言い聞かせて廊下に出る。
隣の教室の扉に手をかけ、力を込めようとした時、後ろから「待てよ」と呼びかけられた。振り返れば大衡が立っていた。
「帰んのか」
「うん、これから友達と寄り道するから」
「へえ、友達いたんだな」
「隣のクラスにいるっていつも言ってるだろ」
知ってるくせに、こいつは……。俺を煽りに来たのか?
「つーか、なんか用?」
「明日、忘れてねえよな」
「覚えてるよ。大衡こそ遅刻するなよ」
「するか、お前じゃあるまいし」
「俺だって遅刻なんかしねーから!」
そんなにだらしないと思われてるのかよ、俺は。スマホのカレンダーにしっかり登録してるのに。
「いいから、早く戻れよ。大衡、ずいぶん人気あるみたいだし」
すっきりしない気持ちを引きずっているのか、どことなく嫌な言い方をした自覚はあった。しかし一度口から出た言葉は取り消せない。
大衡は一瞬だけ周りを見回すと、俺の頭に手を伸ばしてきた。また上から頭を押されるのかと身構えたら、予想に反して軽くぽんと触れられた。
「……そんな顔すんなよ。明日、ちゃんと行くから」
「……っ!」
びっくりして身体を引くと、大衡は「じゃあな」と背を向けて教室に戻っていった。
大衡の姿が見えなくなってから、何となく前髪をいじる。なんだよ、なんなんだよ、あいつ。それ言うために来たのかよ。
「俺、どんな顔してたんだよ……」
たったこれだけで、さっきまでのモヤモヤが薄れている自分を素直に認めたくない。
精一杯絞り出した声は廊下の喧騒に紛れて消えていった。
翌日、午前十一時。
ちょっと特別に電車で遠出して、港近くの観光地までやって来た。SNSでもよく話題になる人気のスポットで、街全体がクリスマスカラーに装飾されてキラキラしている。深く息を吸うと海風に乗った潮の香りを感じた。
昨夜は洋服を選んだり、待ち合わせ場所を何度も確認したり、放課後のことを思い出してまたちょっとモヤモヤしたりドキドキしたりを繰り返したせいで落ち着かなかった。結局今でもモヤモヤの正体はよく分からないままだ。
一人で部屋に籠もっているとまた余計な考え事をしてしまいそうで、かなり早めに家を出た。これなら遅刻もしないし安心だ。もし大衡が一分でも遅れたらいつもの仕返しで煽ってやろう。
そんなことを企みながら、待ち合わせ場所である駅直結のショッピングモールに向かうと、その入口には人混みでも一際目立つ姿があった。
……待ち合わせって三十分後だったよな?
「大衡、もう来てんの?」
声をかければ大衡はスマホの画面から顔を上げた。
「なんだ、思ってたより早いな」
「大衡こそだいぶ早いけど」
「俺はいいんだよ」
なんだそれ。意味分からん。
初めて見た大衡の私服は、膝丈のステンカラーコートにシャツとニットのレイヤード、ワイドパンツ。流行を押さえており、モノトーンを基調とした中にニットのベージュが差し色になっていてオシャレだ。
SNSでコーディネートの写真を見るのと、こうして顔を合わせるのでは全く印象が違う。同い年なのに大人っぽくて、ただ立っているだけで周囲の注目を集めている。
大衡は俺の頭のてっぺんから爪先に向かって目を動かした。
「お前の格好、俺の写真の真似したのか?」
「真似っていうか、参考にしてみたんだけど」
俺の服装は丈の長いコートにニット、太めのチノパン、スニーカー。カジュアルだけどラフすぎない、ゆるコーデだ。自分では結構いい感じだと思う。大衡とは身長と脚の長さは多少違うけど……誤差だろ、たぶん。
「……」
「……ど、どう?」
そんなにまじまじと見られると品定めされているようで緊張する。大衡は視線を何度か上下に往復させ、眉間に皺を寄せた。
「努力したのは一応分かるけど……あんま似合ってねえな」
「えっ」
「アイテム単体はいいけど、お前が着ると脚が短く見える。そもそもお前と俺じゃ体格が違うだろ。そのまんま真似しても似合わねえよ」
「はあ!?」
出会って五分も経っていないのにいきなりボロクソに言われた。俺には大衡ほどのセンスはない。でもそれなりに気合を入れたのに、せっかくのクリスマスなのに……ちょっとは褒めてほしかったのに。
「そ、そこまで言わなくていいだろ……」
悔しさのあまりそれ以上言い返せない。いきなり帰りたくなってきた。
気まずい沈黙の中、大衡は目を逸らしながら頭を掻いた。
「あー……」
「……」
「……悪い」
……え、あの大衡が謝った?
