冬馬のスマホが震えた。
朔夜の手を離して、画面を見る。知らない番号だった。出ると、旭の母親の声だった。
「冬馬くん? 旭の——」
声が途切れた。泣いている。数秒の間。
「旭がいなくなった。病室に行ったら、ベッドが空だったの。シーツだけが残ってて——濡れてて——」
冬馬は聞こえているとわかる最低限の相槌だけを打って、耳を傾けていた。
「窓は閉まってたの。ドアも。カーテンも閉まってて、出入りも無くて。でもいないの。ベッドのシーツだけがびしょびしょに濡れてて——」
旭の母親の声が泣き声に変わって、最後は誰かが代わりに「また連絡します」と言って電話が切れた。
冬馬はスマホを下ろした。朔夜が冬馬を見ている。
「どうした」
「旭が病院からいなくなった。シーツがびしょびしょに濡れてたって」
朔夜の顔から色が消えた。唇が白くなった。
「病院にいたのに」
「うん」
「集中治療室にいたのに。鍵がかかってたんじゃないのか。看護師がいたんじゃないのか」
「うん」
朔夜は自分の膝を見つめた。拳を握っている。握った拳が震えている。
病院にいても安全ではなかった。鍵のかかった部屋にいても。看護師がいても。
水はどこにでもある。点滴の管の中にも、コップの中にも、加湿器の中にも。窓の結露にすら水はある。安全な場所など、最初から存在しなかった。
冬馬は、顔を上げた朔夜を見た。目からぽろぽろとこぼれだした雫。
朔夜は、限界だった。
「冬馬」
「なに」
「お前はいなくならないよな」
三度目。同じ質問。最初は確認だった。次は懇願だった。今度は、祈りに近かった。
「いなくならないよ」
冬馬が答えた。朔夜は冬馬の腕を掴んだ。強く。爪が食い込むほど。
朔夜は冬馬の腕を掴んだまま、しばらく動かなかった。何かと戦っているような顔だった。蓮司の言葉と。自分の直感と。冬馬を信じたい気持ちと。全部がぶつかって、何も言葉にならない。
旭も消えた。陽翔も、湊も、蓮司も、旭も。全員が消えた。残ったのは冬馬と朔夜だけ。
なぜ二人だけが残ったのか。
朔夜の中に、その問いが浮かんだ。浮かんで、すぐに沈めた。考えてはいけない問いだった。その問いの先にある答えが怖かった。冬馬が無事な理由。朔夜が無事な理由。全員が水に関わって消えた中で、なぜ二人だけが——
沈めた。水の底に。見ないふりをした。朔夜は自分でそれをやった。意識的に。蓮司の言う通りだった。
でもやめられない。冬馬を失えない。失うくらいなら、見ない方がいい。見ないまま隣にいる方がいい。たとえ冬馬が何をしていたとしても。蓮司が最後に言った「お前が雨宮凪との間に何を隠してるのか」。
その答えが何であっても、朔夜はこの手を離さない。離したら、朝起きた時に誰もいなくなる。あの朝が来る。それだけは二度と来させない。
朔夜は冬馬の腕を掴んだまま、目を閉じた。冬馬の腕に爪が食い込んでいる。
窓の外で蝉の声が少しだけ弱くなっている。夕日がオレンジ色から紫に変わり始めている。朔夜の部屋が少しずつ暗くなっていく。二人とも動かなかった。夕日が消えて、部屋が薄暗くなっても、明かりをつけなかった。
