水に還る


 八月の終わりが近づいていた。でも二人はそのことを話さなかった。
 朔夜の家で過ごす時間が長くなっていた。冬馬はもう自分の家にほとんど帰っていない。着替えを何着か持ってきて、朔夜のクローゼットの端に置いた。歯ブラシも洗面台に並べた。朔夜は何も言わなかった。冬馬のものが自分の家に増えていくことに、何も言わなかった。むしろ安心しているように見えた。冬馬がここにいる証拠が増えるたびに、朔夜の呼吸が少しだけ楽になっていった。
 父親は相変わらず夜遅くにしか帰ってこない。帰ってきても、冬馬がいることに気が付かなかった。
 二人の一日は、だいたい同じになった。
 朝。冬馬が先に起きて、台所に立つ。パンを二枚焼いて、コーヒーを淹れる。コーヒーメーカーのフィルターの場所も、砂糖の引き出しも知っている。この家の母親がいなくなってからずっと空いていた場所に、冬馬が立っている。
 窓から差し込む朝日が、シンクの水滴を光らせていた。小さな虹が一瞬だけ壁に映って、消えた。
 朔夜が起きてくる。寝癖がついている。
 冬馬が朔夜のTシャツを着ている。それが朔夜には嬉しかった。朔夜が着れば普通のTシャツだが、冬馬が着れば少し大きいくらいに見えた。首元からは鎖骨が覗いている。
 朔夜が冬馬の目を見て「おはよ」と言った。
冬馬も「おはよう」とだけ返す。いつも少しだけ微笑んでいる。何がおかしいわけでもなく、ただ朔夜の顔を見ると笑みがこぼれた。朔夜はその笑顔を見るたびに、大丈夫だと思う。冬馬が笑っている。それだけで嬉しくて、安心した。
 昼。テレビをつけたり消したり。ソファに並んで座って、何も話さない時間が続く。
 冬馬は窓の外を見ている。朔夜は冬馬を見ている。何を見ているのか、その答えを知らなくても冬馬に不満が無さそうならそれで良かった。
 冬馬がふいに振り返って、朔夜を見る。目が合う。冬馬が笑う。無邪気な笑顔。その笑顔の奥に何があるのか、朔夜にはわからない。笑顔だけを見ていた。
「僕は何を考えているでしょうか」
 冬馬がたまに聞く。
「大きな雲のこと」
「正解は。何も考えていません、でした」
 それだけ。嘘ではない。全部本当なんだよ。
 
 夕方。どちらからの提案でもなく、なんとなくコンビニに行くことになった。
 二人で並んで歩いて、アイスを一つだけ買って、帰りながら二人で食べた。
 そのとき、アイスが溶けて持っていた朔夜の指を伝った。朔夜の手にあるアイスを顔を傾けて食べていた冬馬がそのままその指を舐めた。朔夜がそれを見て少し顔を赤くする。冬馬はそれに気づいているのか気づいていないのか。
 たぶん気づいている。気づいていて、そのまま笑っている。朔夜の反応を楽しんでいるのか、本当に無意識なのか。冬馬はいつも読めない。
 朔夜が「やめろよ」と言う。言いながら、視線を外せない。冬馬の唇が自分の指を食む姿を。冬馬は「何?」と微笑む。
 冬馬の行動は、全部が同じ自然さで行われていた。指についたアイスを舐めるのも、朔夜の髪を撫でるのも、蓮司を水に沈めるのも。
 夜。朔夜の部屋。布団をふたつ並べて横になる。暗闇の中で話す。くだらない話。学校の話。昔の話。死んだ人間の話や、これからの話は、しない。
 蓮司の名前も、陽翔の名前も、湊の名前も、旭の名前も、出さない。まるでこの家には最初から二人しかいなかったみたいに。まるで夏は最初から二人きりだったみたいに。
 冬馬が暗闇の中で突然、くだらないことを言う。「朔夜って寝相悪いよね」 朔夜が「悪くない」と言い返す。
「昨日、僕の布団まで転がってきた」 「……嘘つけ」 「嘘つかないの知ってるでしょ」
 朔夜が黙る。冬馬は嘘をつかないことを知っている。ということは、本当に転がっていったのだ。恥ずかしい。暗闇の中で顔が熱い。冬馬がくすくす笑っている。その笑い声が耳元で聞こえる。近い。
 こういう夜が続く。毎晩。同じように。最初は布団と布団の間に隙間があった。今は隙間がほとんどない。朔夜の手が布団から出ていて、冬馬の手が布団から出ていて、指先が触れる。どっちが先に触れたのかわからない。わからないまま、同じ距離で触れている。
 六人の夏から四人が消えた。でもその話をしない。しないことで、この部屋だけは守れる気がしていた。話さなければ、ここには侵入してこない。水も、手も、現実も。
 全部から逃げていた。
 二人とも。
 警察からたまに連絡が来た。冬馬のスマホに。朔夜のスマホに。「何か思い出したことはないか」 「新しい情報はないか」
 二人とも同じことを答えた。「特にありません」
 電話を切って、顔を見合わせて、何も言わなかった。すぐにテレビをつけて、知らない誰かの笑い声と自分たちの笑い声で部屋を満たした。
 陽翔の母親から朔夜に連絡が来た日があった。「陽翔と最後に話したのはいつですか」
 朔夜がリビングで電話を受けているのを、冬馬は台所から聞いていた。朔夜の声が震えていた。
「旧校舎に行った日です」「はい」「すみません」
 電話を切った後、朔夜はしばらくスマホを持ったまま動かなかった。
「大丈夫?」
 冬馬が聞いた。
「……うん」
「大丈夫だよ、朔夜」
 冬馬のいつもの、何が大丈夫なのかわからない「大丈夫」
 でもその声を聞くと、朔夜は全てどうでもよくなった。
 冬馬の声にはそういう力がある。人を安心させる力。人を信じさせる力。
 俺を殺す夜も、きっと同じ声で「大丈夫」と言えるのだろう。言える人間なのだ、冬馬は。