水に還る


 旧校舎を出た。
 外はまだ明るかった。傾きかけた日差しが、草に覆われた校庭を黄色く染めている。蝉が鳴いていた。さっきまでの冷たい湿気が嘘のように、八月の熱気が体を包んだ。汗が一気に噴き出す。まだ暑い。まだ夏だった。旧校舎の中にいた時間だけが、別の季節のようだった。
 振り返ると、灰色の校舎は夕日の中で静かに立っていた。窓はどれも暗い。あの中に、陽翔がまだいるのかもしれない。いないのかもしれない。どちらとも言えない不確かさが、一番気持ちが悪かった。
 陽翔がいない。
 六人で来て、五人で出た。
 フェンスの外まで出て、崩れたブロック塀に腰を下ろした。全員がその周りに集まった。蓮司がカメラの電源を入れる。
「映像を確認する」
 液晶画面を囲んだ。小さな画面に五つの顔が近づく。蝉の声が耳元で鳴っているようでいやにうるさく、カメラのスピーカーの音が聞き取りにくかった。蓮司が音量を上げた。
 映像は、陽翔が一人で教室に入るところから始まっていた。画面が揺れる。陽翔の息遣いが入っている。教室は薄暗い。窓から入る光が細い線になって、机の上を横切っている。
「おい。さっきのやつ、もう一回出てこいよ」
 陽翔の声。軽い口調。まだ怖がっていない。カメラがゆっくり教室を舐めるように動く。机。椅子。黒板。何もない。
 三十秒ほど経って、陽翔がため息をついた。
「やっぱ駄目か——」
 その時、廊下側の窓ガラスに、水滴が一つ飛んだ。内側についているようだ。
 陽翔の声が止まった。カメラが窓に寄る。水滴がもう一つ。もう一つ。ガラスの内側を、ゆっくりと垂れていく。雨は降っていない。天井は乾いている。なのにガラスだけが、内側から濡れていく。
 陽翔が「なに、これ」と呟いた。カメラがさらに近づく。ガラスの向こう、廊下は暗い。水滴の筋越しに、何かがぼんやりと見える。白い。人の輪郭のような。動かない。ただ、そこにいる。
 陽翔が息を飲んだ。
 映像が大きくぶれた。
 水が跳ねるような音。重い何かが水面を叩く音。複数の、ばしゃ、ばしゃ、という音。一つではない。いくつもの何かが同時に水を打つような音。
 カメラが落ちた。天井が映る。
 陽翔の声はもう入っていなかった。数秒間、何も起きない。天井の水染みだけが映っている。時折、ぽたりと水音がする。
 それで映像は終わっていた。
 誰も何も言えなかった。
 湊が顔を覆っていた。肩が震えている。旭の唇がまだ白いままだった。蓮司は映像を最初から再生し直して、水滴の場面を何度か一時停止した。ガラスの向こうの白いもの。拡大しても判別できない。ただ、何かがいたことだけは確かだった。
「あの音、なんだと思う」
 蓮司が聞いた。誰に向けてでもなく。
水が跳ねる音。複数の。まるで何かが——何本もの腕が——水の中から伸びるような。
 誰も答えなかった。
 蓮司が映像を巻き戻した。さらに前。全員で探索していた部分。陽翔が一番前を歩いてカメラを持っていたから、歩く六人分の音だけが入っていた。足音と会話。旭の笑い声。湊のびびる声。普通の、ただの探索映像。
 蓮司が早送りにした。画面の中を六人の影が忙しなく動く。教室に入る。出る。廊下を歩く。何も起きない。何も——
 蓮司が一瞬だけ手を止めた。巻き戻して、再生した。廊下の映像。カメラが後ろを向いたときに写った五人の中で、冬馬だけが一瞬、廊下の奥——誰もいない方向——を向いて、小さく顎を動かしたように見えた。
 蓮司は数秒それを見つめてから、早送りのボタンを押した。画面が再び忙しなく動き始める。何か見たのか、あるいは何も見ていなかったのか、蓮司は何も言わなかった。
 蓮司がそこで止めた。
「今日はもう帰ろう」
 カメラの電源を切った。
「警察に言うべきだと思う」
 蓮司が続けた。その声には迷いがあった。正しいことを言っているのに、実行する段階になると蓮司にもためらいがあった。当然だった。不法侵入。閉鎖された建物に無断で入った。それを警察に報告すれば、自分たちも処分される。
 旭が食い気味に返した。
「でも不法侵入してたのばれますよ。学校にも連絡いくし、下手したら全員停学っすよ」
「それはそうだが、陽翔が見つからない以上——」
「明日もう一回探しに来よう」
 旭が遮った。声は必死だった。
「うん。たぶん、どっかから出たり、隠れて怖がらせてるだけっすよ。あの校舎広いし。裏口とかあるかもしれないし。どうせ明日になったら陽翔から連絡くると思います、絶対。あいつのことは俺が一番分かってる。あいつ方向音痴だから、迷って出口探してるだけかもしれないし」
 合理的な説明を並べている。言葉を並べるたびに心配が上回ってくるのか声が小さくなっていく。自分で言いながら、自分を信じ込ませようとしているのが見えるような。蓮司はそれを黙って聞いてから、頷いた。
「わかった。明日、もう一回行こう。それで見つからなかったら、何があっても警察に言う。それでいいか」
 旭が頷いた。湊も小さく頷いた。
 湊は黙っていた。さっきまで泣きそうだった顔が、無表情になっていた。何かを処理しきれなくて、感情が止まったような顔だった。目だけが乾いていた。
 冬馬も黙っていた。何か言うべきだと思ったが、何を言えばいいのかわからなかった。