水に還る


 夜。
 朔夜が「危ないから二人でいよう」と言った。冬馬はそれだけが理由でないように感じたが、「じゃあ泊まる」とだけ答えた。
 朔夜の部屋。ベッドは冬馬が使い、朔夜は床に布団を敷いた。冬馬が「床でいいよ」と言ったが、朔夜は「いい」と返した。
 明かりを消した。窓からの月明かりだけが部屋を薄く照らしている。蝉がまだ鳴いている。その声の隙間に、朔夜の呼吸が聞こえた。
「冬馬」
「ん」
「この夏が終わったら、どうなるんだろう」
 暗い天井。自分の部屋の天井。毎晩見ている天井。母がいなくなった朝にも見た天井。
「どうなるんだろうな。学校、始まるよな。始まったら、みんながいないことが——もっとはっきりするよな」
「……うん」
「今はまだ夏休みだから。休みだから、会えないだけって、思えなくもないじゃん。嘘だって自分でわかってても、そう思える余地があるじゃん。でも学校が始まったら、席が空いてるの見なきゃいけないじゃん。毎日。陽翔の席も、湊の席も、旭の席も。蓮司先輩の席も。毎日見て、毎日思い出す」
 自分の声が暗闇の中にぽつぽつと浮かぶ。外では聞こえないような小さな声。こんなことを言ってしまうのは暗いからだ。顔が見えないからだ。
「怖い。夏が終わるのが怖い」
「大丈夫だよ」
 冬馬が言った。
「……大丈夫って、何が」
「全部」
「全部って何だよ」
 朔夜は少し笑った。暗闇の中の、小さな笑い声。泣きそうな笑い声。
「お前のその『大丈夫』は、昔からよくわかんないよ。何が大丈夫か全然わかんないのに、大丈夫って言う」
「でも嘘じゃないよ」
「……冬馬がそう言うなら、わかった」
 冬馬は嘘をつかない。それだけは、三年間でわかった。なら、「大丈夫」は嘘じゃない。朔夜には何が大丈夫なのかはわからないけど、冬馬にとっては大丈夫なのだろう。それが、朔夜にとっても大丈夫かどうか——なんてどうでもいい。今は、それでいい。冬馬の声が聞こえるだけでいい。
 朔夜が寝返りを打った。布団が擦れる音。
「おやすみ、冬馬」
「おやすみ」
 目を閉じた。冬馬の呼吸が聞こえる。規則正しい。静かな呼吸。この呼吸がそこにある限り、今日は眠れる。明日もここにいてくれる。いなくならないと言った。
 閉じた目の裏に、冬馬の顔が浮かぶ。中一の夏休み明けに初めて見た冬馬の顔。教室の隅でぼんやりしていた横顔。あの時、声をかけた。「何かあった?」と聞いた。冬馬は首を振った。朔夜はそれ以上聞かなかった。
 なぜ声をかけたのか、理由を聞かれたらうまく答えられない。ただ、冬馬の目が空洞だった。窓の外を見ているのに何も見ていない目。
 母親がいなくなった後の自分の家みたいだった。きれいに片づいていて、何も散らかっていなくて、でも決定的に何かが抜け落ちている。あの目を見た瞬間に、知っている、と思った。同じものを失くした人間の目だと。
 あれが最初だった。最初の見ないふり。
 それから三年、朔夜はずっと同じことをしている。聞かない。踏み込まない。冬馬が差し出すものだけを受け取る。冬馬が見せるものだけを見る。その裏に何があるかは、見ない。
 それでいいと思っていた。冬馬が話したくなったら話すだろうと。でも蓮司は「その優しさの結果、四人が消えた」と言った。
 朔夜の優しさは、優しさではなかったのかもしれない。ただの臆病だったのかもしれない。
 でも、もう遅い。今さら聞けない。聞いたところで四人は戻らない。聞いて冬馬を失ったら、俺には何も残らない。
 意識が溶けていく。眠りに。冬馬がいる部屋で。冬馬の呼吸の音を聞きながら。これだけは失いたくない。この呼吸の音だけは。