顔を上げると、大衡はすでに目の前のショッピングモールへ歩き出していた。距離が開きそうになり、慌てて追いかける。
「ど、どこ行くんだよ」
「お前、服屋見たいって言ってただろ」
「……もういいよ。無理して合わせてくれなくていいから」
「んなこと言ってねえ。早く来いよ、服選んでやる」
服? 大衡が俺の服を選ぶ? 憧れのインフルエンサーTakaくんに、マンツーマンでコーディネートしてもらえる……?
彼の正体はこの性悪な大衡だと分かっていても、夢のような状況につい贅沢さを感じてしまう己のファン心が憎かった。
まず訪れたのは十代から二十代に人気のアパレルショップだった。リーズナブルかつトレンドの服が揃っており、俺も好きな店だ。
大衡は店内を見回して、トップスやパンツを何着も手に取った。
「とりあえずこれ全部試着してみろ」
「こんなに?」
「着てみないと分かんねえんだよ、人の服選んだことねえから」
促されるままに試着室に入る。ひとまずボタンダウンシャツを着て、扉を開いて全身を見せた。
「こんな感じだけど」
大衡はしばらく俺をじっと見た後、「次」とだけ言った。良いのか悪いのかくらい言えよ。
次はパーカーとストレートパンツ。その次はスウェットとカーゴパンツ、そのまた次はマウンテンパーカー……まるで着せ替え人形みたいだ。
「まあまあだけど、ちょっと違うな……じゃあ次」
「まだ着んの?」
「あと少しだよ。一番似合うやつ選んでやる」
大衡の表情は真剣だった。ダメ出しはショックだったけれど、あれがいつもの意地悪とは違うことは俺にも分かる。きっと、ファッションに妥協しないからこそあんな言い方になったんだ。
本気で選んでくれているなら、俺も疲れたなんて言っていられないな。
その後もいくつか試着して、最終的にボアジャケットとテーパードパンツに決めた。元々着ていたニットに合わせると脚が長くすっきりとした印象に見える。分かっていたけれど、大衡は俺なんかより遥かにセンスが良いと改めて思った。これでもっと性格が良ければ文句無しなのに。
試着室から出てレジに並ぼうとしたら、大衡にカゴを奪われた。
「俺が払う」
「え、なんで?」
「いいから店の外で待ってろ」
有無を言わさない態度に疑問符を浮かべながらも、言われたとおりに入口で待つ。
大衡は気前がいい奴ではない。ポイントつけたかったのか? でもそんなにセコい奴でもないような……。
店頭に並ぶマネキンを眺めていたら、会計を終えた大衡が戻ってきた。手渡された紙袋の中には綺麗にラッピングされた包みが入っていた。
「これ……」
「やるよ。……今日、クリスマスだろ」
ってことは……これは俺へのクリスマスプレゼントだ。途端に照れくさくなり、大衡の顔が見られなくなる。
「元々服を渡すつもりだったけど、何が似合うか分かんなかったんだよ。だから今日選ぼうと思ってたのに、お前がらしくねえ格好してくるから……ついあんなこと言った」
大衡は俯き、数秒黙り込んだ。そしてぼそりと呟く。
「……言いすぎたけど」
不器用な反省の様子に、思わず口角が緩みそうになった。
素直じゃない言い方なのに、いつもみたいに腹が立たない。むしろくすぐったい気分だ。
「ほんと、それな。さっきのは言いすぎだろ」
「……」
「でも、俺もう怒ってないから……。ありがと、大衡」
顔を上げたのは二人同時で、一瞬合った目はすぐ逸らされた。
「……そろそろ腹減っただろ。なんか食いに行くか」
大衡の頬はうっすら赤くなっていた。
「おお、すげー……!」
俺の目の前には、三段重ねのリコッタパンケーキ。ホイップクリームとたくさんのフルーツがトッピングされた、写真映えする一皿だ。
