〇瑞原家・食堂・朝
瑞原の地に来てから、いく日かが過ぎた。
朝の光が障子を透かし、静かな食堂に心地よく差し込んでいる。
澄乃は湯気の立つ汁椀を両手で運び、真紘の前にそっと置く。
もう最初の頃のようなおどおどしたぎこちなさはない。
屋敷の暮らしにも少しずつ慣れ、自分にできることを探しながら、日々を送っていた。
真紘はそんな澄乃の様子を、無言で見つめている。
真紘(心の声)
「……数日前から、守宮 恒一が何度も手紙を寄越してきている」
机の端に置かれた文。開かれた封。繰り返し読まれた跡。
真紘(心の声)
「一度澄乃を家に帰してほしい――飽きもせず、同じことを何度も」
真紘、静かに目を伏せる。
真紘(心の声)
「そこまでして、一度手放した澄乃を手元に置きたい理由はなんだ?」
一瞬、脳裏によぎる。
瑞原の地。
澄乃が来てから、土地の淀んだ空気が明らかに良くなっていること。
畑の作物が、目に見えて生気を取り戻していること。
真紘(心の声)
「もしあれが、澄乃がこの地の穢れを浄化する力を持っている証だとしたら。守宮がそのことに気づいたのだとしたら?」
真紘(心の声)
「……いや。これは澄乃を信じすぎかもしれない」
我に返るように、真紘は息を吐く。
真紘
「今日は何をするんだ?」
汁に口をつける前に、真紘が問う。
澄乃は少しだけ目を丸くしてから、控えめに微笑む。
澄乃
「畑を見に行こうかと。昨日見たら、植えた野菜がだいぶ育っていて……今日は手入れをしたら、もっと状態が良くなる気がするんです」
その声には、かすかな弾みがある。
真紘は澄乃を見る。
真紘(心の声)
「やはり、か」
真紘(心の声)
「あの作物が育つのは、偶然ではないのかもしれない」
澄乃は気づかぬまま、嬉しそうに続ける。
澄乃
「裏手の土も、以前より格段に状態が良くなってきていて……うまく育てば、みなさんの食事にも使えると思います」
真紘は何も言わず、ただ椀の湯気越しにその横顔を見つめる。
真紘心の声【彼女のいることで、この土地に変化が起きている。それだけは事実なのだ。守宮が何を考えているかはわからない―ー】
(暗転)
〇瑞原家・畑・昼
穏やかな陽の下、澄乃は畑にしゃがみ込み、伸びた葉を丁寧に間引いている。
土に触れる手つきはやさしく、けれどどこか慣れてもいる。
この屋敷で、自分にできること。
澄乃は少しずつ、それを見つけはじめていた。
澄乃(心の声)
「ここは何かすることに、ちゃんと意味がある」
風に揺れる葉を見て、澄乃の表情が和らぐ。
ふと、屋敷の裏手のさらに奥に目が向く。
背の低い草が群れている一角。人の手があまり入っていない場所。
澄乃「……あちらなら、違う野草があるかもしれない」
そっと立ち上がり、籠を抱えて歩き出す。
〇瑞原の地・裏手の林道~古社・昼
木々の間を抜け、澄乃は人気のない場所へと足を進める。
鳥の声も、途中から不自然に遠のいていく。
草をかき分けた先に、小さな社が見える。
崩れかけた石段。ひびの入った鳥居。
長く打ち捨てられていたことがひと目でわかる。
澄乃「こんなところに……」
一歩、近づいた、その瞬間。
ぞわり、と全身を冷たいものが走る。
澄乃「……っ」
視界が揺れる。息が浅くなる。
立っていられず、澄乃の膝が崩れかける。
その身体を、後ろから伸びた腕が強く支えた。
真紘「澄乃!」
真紘が澄乃の肩を抱き寄せる。
いつもよりはるかに強い声。
真紘「何をしている? ここへ近づくな」
澄乃は苦しげに息を整えながら、真紘を見上げる。
澄乃「ご、ごめんなさい……ただ、野草があるかと思って……」
真紘は崩れかけた社を鋭く睨む。
空気の淀み。肌にまとわりつく穢れの気配。
真紘「ここは穢れが濃い。おまえがひとりで来ていい場所じゃない」
強い口調。
けれど、その腕は責めるようではなく、落ちぬようにとしっかり支えている。
澄乃はそのぬくもりに、一瞬、言葉を失う。
澄乃「ご迷惑を……」
真紘「違う、お前になにかあったらどうするのだ!」
澄乃心の声【心配……された?】
守宮家では向けられたことのない眼差し。
責めるためではなく、自分の身を案じる声。
澄乃は戸惑うように目を伏せる。
真紘(心の声)
「何をしている」
真紘(心の声)
