冬馬は自転車で旧校舎に向かった。
曇り空の下、住宅地を抜けて。立入禁止のテープをくぐり、横の窓から中に入った。何度も通った道。湿った廊下。水の匂い。封鎖区画。板は外されたままだった。地下への十三階段。
貯水槽に辿り着いた。蓮司との思い出が蘇る。
黒い水面が、薄暗い空間の中で静かに広がっている。天井から水滴が一つ落ちて、波紋を作った。この水の底に、冬馬が送った人たちが沈んでいる。蓮司がいる。陽翔がいる。湊や、旭だって。
水面が揺れた。冬馬が来たことに反応している。凪がいる。まだいる。ずっとここにいる。
冬馬はしばらく水面を見つめていた。何も言わなかった。言える言葉がなかった。
貯水槽の壁面に、古い排水栓があった。点検用。金属のハンドルが錆びて固まっている。冬馬はそれに手をかけた。力を込めた。錆が軋む。動かない。もう一度、体重をかけて回す。指の皮が擦れる。痛い。でも力を込め続けた。
ハンドルが回りきった。
排水口から水が流れ出す音がした。低い、重い音。四年分の水が排水管に吸い込まれていく。ゆっくりと。水位が下がり始める。
水面が激しく揺れた。水が減っていく。凪の領域が縮んでいく。水面全体がうねり、波が壁にぶつかって跳ね返る。冬馬の靴に水が跳ねた。冷たい。凪の水。
水位が下がっていく。黒い水面がコンクリートの壁に濡れた線を残しながら下がっていく。白い手が水面から伸びかけた。長く青白い指。でも水位が下がるにつれて、手は水面の下に戻っていく。水がなければ、凪は届かない。
冬馬は一言だけ「ごめん」と言葉にした。それ以上言葉で飾ったら嘘になる気がした。
わかっているのは、朔夜のところに帰りたいということだけだった。朔夜が待っていると思った。
水面の揺れが弱くなっていた。凪は怒っていなかった。冬馬はそれをわかっていて、今、凪の水を抜いている。
水位はまだ半分以上残っている。全部抜けるには時間がかかる。来週、解体業者が来る頃には、底にあるものが見えているだろう。全部が終わる。
冬馬は踵を返した。階段を上がった。十三段。水の匂いが薄れていく。廊下を歩いて、窓から出た。
雨が降り始めていた。細い雨。顔に当たる。夏の終わりを告げる、ぬるい雨。
自転車に乗って、朔夜の家に向かった。雨の中を走る。シャツが濡れていく。ペダルを踏む。朔夜が待っている。
