水に還る


 凪の死後、冬馬は壊れた。
 自分の部屋で窓の外を見ているだけ。誰とも話せない。水の音以外、何も聞こえない。世界が海の底に沈んだように、全部の音が遠かった。
 夏休みが終わって、中学一年の九月。機械的に登校して放課後まで窓の外を見ている冬馬に朔夜が声をかけてきた。
「何かあった?」
 冬馬は首を振った。凪に聞かれた時と同じように。
 朔夜はそれ以上聞かなかった。でもそれから、放課後に空が暗くなるまで外を眺める冬馬の隣の椅子に朔夜は座った。翌日も。その翌日も。何も聞かずに、ただ隣にいた。
 朔夜がいなかったら、冬馬はもっと深く壊れていただろう。朔夜の存在が、冬馬をかろうじて人間の形に保っていた。
 でも、冬馬の中には凪がいた。
 凪の死から1年後の夏。冬馬はプールに行った。もう閉鎖された旧水南高校のプール。フェンスを乗り越えて、中に入った。
 雨のせいか、プールに水が少し残っていた。誰も管理していない水。藻が浮かんでいて、緑色に濁っている。プールの底は見えない。
 水面が揺れていた。風はなかった。
 冬馬は水面に降りてしゃがんだ。冷たかった。水に手を入れた。八月の終わりなのに、真冬のような冷たさだった。
 水の中に、凪がいた。見えるわけではない。声が聞こえるわけではない。でも確実に、そこにいた。水が冬馬の手首を包んでいる。その水の冷たさが、凪の手の冷たさと同じだった。
 冬馬は泣いた。プールサイドで、一人で。
「ごめん」
 声に出した。
「見てたのに。見てたのに、逃げた。ごめん」
 水面が揺れた。波紋が広がった。凪が聞いているような気がした。
「独りにしない。もう絶対、独りにしない」
 冬馬はプールの水を掬って飲んだ。持っていたペットボトルに汲んだ。浅くて半分しか組めなかった。
 凪の水。凪が死んだ場所の水。水は冷たかった。八月の終わりのプールの水が、真冬のように冷たかった。
 それが始まりだった。