水に還る


 二分が過ぎた。
 三分が過ぎた。
 陽翔は戻ってこなかった。
 廊下に立ったまま、五人は陽翔が消えた方を見ていた。蓮司がスマホを見た。
「五分だ。遅い」
 声をかけに行くことになった。蓮司と旭が廊下を戻る。冬馬と朔夜と湊はその場に残った。
 湊は壁に背中をつけて、自分の膝を抱えるようにしゃがみ込んでいた。冬馬はその横にしゃがんで湊の背中に手を当てていた。朔夜は冬馬の向かいの壁に寄りかかり、腕を組んでいた。
 廊下は静かだった。水音だけが、ずっと聞こえていた。天井から落ちる雫が、どこか見えない場所で水面を叩く音。
 湊が小さな声で言った。
「冬馬先輩」
「なに?」
「大丈夫ですかね。陽翔先輩」
 冬馬は少し間を置いた。
「大丈夫だよ。大丈夫だから。」
 自分の声がどう聞こえたのか、冬馬にはわからなかった。朔夜は何も言わず、腕を組んだまま二人を見ていた。
 足音が近づいてきた。蓮司と旭が戻ってくる。
 蓮司の表情が変わっていた。いつもの冷静さが、薄い膜一枚で保たれているような顔だった。旭はそれよりもっと悪い顔をしていた。唇が白く、手が震えていた。
「いなかった」
 蓮司が言った。
「教室に誰もいない。カメラだけ床に落ちてた。電源入ったまま」
 旭が笑おうとした。笑えなかった。
「ふざけてんだろ、あいつ。隠れてんじゃねえの」
「教室の中は全部見た。窓は板で塞がれてる。出口は廊下側だけだ。俺たちはその廊下をずっと見てた。陽翔が出てくるのは見てない」
「じゃあどこ行ったって言うんだよ」
「わからない」
 戸惑いながら今度は全員で教室に向かった。
 教室の中は、蓮司の言った通りだった。陽翔のカメラが床の真ん中の方に転がっている。液晶画面は天井を映していた。レンズは割れていない。ストラップが伸びたまま、水溜まりに浸っていた。
 水溜まり。
 教室の床に、人の体ほどの大きさの水溜まりが広がっていた。天井に漏水の跡はない。壁にも窓にも、水の出所がわからない。ただそこに、薄く、冷たい水が溜まっていた。カメラの液晶が水面にぼんやりと反射している。
 陽翔の靴跡は、教室の真ん中から三歩分だけ残っていた。そこから先は、何もない。足跡が途切れている。四歩目はなかった。三歩目の靴跡の周りだけ、急に水が少し多く乱れていた。まるでそこで何かに足を取られたかのように。
 旭が教室の隅まで走って、机の下を覗き、掃除ロッカーの中を開けた。空だった。廊下に出て叫んだ。
「陽翔! おい、バカ陽翔!どこにいんだよ!」
 廊下に声が反響する。湿った壁に吸い込まれて、返事の代わりに沈黙だけが戻ってくる。旭は隣の教室のドアを壊すように開けた。空だった。その隣も開けた。空だった。机と椅子と埃だけがある。
 蓮司がカメラを拾い上げた。ストラップについた水を振って、鞄に入れた。
 蓮司が「全員で探す。固まって動け、絶対にばらけるな」と言った。声は低かったが、有無を言わせない強さがあった。
 五人で校舎の中を回った。蓮司が先頭に立った。湊が蓮司にほとんどくっつくようにして歩き、旭がすぐ後ろに続いた。冬馬と朔夜が最後尾で、肩が触れるほどの距離で並んでいた。五人の足音だけが、湿った廊下に重なって響いた。
 二階の教室を一つずつ開けた。どの教室にも陽翔はいなかった。旭が教室に入るたびに「陽翔!」と叫び、その声が廊下の奥まで届いて、吸い込まれるように消えた。返事はなかった。一度もなかった。
 一階に降りた。昇降口、トイレ、保健室。さっき通った時と何も変わっていない。ベッドのマットレスは膨らんだまま、カーテンは揺れたまま。人の気配だけがない。
 封鎖区画の扉も確認した。板は打ちつけられたままで、触った形跡はなかった。隙間から冷たい風が吹いている。水音が奥で低く響いている。旭が板に手をかけて引こうとした。蓮司が「やめろ」と止めた。
「ここは開けられていない。陽翔がこの先にいる可能性は低い」
「でも——」
「床の状態もわからない。今ここを無理に開けて、お前まで怪我したら終わりだ」
 旭は手を離した。唇を噛んでいた。
 もう一度二階に戻った。陽翔が消えた教室にも戻った。何も変わっていなかった。水溜まりは広がりも縮みもせず、三歩分の靴跡と同じようにそこにあった。さっきと全く同じ景色が、探しても見つからないという事実だけを突きつけてくる。
 窓から差し込む光が、赤みを帯び始めていた。
 廊下はもっと暗かった。ライトを向けない場所の闇が、来た時より濃くなっている。天井の染みが影に溶けて見えなくなり始めていた。
 蓮司がスマホで時刻を確認した。
「六時を過ぎてる」
 独り言のように言った。さっきまで教室の床を横切っていた白い光の線が、今は橙色に変わっている。
「もう少し探させてください」
 旭が言った。声がかすれていた。
「暗くなる」
「まだ明るいっすよ。あと三十分——」
「この校舎は電気が通ってない。日が落ちたらライトだけが頼りになる。この状態で、床も壁も崩れかけてる建物の中を歩くのは危険だ」
 旭は黙った。蓮司の言っていることが正しいと、頭ではわかっている顔だった。でも体がその場を動こうとしない。ここを出たら、陽翔を置いていくことになる。それが足を止めていた。
「明日、朝一で来る」
 蓮司が旭の目を見て言った。
「明るいうちに、今日より時間をかけて隅まで全部探す。今日はもう出る。全員で出る。これ以上暗くなったら、探すどころじゃなくなる」
 旭は動かなかった。水溜まりの縁に立ったまま、教室の隅を見ていた。陽翔がどこかに隠れていて、暗がりの中からひょっこり顔を出すのを待っているようだった。
「旭」
 蓮司がもう一度、名前を呼んだ。今度は少しだけ柔らかかった。
「陽翔を見つけるために、お前まで怪我するわけにはいかない。明日必ず来る。約束する」
 数秒の間があった。廊下の奥で、水が滴る音だけが響いていた。
 旭が頷いた。小さく、一度だけ。目が赤かった。
「出るぞ」
 五人で廊下を戻った。来た時と同じ道。ただし、来た時より暗い。窓から入る光はもう薄い橙色で、影が廊下の半分以上を覆っていた。足元が見えにくくなっている。蓮司がライトで前を照らし、冬馬がスマホのライトで後ろを照らした。湊が冬馬の腕を掴んでいた。
 一階まで降りて、入ってきた窓から外に出る時、旭が一度だけ振り返った。暗くなりかけた廊下の奥を見つめた。何かを待つように。
しかし、何も起きなかった。旭は唇を引き結んで、窓枠を跨いだ。