昼食は俺のリクエストで人気のパンケーキ屋にやって来た。一人では入りにくくて来れなかったけれど、どうしても食べてみたかったのだ。
まず記念に写真を撮ろう。確か、高さがあるものは横から撮るんだったな。背景をぼかして、光を調整して……。
「いい感じかも」
スマホの画面を大衡に見せると、「良くなったな」と言われた。
「写真の練習したのか?」
「練習ってほどでもないけど……教えてもらった内容は、一応メモしてある」
「意外とマメだな」
嬉しそうな大衡の顔を見ていたら心がむずむずしてくる。
気を紛らわせようと、フォークとナイフを手に取る。ちょうどいいサイズに切ったパンケーキに、クリームとフルーツを載せて口の中へ。生地のもちもち食感と、甘みと酸味のバランスが絶妙だ。
「おいしい!」
「見てるこっちが胸焼けしそうだな」
大衡はエッグベネディクトパンケーキのポーチドエッグを崩しながら呆れ顔になった。
「そんなに甘すぎなくて食べやすいよ。大衡のは? 俺、甘くないパンケーキって食ったことないんだけど」
何の気なしに尋ねると、大衡は俺の顔と皿を交互に見た。そしてフォークに一欠片のパンケーキを刺してこちらに差し出してくる。
「一口やる」
「……え」
「食えよ」
食えって言われても……これは口を開けるべきなのか、それともフォークを手で受け取るべきなのか。どうしようと思いながら大衡の様子を窺うが、ただ俺を見つめているだけだ。
「おい、無視すんなよ。俺が馬鹿みたいだろ」
「た、食べるよ」
どちらが正解なのか分からない。迷いながら口を小さく開け、しかし顔を寄せる直前でフォークを奪うように取った。これでいいんだよな……?
大衡の視線を感じながら、大きめのパンケーキをぎこちなく口に運ぶ。とろりとした黄身が塩気のあるベーコンに絡み、俺のパンケーキとは全く違った味わいだ。
「うまいか?」
「うん、おいしい。こういうのもアリだな」
大衡は俺の言葉を受けて小さく笑うと、僅かに目線を外してカフェオレに口をつけた。
……なんだよ、今の。俺が深読みしすぎなだけ? それとも修学旅行の時の仕返し?
ていうか意識したの、俺だけかよ。別に意識してほしかったわけじゃないけど!
一人であたふたしたのが恥ずかしくて、俺はパンケーキの上のいちごをフォークで突き刺した。
食事を終えて、近くにあるクリスマスマーケットを覗いてみた。ドイツ料理やクリスマス雑貨の出店がずらりと並んでいて、見ているだけでもわくわくしてくる。
ローストビーフやシチューパン、ホットチョコレートに目移りしていると大衡に「まだ食うのかよ」と呆れられた。
「パンケーキ食ったばっかじゃねえか」
「いいんだよ、育ち盛りだから」
「育ってねえだろ」
「あーもー! それやめろ!」
頭をぐりぐりと撫でてくる手を振り払う。こいつは俺の身長をいじらないと気が済まないのかよ。俺をからかう時ばっかりいい笑顔になるあたり、本当に根性がねじ曲がった奴だ。
「お前はこのくらいのサイズ感でちょうどいいだろ」
「ふん、大衡なんか電車乗る時頭ぶつけちまえ」
乱れた髪を手で直していると、マーケットの一角に設置されたスケートリンクが目に入った。よく晴れた空の下で、大人から子どもまで楽しそうに滑っている。
「なあ、やってみない?」
「いいけど。お前、初めてか?」
「うん。せっかくだしやりたい」
上手くできるかは分からないけれど、子どもでも滑っているんだからたぶん大丈夫だろ。もしかしたら自分でも気づいていなかった才能に目覚めるかもしれないし!
