水に還る


 二人きりになった。
 扇風機の音。蝉の声。曇り空の光が、窓からぬるく差し込んでいる。蓮司が座っていた椅子が、斜めに引かれたまま残っている。
 しばらくどちらも話さなかった。長い沈黙だった。蓮司の言葉が、部室の空気の中にまだ残っている。「見ないふりしてるだろ」。その一言が、曇りで薄暗い部屋の中、扇風機のぬるい風に乗って何度も部屋の中を回っている。
 朔夜が先に口を開いた。
「蓮司先輩の言ったこと」
「なに」
「見ないふりしてるって」
「……」
「してるのかな。俺は」
 冬馬は朔夜を見た。朔夜は窓の外を見ていた。曇り空を。目が遠かった。ここにいるのに、どこか別の場所を見ているような目。三年前のことを思い出しているのかもしれない。教室の隅でぼんやりしていた冬馬。「何かあった?」と聞いて、首を振られて、それ以上は聞かなかった。それが最初の「見ないふり」だったのかもしれない。
「してないし、見ることだけが全てじゃないよ」
 冬馬が言った。声は穏やかだった。
 朔夜は冬馬を見た。信じたい目。「信じてるから」と言った、あの目。でもその目の奥に、今日は小さな揺れがあった。蓮司の言葉が、朔夜の中で何かを動かしている。まだ小さい。まだ形にはなっていない。でも確実に、何かが揺れ始めている。
「……そうか」
 朔夜はそれだけ言って、窓の外に視線を戻した。
 冬馬は朔夜の横顔を見ていた。朔夜は聞かなかった。「お前は本当は何を隠してるんだ」とは、「俺にだけ教えてくれ」とは聞けなかった。蓮司にあれだけ言われた後でも、冬馬に直接聞くことを選ばなかった。聞けたのに、聞かなかった。最初からずっと、そうだった。
「帰ろうよ、朔夜」
 冬馬がそう言って立ち上がった。朔夜は少し遅れてついてきた。