水に還る


 交差点で蓮司が別れた。「無理するなよ」と旭に言って、皆と違う道を歩き出した。蓮司の背中は真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎた。折れないように力を入れている背中。あの背中に湊がついていっていた。半歩後ろを小走りで追いかけていた。今はもう、蓮司の後ろには誰もいない。
 旭も自分の方向へ曲がる場所に来た。
「じゃ、また明日」
 旭が手を上げた。夕日を背にしていて、顔が少し影になっている。
「旭」冬馬が呼び止めた。
「ん?」
「……いや、なんでもないよ」
 言いかけてやめた。言おうとしたことがうまく形にならなかった。大丈夫か、と聞きたかったのか。辛いよな、と慰めたかったのか。自分でもわからなかったから。
 旭は少し待って、それから笑った。
「さっきのは、ごめんな。肝心なこと話してないとか、偉そうに。俺も陽翔に言えてなかったくせに。ありがとうとか。お前がいて楽しかったとか。男同士でそんなこと言わないけどさ。思ってたのは、本当だから」
 旭は照れくさそうに頭を掻いた。それから冬馬と朔夜を交互に見て、もう一度笑った。今日一番の、本物の笑顔だった。
「お前らも、言いたいこと言えよ? ほんとに、さ」
 手を振って、角を曲がっていった。夕日の中に旭の背中が消えていく。
 朔夜と冬馬が残った。
 二人で並んで歩く。夕日が落ちかけている。住宅地の道は静かで、二人の足音と自転車のチェーンの音だけが聞こえている。
 旭が曲がっていった角が、もう見えなくなっている。
 朔夜は黙って冬馬の隣を歩いていた。いつもより近い。歩く足のリズムが、いつの間にか揃っている。申し合わせたわけではない。自然にそうなっている。
 住宅地の角を曲がると、小さな川沿いの道に出た。用水路に水が流れている。夕日が水面にオレンジの筋を作っている。普通の、夏の夕方の風景。冬馬の目がほんの一瞬だけ水面に向いて、すぐに逸れた。
 朔夜が歩みを止めた。冬馬も止まった。
「冬馬」
「なに」
「……いや、なんでもない」
 言いかけてやめる。朔夜らしかった。
 でも冬馬は待っていた。急かさなかった。自転車を支えたまま、その大きい瞳で朔夜を見ていた。
 蝉の声。夕日の色。どこかの家の窓から聞こえるテレビの音。この町の発展の理由になったと言われる大きな川の音。
「お前がいなくなったら、俺はどうすればいいんだ」
 朔夜が言った。前を見たまま。冬馬を見なかった。
 質問ではなかった。答えを求めていない。ただ、胸の中にあったものが、口から漏れただけだった。陽翔がいなくなり、湊がいなくなり、次は誰かわからない。その「誰か」が冬馬だったら。朔夜はそれを考えている。考えて、怖くなっている。
 朔夜は母親がいない子供だった。幼い頃に母が家を出て、それきり戻らなかった。失うことを、誰よりも知っている。失ったものは戻ってこないことを、体で覚えている。だから、残ったものにしがみつく。しがみつくくせに、しがみついていることを悟られたくない。そういう人間だった。「お前がいなくなったら」と言ったこの瞬間だけが、朔夜の心の傷から漏れ出た血だった。
 冬馬は少し間を置いて、答えた。
「いなくならない」
 朔夜がようやく冬馬を見た。確かめるような目だった。嘘ではないか、と。
「いなくならないよ」
 冬馬はもう一度言った。声は静かだった。穏やかだった。
 朔夜は数秒、冬馬を見つめた。夕日が朔夜の目を橙色に染めていた。いつもは読めない朔夜の目が、この瞬間だけ透けて見えた。怖がっている。失うことを。
 それから前を向いて、下り坂になった帰り道を歩き出した。
「信じてるから」
 それだけだった。でもその声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。信じたのだと思う。信じたかったのだとも思う。
 冬馬も追いつくように歩き出した。二人の肩がぶつかった。ぶつかったまま、しばらく並んで歩いた。避けなかった。どちらも。夕日の中を二人で歩く。アスファルトに伸びた二つの影が重なっては離れて揺れていた。