午後。雨が上がった。
雲の切れ間から日が差し始めている。蝉が少しだけ鳴き始めた。雨上がりの蝉は控えめだった。
朔夜の部屋。冬馬は朔夜に借りた服を着ていた。少しだけ大きい。首元がゆるい。窓を開けた。雨上がりの風が入ってくる。湿った空気。でも少しだけ涼しい。夏の終わりの風。
二人は並んで床に座っていた。壁に背中をつけて。肩が触れている。何も話さなかった。窓の外で雲が動いている。光が差したり翳ったりしている。
「冬馬」
「なに」
「夏、終わるな」
「……うん」
「終わってほしくないな」
「僕もだよ」
朔夜が冬馬の方を見た。冬馬が「僕もだよ」と自分の気持ちを言うことは珍しかった。いつもは「うん」か「大丈夫」か、相手の言葉を受け止めるだけ。
朔夜は何か言おうとして、やめた。代わりに冬馬の肩にもたれた。朔夜の体温。朔夜の髪が冬馬の首に触れる。
朔夜はいつの間にか眠ってしまっていた。冬馬の肩にもたれたまま。起きている時の緊張が全部抜けた、無防備な顔。
冬馬は朔夜の寝顔を見ていた。
夕方の光が朔夜の睫毛に影を作っている。唇が少しだけ開いている。眠っている時特有の遅く長い呼吸で胸が動いている。冬馬がいなくならないと言ったから、いまはそれを信じきれているから眠っていた。
冬馬は動いた。ゆっくりと。朔夜を起こさないように。体の角度を変えて、朔夜の顔に近づいた。朔夜の呼吸が冬馬の唇に触れるくらいの距離。
冬馬は目を瞑って、朔夜の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
静かに。軽く。触れるだけ。朔夜の唇は温かかった。柔らかかった。少しだけ開いていた口から、冬馬の唾液が朔夜に移った。
それが愛なのか、終わりの準備なのか。冬馬自身にもわからないまま、唇を重ねていた。
朔夜の瞼が震えた。
目が開いた。ぼんやりと。冬馬の顔が近い。唇に、温かくて少しだけ湿った感触が残っている。何が起きたか、わかった。
冬馬の唇が少し濡れていた。水の匂いがした、ような気がした。
朔夜は何も言わなかった。何も確かめないまま、全部を知らないまま、受け入れた。冬馬の目を見て、それからゆっくりと目を閉じた。もう一度、眠るみたいに。
蓮司の声が遠くで聞こえた。「見ないふりしてるだろ」
わかっていた。それでも、目を閉じた。冬馬の唾液が唇に残っている。それがどんな意味を持っていたとしても、朔夜は拭わなかった。
振り返ってみれば、短い口づけだった。でも確かに、二人の唾液が混ざった。朔夜の中に入ってしまった。もう戻せない。でも、もうそんなことはどうでもよかった。
冬馬が小さく笑って言った。
「……寝てる?」
朔夜は答えなかった。目を閉じたまま、少しだけ冬馬の肩に頭を押しつけた。
窓の外で蝉が一匹だけ鳴いていた。窓からの西日が低い。逆光で冬馬の横顔が見えなかった。髪の縁だけがオレンジに透けている。雨上がりの空気が窓から入ってきていた。夏の匂いが少しだけ薄い。季節が動き始めている。夏が終わってしまう。
冬馬が朔夜にまた肩を寄せた。肩の重さと、呼吸の音と、遠い蝉の声だけ。言葉にしなくても足りる時間が、薄い夕暮れの中で静かに過ぎていった。
「冬馬」
「なに」
「ずっとこうしていれるかな」
「……いれるよ」
夕日が沈んでいく。部屋が少しずつ暗くなる。二人とも明かりをつけなかった。暗い方が楽だった。暗い方が、余計なものが見えなくて済んだ。
洗面台から、水滴の音が聞こえた。ぽたり。蛇口をちゃんと閉めていなかったのかもしれない。ぽたり。ぽたり。不規則に。でも確実に。
朔夜が少しだけ体を強張らせた。旧校舎の廊下で聞いた音と同じだった。あの時も水滴が落ちていた。不規則に。でも確実に。
「……水道、閉まってるよね」
「大丈夫だよ」
冬馬の声は穏やかだった。朔夜に肩を寄せたまま、微笑んでいた。
水滴の音が止み、静寂が訪れた。最初から怖いことなんて何もなかったみたいに。
朔夜は冬馬を押し返すくらい肩を寄せた。冬馬が同じ力で寄せ返した。大丈夫。ここにいる。いなくならない。
でも水滴は確かに聞こえた。キスの後から。朔夜の体から。
