五年前の夏。冬馬は小学六年生だった。
家にいたくなかった。父親と母親の仲がどうしようもなく悪くなっていた。毎晩聞こえる声。怒鳴り声ではない。もっと静かな、冷たい声。
台所で母親が何も言わずに皿を洗っている音。居間で父親が何も言わずにテレビを見ている音。同じ家にいるのに、二人の間には何もない。声も、視線も、優しさも。冬馬はその空白の中で浮かんでいた。自分がいてもいなくても変わらない家。
だから夏休みは毎日プールに行った。地元の学生にだけ無料で開けられている高校のプール。自転車で十五分。朝の十時に行って、夕方まで泳いでいた。晴天で数十人いる時もあれば、曇りで自分しかいない日もあった。
泳ぐのが特別に好きだったわけではない。家にいたくなかっただけだ。水の中にいれば、何も聞こえない。冬馬にとって、それだけで通う理由になった。
凪に会ったのは、七月の終わりだった。
プールサイドのベンチに座っていた。冬馬が水から上がって、タオルで顔を拭いている時に気づいた。隣のベンチに、男の子が一人で座っていた。ラッシュガードの水着を着ているが、泳いでいない。プールの水面をぼんやり見つめている。
毎日いた。冬馬が行くたびに、そのベンチにいた。一人で。誰とも話さない。泳がない。ただ水面を見ている。
三日目に、冬馬が話しかけた。
「泳がないんですか」
男の子が冬馬を見た。目が少し驚いていた。話しかけられると思っていなかったのだろう。
「……泳げないんだ」
「プールに来てるのに?!」
「水を見るのは好き。入るのは怖い」
と言って、少しだけ口角を上げてピースするこの人を、最初は変な人だと思った。でも嫌ではなかった、面白い人だとも思った。冬馬も一人だったから。一人と一人が隣り合うことは、自然なことだった。
「僕は冬馬、小学六年生」
「俺の名前は凪。こう見えて高一。敬語使えよ坊ちゃん。」
それが最初だった。
それから毎日会った。冬馬が泳いでいる間、凪はベンチに座って見ている。冬馬が上がると、タオルで体を拭きながら隣に座る。水滴がベンチに落ちる。凪はそれを見ている。
「冬馬って泳ぐの好き?」
「別に。でも他にやることないから」
「俺もそう。他に行く場所ないから」
凪は笑った。口の端がほんの少しだけ上がる。それだけの笑顔。でもその笑顔が、冬馬には特別だった。
凪が他の場所でも笑っているのかどうか、冬馬は知らなかった。プールサイドのこのベンチでだけ、凪が笑っているのかもしれないと思った。そうであってほしいと思った。だとしたらここにいる意味が出来た気がした。
凪は自分の話をあまりしなかった。冬馬も家の話をしたがらなかった。だから二人が話すのは、本のこと、テレビのこと、プールの水が今日は冷たいとか、あのふわふわした雲が大きな犬に見えるとか、そういうことだった。何でもないこと。何でもないことだけで埋まっているこの時間が、二人にとっては一番重要になっていた。
凪は冬馬に水泳を教えてくれた。泳げないと言っていたのに、本当は泳げたのだった。
「手はこう。もっと伸ばして。顔は横に向ける。息は水の中で吐く」
プールの浅い方で、凪が冬馬の体を支えていた。凪の手が冬馬の背中にあった。冷たい手だった。水の中にずっといたわけでもないのに、凪の手はいつも少し冷たかった。
「凪くん、手冷たいね」
「昔から。体温が低いんだと思う」
凪はそう言って、少し笑った。あの笑顔。口の端が少しだけ上がる笑顔。
冬馬は凪のことが好きだったと思う。友情とも恋とも違う、名前のつけられない感情。凪がいると安心した。家のことを忘れられた。凪の隣にいると、自分がいなくなっても世界は変わらないという感覚が少しだけ薄れた。凪は冬馬を見てくれた。冬馬の話を聞いてくれた。冬馬がここにいることに気づいてくれた。それだけで十分だった。
凪にとって冬馬がどういう存在だったのか、冬馬にはわからなかった。でも凪が毎日プールに来ていたのは、冬馬がいるからだと思いたかった。最近は凪の目が冬馬を見つける瞬間に、口元が少しだけ柔らかくなるのを見ていたから。
ある日、凪のラッシュガードの袖がめくれた。腕に紫色の痣が見えた。冬馬は気づいた。気づいていて、聞かなかった。聞いてしまうと凪が来なくなると思ったから。そうすることで、この時間を守ろうとした。
痣のことを聞けば、凪は何かを話すかもしれない。そうしたら、凪との関係が変わってしまうかも知れないと思った。二人で隣り合って何でもない話を明日も明後日も、夏が終わっても。この関係が壊れる。冬馬にはそれが怖かった。
冬馬は凪の痣を、見なかったことにして笑った。凪が笑ってくれるから、それでいいと思った。
