夕方。まだ明るい。
湊は財布とスマホだけ持って家を出た。ホームセンターまで歩いて十分。陽翔を探すためのメガホンを買いに行こうと思った。
「田舎にはホームセンターがコンビニほどある」と笑っていた陽翔を思い出していた。いつもの道。住宅地の中の、何の変哲もない道だった。
隣の家の庭で子供がホースで水を撒いている。アスファルトに水の筋が伸びて、排水溝に流れ込んでいく。どこかでテレビの音が聞こえる。夕飯の匂い。
サンダルがコンクリートを叩く乾いた音。自分の足音だけが大きく耳に入ってくる。空は夕焼けに染まりかけていて、電柱の影が長く伸びている。汗はかいていない。旧校舎の中の冷えた湿気が嘘のように、ここは普通の八月の夕方だった。
道の途中に、草生した公園があった。遊具が三つと、ベンチが二つ。奥にブランコの錆びた骨組みが見える。その公園の隅に、コンクリートで囲まれた池がある。鯉がいたこともあったが、今は排水口が詰まっているせいで浅く溜まっている水があるだけだった。藻が浮いていて、水は濁った緑色。子供の頃は棒で水面を叩いて遊んだ記憶がある。何でもない場所。通学路の途中にある、見慣れた公園。
湊はその公園の前を通りかかった。
足が止まった。
池の水面が、揺れていた。
風はない。夕方の空気は重く、木の葉も動いていない。ブランコのチェーンだって揺れていない。なのに水面だけが、ゆっくりと、呼吸するように波打っている。
自分が見たのは旧校舎の、あの廊下に突然現れた水溜まり。天井から落ちてない、あるはずのない水。
目を逸らすべきだった。わかっていた。旧校舎で見たことを覚えている。映像に映っていた白い影。陽翔先輩が消えた教室の水溜まり。関わるべきではないと、頭ではわかっていた。
足を止めて立ち去ればいい。近くのコンビニまで走って行けばいい。家に帰ればいい。
でも、水面の下に何かが見えた。
白い。ぼんやりと。水の濁りの向こう側に、人の輪郭のようなものが浮かんでいる。
それが陽翔先輩の顔に似ていたせいか。
湊の足が一歩前に出た。自分の意思なのか、わからなかった。心臓が速くなっている。有り得るわけがないのに、と思う。思うのに、足がもう一歩出る。
水面がさらに揺れた。波紋が広がって、池の縁のコンクリートを濡らす。
白いものが、より鮮明になった。制服。濡れた制服。陽翔先輩ではないものが、こちらを見ている。
湊はスマホを取り出した。
手が震えている。画面をタップする。連絡先。通話ボタン。
「蓮司先輩!」
呼び出し音が鳴った。
一回。二回。
出ない。
三回。四回。
蓮司は出なかった。
シャワーを浴びていたのかもしれない。夕飯を食べていたのかもしれない。スマホを別の部屋に置いていたのかもしれない。理由は何でもいい。ただ、この瞬間、蓮司には届かなかった。
呼び出し音が鳴り続けている間に、池の水面が叩かれたように弾けた。
手が出てきた。
一本ではなかった。
水の中から、何本もの手が同時に伸びた。白い。指が長細く、その先から水が滴っている。
湊の足首を掴んだ。
冷たかった。骨の芯まで凍るような冷たさが、足首から一気に全身に広がった。
蓮司先輩と叫ぼうとした。うまく言葉にならなかった。喉が凍りついたように痙攣するだけだった。
数多の手が湊の体を引く。足が滑る。コンクリートの縁で頭をぶつけた。痛みの熱さは一瞬だけで、すぐに冷たさに呑まれた。
もう一本の手が、ふくらはぎを掴んだ。もう一本が、腿を。もう一本が、腰を。
引きずり込まれていく。浅いはずの池が、底なしの深さを持っているかのように、湊の体が沈んでいく。
水が顔にかかった。口に入った。叫べない。蓮司先輩、と思った。もう声にはならなかった。
スマホが地面に落ちた。
画面には蓮司への発信画面が表示されたまま。通話時間のカウンターは動いていない。繋がらなかった。
呼び出し音だけが、誰もいない夕方の公園に虚しく響いていた。
蝉が鳴いている。
子供がホースで水を撒く音が聞こえる。
日常は何も変わっていない。ただその時、湊だけがいなくなった。
