旧校舎が見えてきた。
木々の向こうに、灰色の建物が立っている。三階建て。外壁は雨だれの跡で縞模様になり、窓は半分以上が板で塞がれていた。校庭だったらしい場所は草に覆われ、フェンスは錆びて一部が倒れている。正面玄関のひさしが一部崩れていて、そこだけ骨組みが見えていた。
ここまで肌を灼いていた日差しは変わらないのに、建物に近づくにつれて空気の質が変わった。熱気の上に、別の層が被さるように湿度が重なってくる。汗が乾かない。さっきまでは蒸発していた肌の汗が、ここでは膜のように体に貼りつく。
近づくほど、蝉の声が遠くなった。消えたわけではない。ただ、この場所の空気に吸われるように薄れていく。代わりに、かすかな水音が聞こえてくる。どこから来るのかわからない、不規則な、水滴が落ちるような音。雨は降っていないのに。
「うわ、めっちゃ雰囲気ある」
陽翔がカメラを構えた。旭が「これは映えってやつだぜ」と言い、湊は冬馬の後ろに半歩隠れた。蓮司は黙って建物の全体を見回していた。
冬馬は旧校舎を見上げた。
空は晴れている。なのに外壁がまだらに濡れて見えた。窓の向こうは暗くて、何も見えない。見えないのに、見られている感じがした。
「よし、俺についてこい! 正面突破だ!」
いつもより大声で陽翔が片手にカメラを、もう片手を拳にして正面玄関に向かって歩き出した。蓮司が「お前は格闘家か」と呆れ、湊が「フラグ立てないで下さいよ」と半泣きで言った。陽翔は振り返って「フラグ立ててなんぼだろうが! 」と笑った。
正面玄関の扉は施錠されていた。陽翔が取っ手を引いても押しても動かない。
「……開かない」
旭が「ほら、正面突破してみて」とニヤつくのを横目に、蓮司が近くの窓を確認する。一枚だけ外れかけていて、そこから入れそうだ。
「ここからだな」
蓮司が言う。陽翔が「先輩、正面じゃないっすけど」と不服そうにしたが、蓮司に「入れるだけありがたいと思え」と言い返されて黙った。
陽翔が先頭、蓮司が最後尾。冬馬と朔夜は真ん中あたりを歩いた。
中に入った瞬間、空気が変わった。
外の八月の熱気が嘘のように、廊下は冷えていた。冷えているというより、湿っている。一歩踏み込んだだけで腕の産毛が逆立った。さっきまで体中にまとわりついていた暑さが、ここでは別の重さに入れ替わる。壁紙は膨らみ、天井には水染みが広がっていた。床は乾いて見えた。けれど一歩進むたび、靴底が半拍遅れて剥がれた。
光は窓の隙間から細く差し込んでいるだけで、十メートル先はほとんど見えなかった。湊がライトを点けると、白い光の中に埃が浮かんでいるのが見えた。
「静かだな」
蓮司が呟いた。静かだった。蝉の声すら届かない。自分たちの足音と呼吸と、どこかで水が落ちる音だけが反響している。ぽたり。ぽたり。不規則に、けれど確実に。
「なんか匂いしません?」
湊が鼻を覆った。黴の匂い。古い木の匂い。錆びた鉄と、濡れた紙の匂い。それに混じって、もっと古い、ツンと刺すような匂いがした。
陽翔はカメラを回し始めていた。旭は冗談を言おうとして、やめた。空気がそれを許さなかった。日差しの中にいた時の軽さが、ここでは通用しない。六人分の足音が、やけに重く響く。
廊下を進む。教室のドアは開いているものと閉じているものがあり、開いている教室の中は薄暗く、机と椅子が不規則に残されていた。ある教室では机が教壇の方を向いたまま整列していて、四年間誰も触れていないことがわかった。黒板に何か書かれていた痕跡があるが、湿気で滲んで読めない。
閉じられたドアの一つに、冬馬は目を止めた。他のドアと違って、取っ手の周りだけがわずかに錆びていない。最近、誰かが触ったように。
みんなが先を歩くその廊下の奥から、かすかに——本当にかすかに——水の流れる音が聞こえた。
水の音ではなかった。
呼ばれている。
意味のある言葉ではないが、感覚として届いた。人間の温度を感じない何か。こっちに何かあるぞ、と誘っているような、こちらの来訪を知っている何かの気配。
——こっちにおいで
冬馬は顔を伏せ、強く目を閉じた。
「冬馬」
朔夜の声でハッとして目を開けた。朔夜が数メートル前に立っていた。こちらを見ている。廊下の薄暗さの中で、朔夜の目だけがはっきり見えた。
「何してる」
「……大丈夫、なんでもない」
朔夜は、冬馬の視線の先を見た。
廊下の奥には何もない。冬馬は、そこから目を離さなかった。
それから朔夜は冬馬を見つめた。二秒。三秒。
朔夜は一度だけ口を開きかけて、やめ、前に向き直り歩き始めた。
冬馬はその背中を見ながら、歩き出した。