……なんて思っていた俺が甘かった。
「うう……」
俺は人生初のスケートに苦戦していた。脳内のイメージでは優雅に滑れていたのに、いざ氷上に立ってみると、転んだら痛そうだという思いが先行してしまう。
一方、大衡は何度か経験があるらしくスイスイと滑っている。こんなところでも差をつけられるとは……。
亀並みの速度で手すりを伝って歩いていると、リンクを一周回ってきた大衡が俺の隣で止まった。
「まさか子どもより下手だとはな」
「う、うるさいな……初めてなんだよ」
「結構ビビリだよな、お前」
「怖くねえよ、慎重なだけだから!」
このまま馬鹿にされるだけじゃいられない。心を奮い立たせ、思い切って柵から手を離してみる。すると亀よりちょっとだけ速いスピードで滑り出した。
「できた!」
そのまま人の流れに沿って前へ前へと滑っていく。俺だってやればできる! でもどうやって止まるんだ?
「お、大衡……っ、うわぁ!?」
振り返った瞬間、ぐらりとバランスを崩した。
「馬鹿、危ねえって……!」
焦った声が聞こえ、身体が後ろに引かれる。それでも踏ん張りきれなくてどすんと尻餅をついた。……けど、覚悟していたより痛くない。
「いってーな……危ねえだろ」
大衡の声がやけに近く聞こえる。反射的に閉じていた目を開けてみれば、整った顔が目の前にあった。
俺は大衡を下敷きにして倒れ込んでいた。転んだ拍子に巻き込んでしまったらしい。
触れる吐息と、くっついた身体から伝わる体温に、距離の近さを思い知らされる。
「お前、下手くそなんだから気をつけろよ」
「ご、ごめん……!」
低い声が耳元で響き、心臓が壊れそうなほど早鐘を打つ。
立ち上がろうとするが、足元が滑って上手く力が入らない。大衡は先に体勢を立て直すと、ため息をついて俺に右手を差し出した。
「しょうがねえな、ほら」
「え……」
大衡の右手を見て、顔を見て、再度右手を見て。
もう一度大衡の顔に目を移してみれば、まっすぐな瞳が俺を見つめていた。
「……」
ただ手を取るだけだと分かっていても勇気が要る。
俺は躊躇いながらそっと右手を伸ばし、大衡の手に重ねた。大衡はその手を握り、ほんの少し顔を綻ばせた。
「あ、ありがとう」
身体を支えてもらいながら何とか立ち上がる。もう一度滑り出そうとしたら、今度は左手を握り直された。
「そのまま掴まってろよ」
「え、でも……」
「危なっかしくて見てらんねえ」
大衡は前を向くと、俺の手を軽く引いた。焦茶色の髪から覗く耳は赤くなっていた。
寒いから……じゃ、ないよな……。
「……分かった」
助けなんかいらない、一人で滑れる……強がる言葉が頭の中に浮かんでは消える。大衡も勇気を出したのかもしれないと思うと、どの言葉も相応しくない気がした。
「足元ばっかり見てると転ぶぞ。前見ろ」
手を引かれながらゆっくりとリンクを滑っていく。大衡は時々こちらを気にしつつバランスを取ってくれているようだ。
冷たい風が火照った頬を撫でる。転ばないためだから、そもそも握手みたいなものだから……と誰とはなしに弁解しながら、俺も強く握り返した。
「せめてこのくらい滑らないとつまんねえだろ」
「ちょ、あんまスピード出すなよ!」
風を切る速度が増し、クリスマスマーケットの景色が流れていく。まだちょっと怖い、けど……手を繋いでいれば大丈夫だとも思える。
「大衡、絶対離すなよ」
「それ、フリか?」
「ちげーよ!」
自然に笑う大衡を見ているうちに、俺も楽しくなってくる。
もう少しだけ、この手を離したくないと思った。
スケートに慣れ始めた頃には日が傾いていて、だんだん暗くなってきた。頬に触れる空気も冷たさを増している。
「そろそろ終わりにするか」
「……うん」
スケート靴を返却する時、繋いだ手が離れてわずかに寂しさを感じた。それを追い出すように一度頭を振る。なに考えてるんだよ、俺。
「この後どうする?」
「そうだな……」
