脱衣所で服を脱ぐ。鏡に映る自分の顔は、数日前より少しだけましになっていた。隈はまだあるが、目の赤みは引いている。そんな自分が少し嫌になった。
風呂場のドアを開ける。動作に付随する音が少しだけ反響した。湯気が立ち込めている。浴槽に湯が張ってある。白いタイルの壁、プラスチックの蓋、銀色のシャワーヘッド。窓の外から虫の声が微かに聞こえる。湿気を帯びた空気が夏なのに少し肌寒く、その何もかもがいつも通りだった。
蓋を外す。湯気が顔にかかった。温かい。生きている温度。
体を洗った。シャワーの水が体を流れていく音。排水口に泡が吸い込まれていく音。何でもない環境音。毎日の動作。シャンプーの爽やかな匂い。リンスの甘い匂い。
髪を洗い終わってシャワーヘッドを戻したその時、蛇口の根元から水滴が一つ垂れた。ぽたり。排水口に落ちて消えた。その音が、旧校舎の廊下で聞いた水音に似ていた。ぽたり。ぽたり。不規則に、けれど確実に。
やめてくれ。気のせいだ。自分の家の風呂場だ。ここには何もない。
浴槽に浸かった。
湯はぬるかった。沸いてから三十分以上放置していたから、温度が下がっている。ぬるい湯。夏の夜の、ぬるい風呂。心地よくも不快でもない温度。肩まで沈めると、一日分の疲れが少しだけ溶ける気がした。湯が肌を包んでいる。守られているような感覚がある。風呂場の湿気が窓ガラスを曇らせている。普通の夏の夜。何千回と入った普通の風呂が、今だけは全てを忘れさせてくれた。
目を閉じた。
今日のことを考えていた。コンビニのアイス。提灯。陽翔の話をした。泣きそうになった。でも最後に少し笑えた。蓮司と冬馬と朔夜がいたから。聞いてくれる人間がいたから。
明日、蓮司が映像を見直す。何か手がかりが見つかるかもしれない。陽翔がどこにいるのか。湊がどこにいるのか。もう数日経っている。諦めたくない。諦めたら、陽翔の大事にしている三百十二人のチャンネルの先に、何も残らなくなる。
水音がする。自分の呼吸で湯面が揺れている。蛇口から雫が一つ落ちた。ぽたり。それだけの音が、やけに大きく聞こえた。風呂場は密閉された残響室となって、音が反響した。いつもそうだ。いつもと同じだ。
目を開けた。
湯の色が変わっていた。
透明だったはずのお湯が、わずかに濁っている。薄い緑。藻のような色。浴槽の底が見えにくくなっている。入浴剤は入れていない。さっきまで透明だった。さっきまで——自分の足が見えていたはずだ。
旭は体を起こした。湯の表面を見る。湯気が立っている。天井の換気扇が回っている。壁のタイルは白いまま。何もおかしくない。おかしくないはずだ。
気のせいか。疲れているから。寝不足だから。この数日の緊張で、神経が過敏になっているだけだ。
もう一度体を沈めようとした時、足先に何かが触れた。
浴槽の底。自分の足しかないはずの場所。つるりとした浴槽の底面。そこに、白い、指のようなものが触れた。
冷たかった。
湯の中にいるのに、その一点だけが氷のように冷たい。夏の夜のぬるい風呂に、真冬の氷が一点だけ混ざったような。骨に触るような冷たさが、足の指先から走った。
心臓が跳ねた。旭は足を引いた。湯がばしゃりと揺れる。揺れた湯が浴槽の縁を叩いて、タイルの床に跳ねた。
急いで立ち上がって浴槽の底を見る。湯は濁っていて、よく見えない。浸かった膝から下がぼんやりと歪んで見える。見えないのに、底の方に何かがある気がする。白い。ぼんやりと。人の形のような——
指。
浴槽の底に、指が見えた。自分のものではない。白い。長い。指の先が、死んでいるように青い。
手が出てきた。
湯の中から。一本ではなかった。
何本もの手が、浴槽の底から同時に伸びた。ありえない。浴槽の底は排水溝以外に穴などない。なのに、底面を大きく突き破るようにして、何本もの白い手が伸びてくる。水が弾ける。湯ではない。手が触れた場所から、湯が冷水に変わっていく。ぬるかったはずの湯が、凍りつくような温度に変化し、その落差で脳が混乱する。出なければいけないのに、どう動けばいいかわからない。わからないまま、手はどんどん増えていく。
旭は叫ぼうとした。口を開けた。
「——っ」
声が出た。出たのに、途切れた。手が足首を掴んで旭は転ばされてしまった。逆流する水に肺が痙攣するように喉が閉じた。
掴まれた足首が冷たい。冷たいなんてものじゃない。触れた場所から体温が奪われていく。皮膚の下の血液が一瞬で冷やされるような感覚。爪が食い込む。痛い。痛いのに、冷たさの方が強くて、痛みがぼやける。
もう一本が腕を掴んだ。もう一本が腰を。何本あるのかわからない。五本、六本、それ以上。全部が同時に、同じ方向に引っ張っている。浴槽の底へ。底へ。
浅いはずの浴槽が、底なしの深さを持っているかのように、体が沈んでいく。背中がプラスチックの底面を通り抜ける感覚。ありえない。ありえないのに、沈んでいく。底面の向こう側に、冷たい暗闇がある。家の風呂場の、その下に、別の場所があった。暗くて、冷たくて、何もない場所。——いや、何かいる。手の持ち主。いくつもの手の持ち主が。
母さん、と思った。居間で寝落ちしている母親。テレビの音。リモコンが床に落ちている。あの普通の風景の、すぐ隣で。壁一枚隔てた場所で。
陽翔、と思った。お前もこうだったのか。あの教室の水溜まりで。湊も。あの公園の池で。同じ手に掴まれて。同じ冷たさの中に沈んでいったのか。俺も同じ場所に行くのか。
声にはならなかった。
脱衣所では、旭のスマホの画面が光っていた。陽翔とのチャットが開いたまま。最後のメッセージは持ち物リスト。カメラ二台、ライト、三脚。もう二度と既読がつかない画面だけが、脱衣所の棚の上で静かに光っていた。
風呂場から、ばしゃん、と大きな水音がした。
一度だけ。
その音を最後に、何も聞こえなくなった。
