水に還る


 八月三十一日。夏休み最後の日。
 朝から、空は痛いほど青かった。雲は一つもなく、太陽だけが真上から容赦なく照りつけている。夏は終わろうとしているのに、熱だけは少しも衰えていない。むしろ最後の日だからこそ、手放すまいとするように世界を灼いていた。
 昨日のことを、二人とも口にしなかった。でも距離が変わっていた。朝、台所ですれ違う時に冬馬の指が偶然を装って朔夜の手の甲に触れる。朔夜が食パンを焼いているとき、冬馬が背後に立って「朔夜、何塗る?」と聞いた。振り返ったら、冬馬の顔が近すぎて思わず裏返った声で「いちごジャム」と早口で答えてしまった。冬馬が笑う気配がした。
 二人で外に出た。朔夜は自転車を押して歩いて、冬馬は隣を歩いた。住宅地を抜けて、川沿いの道に沿って歩いた。コンビニに寄って、アイスを買って、公園のベンチに座った。六人でやっていたことと同じだった。六人が二人になっただけ。
 アイスを食べながら、二人はしばらく空を見ていた。蝉が鳴いている。子供たちが遊んでいる声がして、犬の足音が乾いた地面をかすかに叩く。どこにでもある、夏の終わりの午後だった。
その穏やかさのすぐ隣で、湊は消えた。二人ともそれを知っている。知っていて、こうしてベンチに座っていた。池の水面は静まり返り、太陽を反射して光っている。それがひどくきれいだった。きれいであることが、怖かった。でも朔夜はそのことを言わなかった。
 朔夜が立ち上がってゴミ箱に向かう途中、池のそばを通った。
 水面が揺れた。風はなかった。
 朔夜は立ち止まらなかった。冬馬はベンチからそれを見ていた。
 冬馬は笑っていた。いつもの笑顔。
「明日から学校だな」
「そうだね」
「席、空いてるの見るの、やだな」
「……大丈夫だよ」
 朔夜がアイスの棒をくるくる回している。溶けた雫が指を伝う。冬馬がそれを見ている。朔夜の指を見ている。
「冬馬」
「なに」
「この夏のこと、いつか話してくれる?」
 冬馬は朔夜を見た。朔夜は空を見ていた。
「……話せる時が来たら」
「うん。それでいい」
 話せる時が来たら話す。嘘ではない。
朔夜がアイスの棒を裏返した。ハズレ。 「冬馬のは?」
冬馬が棒を裏返した。ハズレ。 二人で見せ合った。同じハズレ。
朔夜がゴミ箱に向かって二本まとめて投げた。両方入った。
「フォームだけ一流」 冬馬が言った。朔夜が「うるさい」と笑った。冬馬も笑った。
 夕日が二人の影を長く伸ばしている。影だけが先に帰っていくみたいに長い。
「帰ろうか」
「うん」
 一つの自転車に乗って、帰る。夕日の中を。朔夜が漕いで、冬馬が後ろに乗って。風がぬるい。明日からは、この風も少し変わるのだろうか。
 冬馬が朔夜を見た。朔夜が一生懸命にペダルを漕いでいる。夕日が横顔を照らしている。髪が風に揺れている。口元が緩んでいる。笑っている。
 隣に冬馬がいるから。それだけで笑っていた。
 道端の排水溝から、かすかに水の音がした。流れている。どこかを、川を、地下を。旧校舎の排水管から流れ出した水が、この町のどこかを今も流れている。
 凪の水が、街の地下を巡っている。朔夜の家の蛇口にも繋がっている。風呂に。洗面台に。公園の水飲み場に。学校の手洗い場にも。この街の誰かが今、蛇口をひねって、そして飲む。
 朔夜はその音に気づかない。ペダルを漕いでいる。笑っている。
 冬馬も、笑った。
 この夏が終われば、きっと全部終わる。僕たちはそのことを、見ずに笑った。