大衡が何か言いかけた時、突然周囲から歓声が上がった。声の方を向いてみると、大きなツリーがライトアップされていた。ゴールドとシルバーのオーナメントがライトを反射し、辺りを明るく照らしている。
「うわ、すごい!」
近づいてみるとますますきれいに見えた。何枚か写真を撮り、しばらくその煌めきに見惚れる。大衡もスマホを構えながらツリーを見上げていた。
盗み見た横顔は光を受けて輝いている。何故だか脈が速くなってきた。
「なんか、今日の大衡……」
「なに」
「……何でもない」
喉から出かけた言葉を呑み込んだ。大衡は怪訝そうに俺を見ている。
今日の大衡はかっこよく見えるなんて、どうしちゃったんだろう、俺。こいつの顔の良さなんて今更なのに。
「ねえ、あの人イケメンじゃない?」
ふと、近くにいた女の子たちの声が聞こえた。大衡をちらちらと見て、俳優の誰々に似ているなんて小声で話している。
……やっぱり、モテるよな。学校でも告白されまくってるし。
人付き合いが好きじゃないって言っても、こんなにイケメンなら彼女くらいはいたことがあるんだろう。誰かとデートしたり、さっきみたいに手を繋いだり、抱きしめたり……。そんな想像をすると、息が上手く吸えなくなる。
大衡みたいな男だったら、本当は俺よりも、もっと可愛い子の方が――。
「小山」
「あっ、な、なに!?」
不意に顔を覗き込まれ、思わず大きな声が出てしまった。
「このあと時間あるか」
「え……あるけど、何?」
「……こっち」
大衡は人混みを縫って歩き始めた。
訳も分からずついていくと大きな観覧車に着いた。
SNSでクリスマスの映えスポットを探している時、この観覧車を紹介している投稿を見かけた。興味はあったけれど、ものすごい混雑でチケットがすぐ売り切れてしまうらしくて諦めていた。なによりいかにもデート感が溢れてすぎていて、行きたいとは言えなかったのだ。
「乗るの?」
「せっかく来たしな」
大衡は観覧車を見上げたまま答える。しかし案の定、チケット売場には「完売」の看板が出ていた。
「だめだ、売り切れてるよ」
「大丈夫だ、もう買ってある」
大衡は財布の中から完売しているはずのチケットを二枚取り出した。そして迷わず乗り場へ向かっていく。
少なくとも俺と合流してから買う時間はなかったはずだ。つまり、待ち合わせの前にわざわざ買っておいたというわけで……。
俺はようやく、大衡が早く来ていた理由を察した。
「お前のリクエストは叶えただろ。最後くらい付き合えよ」
今日は俺の希望の場所を中心に巡っていた。観覧車は、最後に残された大衡の希望。でも……いいのかな、俺と二人で。
「俺でいいの?」
ついそう漏らすと、大衡の眉が僅かに寄った。
「一人で乗れって言うのかよ」
「そうじゃないけど……」
大衡は俺でいいのか。俺は大衡でいいのか。どうしてここまで来て尻込みしてしまうんだろう。
言葉に詰まって俯くと、大衡は俺に一歩近づいた。
「……俺はお前と乗りたいんだよ」
「……!」
「お前は?」
大衡の背後では七色に光るゴンドラがゆっくりと回っていた。その光景は涙が出そうになるほど綺麗だった。
「お……俺も」
大衡からもらった紙袋の持ち手をぎゅっと強く握る。
「俺も、大衡と乗りたい」
順番を待つ間、会話は少なかったけれど気まずくなかった。
オレンジ色のゴンドラに乗り込み、向かい合って座る。地上の建物が徐々に小さくなり、都会の喧騒も遠ざかっていく。夜空には星が瞬き、眼下に広がる夜景はそれを映したようにきらきらと輝いていた。
大衡は長い脚を組んで窓から写真を撮った。
「撮れた?」
「ああ」
「そっか……」
大衡の目に、この景色はどう映っているんだろう。思い出に残る一日になったんだろうか。俺と過ごして良かったって、思ってくれたんだろうか。
ふと、先程まで俺たちがいたクリスマスマーケットとツリーが見えた。頂上まであと少しのようだ。
観覧車が下まで戻れば、今日はきっと解散だ。二人きりの時間は、あとわずか。向かい側に座ったままじゃ、手を伸ばしても届かない。
