夕方、朔夜の家に行った。
朔夜が「うちに来る?」と聞いたのは初めてだった。二人きりで朔夜の家に行くのは初めてだった。いつもは部室か、コンビニか、喧騒の中だった。
朔夜の家は住宅地の奥にある一軒家だった。二階建て。庭は白いコンクリートで埋められて、一見綺麗に見える。夕日がそのコンクリートに当たって、白く反射している。花壇もなければ植木もない。水を撒く必要のない庭だった。
玄関は整理されていて、靴が少ない。男物の靴が二足だけ。聞くと朔夜と父親の分とのことだった。
リビングもとても清潔だった。整頓されている。物が少ない。生活感が薄い。ソファにクッションが一つだけ置いてある。台所のシンクに洗い物はなかった。冷蔵庫にマグネットもメモも貼られていない。カレンダーだけが壁にかかっていて、何も書き込まれていなかった。
テレビの横に写真立てが一つ。比較的新しい方の写真は、幼い朔夜と父親。二人だけ。母親はいない。写真立ての隣に、もう一つ写真立てを置いた跡がある。日焼けの色が違った。
「父親は夜まで帰ってこない」
朔夜が靴を脱ぎながら言った。振り返らずに。
朔夜の部屋は二階だった。六畳。傾いた日が窓を貫いて、埃が金色に燃えながら漂っていた。ベッドと机と本棚。光の中にあるものは反射光で輪郭が溶け滲んで、影の中にあるものは最初からなかったように沈んでいる。
他には何もない。壁にポスターも写真もない。本棚には教科書と文庫本が整然と並んでいる。朔夜らしい部屋だった。必要なものだけがある。余計なものがない。余計なものを置くと、それがなくなった時に気づいてしまうから。
「座って」
朔夜が床に座って、壁に背中をつけた。冬馬はベッドの端に腰を下ろした。二人の間に少しだけ距離がある。窓の外で蝉が鳴いている。扇風機をつけた。風が回り始める。
しばらく何も話さなかった。窓の外で鳴いている蝉の声が、二人分の沈黙を代わりに埋めていた。扇風機が首を振るたびに、カーテンの裾が揺れて、夕日の光が壁の上を行ったり来たりした。
話す必要がなかった。冬馬が自分の部屋にいる。自分のベッドに座っている。それだけで充分だった。
朔夜がぽつりと話し始めた。
「母親が出て行ったの、小学二年の時」
冬馬は黙って聞いた。
「朝起きたらいなかった。父親は何も言わなかった。今も言わない。母親の写真も、荷物も、全部なくなってた。最初からいなかったみたいに。下のリビングの写真立て見ただろ。実はあの写真立ての隣に、昔は三人の写真も並んでたんだ。父親が片付けたのか、母親が持っていったのか、わからない。聞いたことがない」
朔夜は壁に頭を預けて、天井を見ていた。感情を込めずに話している。事実として。でも話していること自体が、朔夜にとっては大きなことだった。冬馬にだけ話せること。他の誰にも話したこと無いこと。
「最初の一年くらいは帰ってくると思ってた。玄関の鍵を開ける音がするたびに、母親かもって思った。全部父親だったけど。二年目からは思わなくなった。三年目には、母親の顔がぼやけてきた。今はもう、写真がないと思い出せない。その写真もないけど」
朔夜は少し笑った。諦めに近い笑い。
「失くすのは慣れてる。慣れてるけど、もう失いたくない」
冬馬は何も言わなかった。
「だからさ」
朔夜が天井から冬馬に視線を移した。
「冬馬がいなくなるのだけは、いやだ。それだけは、本当に出来ないんだ」
朔夜は自分で言って、少し驚いたような顔をした。こんなに直接的に言うつもりはなかったのかもしれない。でも出てしまった。出てしまったものは戻せない。
冬馬は朔夜を見た。朔夜の声は震え、目からは涙が零れそうだった。
「いなくならないよ」
冬馬が微笑みながら手を伸ばし、泣いている子をあやすように朔夜を抱きしめた。冬馬の肌は温かかった。生きている温度。ここにいる証拠。
「いなくならないって言ったよな」
「うん」
「信じてるから」
朔夜は冬馬をただ力強く抱き返した。
