水に還る


 部室棟の二階、視聴覚準備室を間借りした新聞部の部室には、すでに四人がいた。
 窓際のパイプ椅子に足を投げ出しているのが朔夜(サクヤ)。その向かいでビデオカメラを分解するように弄っているのが陽翔(ハルト)。黒板の反対方向の壁際に並べて整理された机の上にバカみたいに寝転がって天井を見ているのが(アサヒ)で、ここまでが冬馬と同じ二年。
 その寝ている旭の横で椅子に座って携帯をいじっているのが、春に入ったばかりの一年の(ミナト)だった。
 扇風機は一応動いているが、顔が向いている真ん中あたりだけがぬるく冷えていて、部屋の隅はほとんど外と変わらない。窓際は特にひどく、カーテンを閉め切っていても布越しに日差しの熱が伝わってくる。薄暗い中に窓の隙間から入る光だけが白く筋を作り、その光の中を埃が泳いでいた。旭の額にも陽翔の腕にも汗が浮いていて、部室全体がぬるい体温を帯びていた。
「おっせーよ」
 旭が寝転がったまま言った。冬馬が「十分前に行くって言ったばっかでしょ」と返すと、湊が顔を上げて「冬馬先輩、こんにちは」と律儀に頭を下げた。
 朔夜は何も言わず、足元に置いていた保冷バッグからペットボトルのスポーツドリンクを取り出して、冬馬の方に放った。冬馬はそれを片手で受ける。冷たい。結露で手が濡れた。
「ありがと」
「ん」
 それだけだった。朔夜はもう缶コーヒーを片手に窓の外に目を戻している。冬馬はその横に座る。自然に、他の椅子が空いているのに、朔夜の隣を選んでいた。
「もう夫婦じゃん、お前ら」
 旭が天井を見たまま笑った。
「うるせえ」と朔夜が返した。
「はいはい照れない照れない」旭はにやにやしている。
「殴るぞ」
 少しムッとした朔夜に湊がくすくす笑い、陽翔は何かのネジを外しながら「仲良いねえ」と他人事のように言った。冬馬だけが何の反応も返さず、さきほど受け取ったペットボトルを開けた。
 こういう空気だった。いつも。
 名目上は新聞部だが、最後に新聞を刷ったのがいつだったか誰も覚えていない。去年、顧問が退職してからは引き継ぐ教師もおらず、最近の活動は専ら陽翔が熱中している動画投稿サイトのチャンネルの手伝いになっている。
チャンネルの名前は一応あるが、登録者は三桁の前半で、陽翔が調子に乗って上げた「自転車と傘で空を飛んでみた」のショートだけが一度小さくバズったきり、あとは再生数二桁の動画が並んでいる。学校では「なんかバカやってるグループ」くらいに知られていて、それ以上でも以下でもない。
 部活というよりは、仲のいい人間が夏休みに集まるための理由だった。冬馬にとっては、ここが今の居場所だった。

「で、今日なんかやんの?」
 旭が聞いた。陽翔が「あ、そうだ」とカメラを置いて体を起こす。目が光っていた。こういう顔をする時の陽翔は、だいたいろくなことを言わない。
 スマホを取り出して画面をこちらに向けた。
「見て、これ。昨日DMきたんだけど」
 画面にはTwitterのダイレクトメッセージが映っていた。一通だけ、短い文章が表示されている。
 ——あの旧校舎の連続死亡事故、実はイジメでプールで死んだ男子生徒の呪いだったって知ってた?
 湊が後ろから覗き込んで、顔をしかめた。
「え、なんですかこれ。アイコンもプロフィールもないし、フォロー数もフォロワーもゼロですよ。怖いんですけど」
「あやしすぎる」冬馬もそう反応した。
 二人の反応を聞いてもなお、陽翔は満面の笑みだった。
「これ、タレコミっていうの。遂に俺たちにもタレコミが来る時代だよ」
 旭が「お前のチャンネル登録者三百人だぞ」と突っ込み、すかさず陽翔は「三百十二人な」と訂正した。陽翔はそのまま続けた。
「四年前に閉鎖になったやつ、あるじゃん。山の方の旧校舎。生徒何人か死んで、水害がどうのって新聞にも載ったやつ」
 旭が体を起こした。「あー、なんか聞いたことある。呪いとかいう話のやつ?」
 陽翔が頷いた。
「そう、最初に死んだ生徒の呪いとかなんとか。それで他の生徒も何人か死んで、校舎ごと閉鎖。で、もうすぐ解体が始まるらしいんだよ。なくなる前にプールとか撮っといたら、絶対おいしくない? 夏だし」
「それ、立入禁止だろ」
 この部活でただ一人、三年生の蓮司(レンジ)が汗を拭きながら部室に入り、眉をひそめながらそう言った。
 陽翔が即座に返す。
「だから良いんすよ。解体始まるって話もあるし、夏だし」
 蓮司は腕を組んだ。
「怪しいDMに釣られるのか?」
「釣られるんじゃなくて乗るんすよ」陽翔は引かない。「肝試し企画。ぴったりじゃん、夏だし」
 陽翔は蓮司の苦い顔を気にしない。旭が「いいじゃん、面白そう、夏だし! 」と乗り、湊は「えー……」と嫌そうにしながらも、目は少し光っていた。怖いもの見たさは、この年齢では好奇心と区別がつかない。
 冬馬はペットボトルを握ったまま、笑顔を崩さず、少し目を伏せた。
 水害で生徒が死んだ旧校舎。その話が出た瞬間、胸の底が一段冷えたように感じた。腹の奥に小さな石が落ちたみたいに、重い。でもそれは表情には出さなかった。出す必要がなかった。ただ少しだけ目を伏せて、スポーツドリンクについたラベルの境目をなぞった。
 冬馬のその変化に気づいたのは、朔夜だけだった。隣で、朔夜の視線がこちらに一瞬だけ動いたのがわかる。
「冬馬、お前水苦手だよね」
 朔夜が言った。この部活の中では、冬馬が水まわりを微妙に避けることは何となく知られていた。海やプールに誘っても曖昧に断る。雨の日は機嫌が落ちる。そういう、漠然とした印象として。
 冬馬は少し間を置いてから、口を開いた。
「……別に。苦手じゃないし」
 朔夜は少し首を傾けた。
「嫌なら言えよ」
「大丈夫だから」
 声は平坦だった。ペットボトルの表面についた水滴が、指の間を伝って落ちた。
 陽翔は「じゃあ決まり!」と手を叩いた。蓮司が「明るいうちだけな。夜はなし」と条件を出した。旭が「了解了解っす、夏だし! 」と軽く返し、陽翔は「いじんな、それ」と返した。
 湊は半泣きの顔で「僕も行くんですか……?」と聞いたが、陽翔に「お前がいないと誰がライト持つんだよ」と言われて渋々頷いた。
 朔夜は何も言わなかった。冬馬の横で缶コーヒーを飲みながら、話がまとまるのを黙って聞いていた。