「……隣、来る?」
今しかないと思い、意を決してそう告げれば大衡は目を見開いた。
「ほら、こっちの方が景色がよく見えるから!」
慌てて言い訳じみたことを言うと、大衡の表情が緩んだ。
「なんだ、お前高いところも怖いのか?」
「怖くねーよ!」
「だよな。ナントカと煙は高いところが好きって言うしな」
こいつは口を開けば俺の悪口を言うように設計されてるのか? しかし今それは置いておく。
「いいじゃん。と、隣がいいんだよ……」
照れくさくて語尾が消える。大衡は「そうか」と呟きながら腰を上げ、俺の左隣に移動してきた。肩が触れ合うほどの距離に心拍数が上がる。
「あのさ、大衡、これ……」
俺はずっと渡せずにいたプレゼントを差し出した。
箱の中身は、茶色いレザーのイヤホンケースだ。クリスマスに会うと決まってから、何日も迷ってプレゼントを選んだ。
大衡の趣味のひとつは音楽を聴くこと。普段使いできるイヤホンケースなら喜んでもらえるかと思った。あれだけ服装にダメ出しされた後だと不安になってくるけれど、きっと渡せずに帰ったら後悔する。
「好みに合うか分かんないけど、一応SNS映えするものを選んだつもりだから」
大衡は受け取った箱をじっと見つめた。そして一旦目を伏せ、またすぐに俺を見る。
「どこにも載せねえよ」
「あ……そっか。そう、だよな」
やっぱり俺のセンスじゃダメなんだ。結構がんばって選んだんだけどな……。
鼻の奥がつんと痛んだ瞬間、頭をぽんぽんと軽く撫でられた。
「誰かに見せる必要ねえだろ。俺だけ知ってればいい」
「……!」
「……嬉しい。ありがとな」
大衡の指が俺の髪を梳いた。その動作が、昨日の放課後を思い起こさせる。
昨日もこんなふうに頭を撫でられた。ざわめく廊下、わざわざ追いかけてきた大衡、そして――。
「あ……俺……」
「ん?」
「なんか今日、変だ……」
今日だけじゃない。昨日も、その前も、ずっと変だ。胸が高鳴ったり、つかえたり、締めつけられたり、初めての感覚ばかりが襲ってくる。たぶん、友達相手にはこうならない。
「ムカつくこともいっぱいあるのに……大衡といて、楽しいって思う」
初めて、こんなに長い時間を二人きりで過ごした。最初はどうなるかと思ったけれど、今の言葉は本心だ。
「でも、ムカつくとか楽しいだけじゃなくて……他の人とも出かけてんのかなとか、もっとお似合いの人がいるんじゃないかなとか思ったら……」
コートの裾をぎゅっと握り締める。風の音も、ゴンドラが揺れて軋む音も、何も聞こえなくなる。
「よく分かんないけど、なんか、嫌だった」
大衡の気持ちを知ってから、ずっと自分の気持ちに整理をつけようとしてきた。けれど考えれば考えるほど、知らない感情がいくつも芽生えていく。
距離が近くなった嬉しさとか、他の人に対するわだかまりとか、あと一歩踏み出せない自信のなさとか……処理しきれない感情が思考を掻き乱してしまう。
大衡の方を直視できず、ただ景色を眺めるふりをする。窓に映る俺は情けない顔をしていた。
短い沈黙を破ったのは大衡だった。
「何を勘違いしたか知らねえけど、俺は初めてだから」
「な、何が?」
「誰かと二人で出かけるのも、クリスマスに会うのも」
「え、彼女いたことあるんじゃ……」
「ねえよ。今まで誰とも付き合ってない」
予想外の言葉に唖然としてしまう。大衡は真剣な声色のまま続ける。
「誘われたり声かけられたりすることはあるけど、お前以外と行くつもりないからな」
「で、でも、今日慣れてる感じだっただろ」
「何に?」
「……デ……デート……?」
「へえ、お前デートだと思ったのか」
「そういう意味じゃねーよ!」
咄嗟に反論するが、大衡はそれ以上俺をからかわず、脚を組み直した。
「色々調べて計画立てたんだよ。効率的に全部回れるように」
「なんでそこまで……」
「……クリスマスに二人で会うっつったら、期待するだろ……色々」
期待……してた? 何を、どこまで?
