水に還る


 夜。
 冬馬は自室の窓を開けたまま、ベッドに横になっていた。日が落ちても気温は下がらない。窓から入る風はぬるく、シーツに触れている背中がじっとり汗ばんでいる。遠くの方で盆踊りの太鼓が聞こえる。近くの田んぼの蛙の声。隣家のエアコンの室外機。夏の夜の音は、いつも水気を含んでいる。
 シャワーを浴びたあとタオルで拭いただけの髪がまだ湿っていて、枕に染みを作っていた。風呂は長く入れない。水音を聞いていると、あの暗い穴の底を覗いているような感覚になるから。シャワーだけ、手早く済ませる。それがここ数年の習慣だった。
 グループチャットには明日の持ち物リストが流れていた。陽翔が「カメラ二台」「ライト」「三脚」と並べ、旭が「度胸」と追加し、湊がスタンプで泣いた。朔夜は「危なかったらすぐ帰る」とだけ送っている。冬馬は既読だけつけて、画面を閉じた。
 天井を見る。
 闇に目が慣れると、壁の染みや天井の模様がゆっくり浮かんでくる。
 しばらくそうしていると、机の上で小さな音がした。
 ぴちゃ、と。
 首だけ動かして見る。机に置きっぱなしのコップ。中の水は半分ほど残っていた。その水面が、わずかに揺れていた。窓は開いているが、風はない。エアコンもついていない。揺れる理由がなかった。
 冬馬はそれを見つめた。驚かなかった。こういうことは前からあった。洗面台の蛇口が一人でに緩むこと。風呂場の排水口が、誰もいないのにごぼりと鳴ること。窓際の床だけが、朝起きるとうっすら濡れていること。頻度が増えたのは今年に入ってからだった。
 コップの水面がまた揺れた。今度はもう少し大きく。何かが底から呼吸をしているみたいに。
 部屋の空気が、ほんの少しだけ湿った。窓は開いているのに、風の匂いとは違う、もっと深い場所の水の匂いが混じっている。
「……わかってる」
 声に出したのか、出さなかったのか、自分でもわからなかった。
 窓の外で、蝉が一匹だけ遅れて鳴いた。