何もすることがなかった。
旧校舎にはもう行けない。警察に任せるしかない。でも何もしないでいるのが一番辛かった。蓮司はスマホで何かを確認していた。画面は冬馬からは見えなかったが、蓮司の指が時々止まって、何かを読み込んでいるのがわかった。
旭が天井を見たまま、ぽつりと話し始めた。
「陽翔とさ、最初に喋ったの覚えてる? 俺は中学の時。隣の席だったんだよ」
誰にも求められていなかった。でも旭は話し始めた。話さないと、この部室の空気に押し潰されるから。
「最初の会話、『消しゴム貸して~ン♡』だぞ。語尾にハートがつくような。授業中なのにふざけてるよな、それだけ。俺も何故か同罪みたいになって、二人でその後職員室で怒られてさ。でもそっから、なんかずっと一緒にいた。理由ないんだよ。気づいたら隣にいた」
旭は笑いながら話していた。天井を見たまま。目が赤い。
「動画始めたのは高一の時で、最初の動画の再生数、十五だった。十五。俺と陽翔が繰り返し見た十回くらいと、たぶん間違って押した人たち。二人で見て、陽翔が『初回にしては上々だな』って。どこが上々だって突っ込んだら、あいつ『ゼロじゃないだけマシ』って笑ってた」
旭は少し間を置いて、続けた。
「いつも俺が三脚持たされてたんだよ。重いんだよあれ、邪魔だし。『お前の方が筋肉あるから』って理由で。意味わかんないだろ。でもあいつがカメラ構えてる時の顔がさ、なんか良いんだよ。普段ふざけてるくせに、ファインダー覗いてる時だけ真剣で。その顔見てると、まあ三脚くらい持ってやるかって思えた」
蓮司がスマホから顔を上げて、旭を見た。蓮司は何も言わなかった。ただ聞いていた。
「で、あのバズったやつ。自転車と傘で飛ぶやつ。あれ撮った日、天気めちゃくちゃ良くてさ。俺が自転車漕いで、陽翔が傘持って後ろに乗って。飛ぶわけないじゃん。当たり前じゃん。でもあいつ真剣に『いけるいける!』って言うから、俺も本気で漕いだんだよ。坂道下ってさ。で、一瞬だけふわっとなった気がしたんだよ。気のせいだけど。その気のせいが面白くて、二人で派手に転がりながら笑った。体中すりむいて傷だらけなのに笑ってた。で、それが十五万回再生された。あいつ三日間ずっとスマホ見てた。再生数が増えるたびに報告してきて、うるさかった。でもそのうるさいのが、別に嫌じゃなかった」
旭の声が少しかすれた。笑いながら話しているのに、声だけが追いつかなくなっていた。
「いつかチャンネル登録者一万人行ったら焼肉おごるって言ってた。俺いつも三脚持ってるから、せめて焼肉くらいおごれって。まだ三百十二人なのに。おごってもらってねえのに」
旭は天井を見たまま、腕で目を覆った。泣いてはいなかった。泣く手前で、腕で蓋をした。
蓮司は黙っていた。
旭が陽翔を語る言葉を、一つも遮らずに聞いていた。蓮司自身の中にも、同じ形の空洞があった。湊。大事な後輩の名前。「先輩がいてくれて安心しました」と送ってきた最後のメッセージ。電話に出なかった午後五時四十三分。
蓮司の中にはそれがある。あるのに、言葉にならない。
旭は語ることで傷に触れている。指を突っ込んで、血を見て、痛いと叫んで、それでも触れ続けることで自分の中の陽翔を確かめている。言葉にすれば、少なくともそれは外に出る。出れば、少しだけ軽くなる。あるいは軽くはならなくても、形にはなる。形になったものには、名前がつけられる。悲しみだと。後悔だと。そう呼べるものは、まだ扱える。
蓮司にはそれができなかった。蓮司の中にあるものは、語ろうとすると喉の手前で溶けて消えた。言葉になる前に無くなって、声帯を通らない。唾液に溶けて無くなっていってしまっているような感覚。飲み込むこともできない。吐き出すこともできない。だけど、ただそこにある。溶けて、でも重く、冷たく。
だから蓮司は聞いている。旭が語る陽翔の話を、一言も漏らさず聞いている。旭の言葉を受け止めることで、自分の中の同じ形の空洞を間接的に確認している。触れずに、輪郭だけをなぞっている。自分のものには名前をつけられないから、旭のものに名前がつく瞬間を、隣で見ている。
冬馬は黙っていた。
朔夜も黙っていた。
旭が腕を下ろして、笑った。赤い目のまま、笑った。
「ごめん。重いな」
「重くねえよ」
蓮司が言った。優しい声だった。それ以上は言わなかった。