そっと顔を左に向ける。大衡は照れくさそうに一度咳払いをした。
「お前、俺のことどう思ってるんだよ」
「どうって……分かんないよ」
「本当に?」
大衡の瞳には俺が映っていた。射止められたように目が離せない。
「……嫌いだったら、クリスマスに会ったりしない……」
何とかそう絞り出したが、大衡は納得していないようだった。
「それじゃ分かんねえ」
「そんなこと言われても……」
「逃げんなよ、ばか」
そんなこと言われても、困る。だってこの想いを言葉にしてしまったら……全部を認めることになる。
「こ、こんな時くらい馬鹿って言うな」
「お前がいつまでもはっきりしないからだろ」
「真剣に考えてるからだよ!」
ああもう、なんだよこいつ。優しいんだか意地悪なんだか分からない。
「つーか、はっきりしないのは大衡もだろ! 俺一回も大衡の気持ち聞いてないんだけど!」
大衡の気持ちはSNSで知っただけで、まだ言葉にされていない。なのに俺にばっかり言わせようとしやがって……!
「今更言わなくても分かってるだろ」
「そういう問題じゃねーよ、大衡こそ大事なことはちゃんと直接言えよ! DMでしか告白できない中学生かお前は!」
「……」
大衡は俺を見つめながら少し考え込んで、「それもそうだな」と言った。
膝の上で握っていた拳を包み込むように、温かい手が重なる。
「小山」
「う……はい……」
「お前が好きだ」
「……っ」
「馬鹿でうるさくて……俺をちゃんと見てくれて、受け入れてくれるお前が好きだ」
分かっていても、言葉にされるとやっぱり込み上げるものがあった。
……あー、どうしてこうなっちゃったんだろう。俺はただ憧れのインフルエンサーをフォローしていただけで、ムカつく同級生と言い合いをしていただけで、優しくて可愛い彼女が欲しかっただけなのに。それなのに……。
俺は腹を括り、大きく息を吸った。
「俺も好きだよ、ばーか!」
大衡の胸に飛び込んで肩口に顔を埋めると、大衡は嬉しそうにはにかんで、俺の身体を抱きしめた。
「返事おせーよ、待たせすぎだ」
「う……うるさいな、しょうがないだろ……」
「でも……もういい。全部吹っ飛んだから」
ぎゅっと力を込められて身体が密着する。俺は腕の置き場に困って宙を彷徨わせ、やがてそっと大衡の背中に回した。
大衡は少しだけ身体を離し、俺の右頬に手を添えた。
「今更『やっぱやめた』とか言うなよ」
「言わないよ。……ちゃんと、好きだから」
鼓動の音にかき消されないよう、全部伝わるよう、目と目を合わせて告げると大衡は満足げに笑った。それは初めて見る表情だった。
頬から顎に手が移動して軽く持ち上げられる。それが何を意味しているのか、説明は要らなかった。
どきどきしすぎて、呼吸の仕方さえ分からなくなる。
大衡の顔がゆっくり近づいてきて――思わず息を止め、瞼を閉じていた。
唇に柔らかいものが触れる。永遠にも感じられる数秒間、そして顔が離れて、ゆっくりと目を開ければ至近距離で視線が交わった。
「俺も好きだ」
耳元で囁かれた声は夜の静寂に甘く響いた。



