その夜。
蓮司は家を出た。
午後十一時。家族には「少し出てくる」とだけ言った。父親は書斎にいて、「気をつけろ」とだけ返した。蓮司の家は、そういう家だった。互いに干渉しない。信頼していると言えば聞こえはいいが、実際は距離がある。蓮司が何をしているか父親は詳しくは知らないし、父親がオフの日に何をしているか蓮司も知らない。
自転車で山の方へ向かった。夜の道は暗い。街灯がまばらで、住宅地を抜けると闇がさらに濃くなる。ペダルを踏むたびに自転車のライトが路面を照らし、虫が光に集まってきた。懐中電灯を一つ、バールを一つ、新しく買ったメガホンを一つ、鞄に入れて。スマホはポケットに入っている。
怖くないかと言われれば、怖い。陽翔が消えた場所。湊が消えた場所に繋がっている場所。旭が溺れた水と同じ水がある場所。そこに一人で、夜に行く。怖くないわけがない。
でも行く。蓮司には行く理由があった。陽翔を一人で行かせた。旭を守れなかった。湊が電話をかけてきた時に出れなかった。三つの後悔が蓮司の背中を強く押している。誰も守れなかった。せめて真実を見つける。それだけが、蓮司に残された最後の仕事だった。
旧校舎の前に着いた。立入禁止のテープが闇の中に黄色く見える。蓮司はそれをくぐった。
横の窓から入る。あの日と同じ入り口。中は暗くて、湿っていて、水の匂いがする。懐中電灯の光が廊下を照らす。昼間とは全く違う旧校舎だった。夜の旧校舎は、さらに湿度が高く、濡れた空気が蓮司の足取りを常に掴んで引き戻そうとする。壁紙が濡れているのが光に照らされて見える。天井の至る所の水染みが、暗闇の中で生き物のように広がっている。
足音が静寂に響く。自分の足音だけが、湿った廊下に反響して返ってくる。あの日は六人分の足音があった。今は一人。
一階右奥に位置する入口から一番遠い場所。封鎖区画の扉。あの日、板の隙間から水音が聞こえた場所。校舎全体の水を送っていた貯水槽がこの下にある。旧校舎の中で、唯一誰も入っていない場所。全部が水に繋がっているなら、ここが源だ。
蓮司はバールを取り出した。板に差し込んで、力を込める。釘が軋む。木が軋む。音が暗い廊下に反響する。一枚目が外れた。二枚目。三枚目。腕が痛い。汗が額から落ちた。板を外すたびに、隙間から冷たい空気が流れ出してくる。水の匂い。深い場所の匂い。
扉を開けた。地下への階段。コンクリートの階段が暗闇の中に続いている。水の匂いが一気に強くなる。温度が下がる。
一段降りるごとに空気が重くなる。空気を吸っているのに、水を飲んでいるような感覚。肺の底に冷たいものが溜まっていく。階段を降りているのではない。沈んでいっているのだ。壁に手をつく。コンクリートが冷たい。結露している。指先が濡れる。
階段は十三段ほどあった。降りきると、空間が開けた。
地下貯水槽。
コンクリートの壁と床に囲まれた、教室一つ分ほどの大きさの水槽。水が溜まっている。黒い水面。懐中電灯の光が水面に反射して、天井にゆらゆらと光の模様を作っている。四年分の雨水と地下水が溜まっている。水面には薄い膜のようなものが張っていて、光を鈍く反射している。
水面は静かだった。音がない。完全な静寂。蝉の声すら届かない。地上の夏とは切り離された場所。ここだけ季節という概念そのものがないようだった。空気が冷たい。吐く息が白くなりそうなほど。
蓮司は貯水槽の縁に立った。コンクリートの縁は湿っていて、足元が滑りやすい。懐中電灯で水の中を照らす。黒い水。底が見えない。光が水に吸い込まれていく。何も照らせない。
水面に、かすかな波紋が広がった。風はない。蓮司が立っているだけで、何かが反応している。水の底で、何かが動いた。
ここに答えがある。蓮司はそう思った。この水の底に。全ての始まりが。
そう思った瞬間、体が前に傾いた。
蓮司の体が反応するより先に、足がコンクリートの縁を離れる。水面が目の前に迫る。落ちる。落ちる瞬間は、思ったより長かった。肩甲骨の間を何かに強く押された。振り返る余裕はなかった——が、肩越しに、一瞬だけ見えた。
冬馬の顔。
先程まで蓮司がいた階段の数段上に冬馬が立っていた。腕を伸ばしたまま、しゃがんで覗き込んだ姿勢で。
蓮司の体が水面を叩いた。
冷たかった。八月の夜に、この水だけが真冬だった。全身の体温が一瞬で奪われる。肺が縮む。声が出ない。水が口に入る。暗い。懐中電灯は手を離れて沈んでいく。光が遠ざかっていく。
水の中は暗かった。何も見えない。上も下もわからない。手が足首を掴んだ。冷たい。水よりもさらに冷たい。何本もの手。下へ引っ張る。
蓮司の体が沈んでいく。服が水を吸って重い。手足を動かす。水面に戻ろうとする。
水面を見上げる。暗い水の向こうに、かすかに光がある。地下貯水槽の天井。その光の中に、冬馬の顔がある。水面の上から、こちらを見下ろしている。水面越しに冬馬の顔が揺れて歪んでいる。
冬馬は——笑っていた。
穏やかに。優しく。
「みんな一緒だからね」
水の中にいる蓮司に、その声が届いたかどうかはわからない。水面の上で冬馬の唇が動いていた。
蓮司の意識が遠くなる。水が肺に入っていく。冷たい。暗い。手がまだ足を掴んでいる。引っ張っている。深い方へ。闇の底へ。
湊、と蓮司は思った。お前もこうだったのか。この冷たさの中に沈んでいったのか。俺が電話に出ていれば、お前はここに来なくて済んだのか。
水面の上で、冬馬の声が聞こえた。いつもより弾んだ声で。
「やって」
沈みながら、蓮司は理解した。
映像の「まって」は違う言葉だった。
湊、ごめん。
それが蓮司の最後の思考だった。
