水に還る


 冬馬は水面を見つめていた。
 波紋がゆっくりと広がって、コンクリートの壁に当たって戻ってくる。やがて水面は静かになった。元通りの、黒い水面。何も映っていない。何も浮かんでいない。
 蓮司のスマホが水際に落ちていた。懐中電灯も。蓮司が持ってきたものの全部が、ここに残っている。蓮司だけがいない。
 冬馬は水面を見つめたまま、しばらく動かなかった。それから小さく微笑んで、水面に向かって呟いた。
「もう寂しくないね。湊と一緒になったから」
 冬馬は踵を返した。階段を上がり、封鎖区画を通り、廊下を歩いた。窓から外に出て、テープをくぐった。夜の空気は蒸していて、蝉がまだ鳴いていた。雲の隙間から月が覗いている。
 自転車のペダルを踏んだ。坂道を下る。夜風がぬるい。蓮司が水面で弾いた飛沫で少し濡れた髪が揺れる。虫の声が遠くから聞こえる。住宅地の窓に明かりが点いている。誰かの家で、誰かが普通に夜を過ごしている。テレビを見て、風呂に入って、布団に入って。普通の夜。何も起きていないみたいな夏。
 冬馬は家に帰った。普通にシャワーを浴びて、普通にベッドに入った。何も変わらない顔をして。机の上のコップの水面が、ほんのわずかに揺れていた。冬馬はそれを見つめて少し微笑んで、目を閉じた。