「もし澄乃に本当に何かしらの力があるなら、この機に試せばよかったはずだ」
真紘(心の声)
「なのに俺は――」
腕の中の澄乃が、まだ青ざめている。
真紘(心の声)
「彼女の身を案じた、そして彼女を信じたい、そう思ってしまった」
真紘の胸に、説明のつかないざわめきが広がる。
澄乃は真紘の袖をかすかにつかみ、消え入りそうに言う。
澄乃
「……ありがとうございます」
その声に、真紘はわずかに目を見開く。
言い返すこともできず、ただ支える手に少しだけ力を込める。
風が吹き、崩れた社の奥で、黒い気配がかすかに揺れた。
(暗転)
〇守宮家・当主の間・同刻
重苦しい空気の満ちた部屋。
守宮家当主・守宮 恒一は、机の上に積まれた報告書を荒々しくめくっていた。
家臣
「……はい。ここ数日、各地で頻発していた穢れの発生ですが、明らかに沈静化の傾向が見られます。土地の状態が、急速に良くなっているようで……」
恒一の指先がぴたりと止まる。
家臣
「守宮の者を向かわせても抑えきれなかった場所まで、今は不自然なほど静かで……原因は、まだ」
恒一
「原因がわからぬ、だと?」
低く押し殺した声。
報告書には、各地の地名と、減少していく穢れの記録。
恒一(心の声)
「守宮の力をもってしても抑えきれなくなっていた穢れが、急に減り始めた」
恒一(心の声)
「しかも、その時期は――」
脳裏に浮かぶ。
澄乃が瑞原へ嫁いだ日。
恒一の表情が険しく歪む。
恒一(心の声)
「まさか」
恒一(心の声)
「あれが、瑞原へ渡った途端に……?」
十八年前の記憶が、暗い底からにじみ出る。
あの日、見誤ったこと。
覆い隠してきた真実。
恒一(心の声)
「十八年前――やはりすべてを消し去るべきだったのか……」
しかし、その答えを確かめる術は、もうない。
恒一の拳が震える。
恒一
「あの若造……わしの命令を聞かぬなど」
机上の文を握り潰す。
恒一(心の声)
「早く澄乃をあの地から遠ざけなければ……」
その焦りを断ち切るように、別の使者が部屋に入る。
使者
「当主様。国より達しが」
恒一、苛立ちを隠さず顔を上げる。
使者
「瑞原家と守宮家の婚姻に伴う、形式的な祝言を執り行うことが決定いたしました」
一瞬、部屋が静まる。
使者
「民に対し、国の安定を示すための儀。ならびに、両家の関係を公に示す場となるとのことです」
恒一の顔が、さらに険しくなる。
恒一(心の声)
「祝言だと」
恒一(心の声)
「そんなものを挙げられれば、澄乃を認められてしまう……!」
だが国の意向を、真正面から退けることはできない。
恒一は歯噛みし、低く唸るように息を吐いた。
(暗転)
〇瑞原家・書院・夜
夜。
灯りを落とした静かな書院。
澄乃は真紘と向かい合って座っている。
ふたりの間には、国からの通達書。
澄乃は書状を見つめたまま、小さく息を呑む。
澄乃
「……祝言、ですか」
真紘
「形式的なものだ。民に両家の婚姻を示し、国の安定を印象づけるための儀式らしい」
澄乃は戸惑いながらも、そっとうなずく。
澄乃
「私に、務まるでしょうか……」
真紘
「務まるかどうかではない。国が決めた」
真紘の声音は淡々としている。
だがその目だけが、澄乃をまっすぐ見ていた。
少しの沈黙。
澄乃
「……わかりました」
静かな返事。
逃げるでもなく、拒むでもなく。澄乃なりに、覚悟を決めた声。
しかし真紘の表情は晴れない。
真紘
「澄乃」
澄乃
「はい」
真紘は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とする。
真紘
「祝言を挙げれば、今より簡単には離縁できなくなる」
澄乃が、はっと顔を上げる。
真紘
「……後悔はないのか」
静かな問い。
けれど澄乃には、その言葉の意味がすぐには呑み込めない。
澄乃(心の声)
「どうして、そんなことを聞くのだろう」
澄乃はかすかに眉を寄せる。
澄乃
「後悔……ですか?」
真紘はすぐに目を逸らした。
真紘
「いや、忘れろ」
澄乃
「でも――」
真紘
「確認しただけだ。深い意味はない」
そう言って、真紘は話を打ち切る。
書院に、しんとした静けさが落ちる。
澄乃は膝の上で指を重ねる。
胸の奥に、小さなしこりのような違和感だけが残る。
澄乃(心の声)
「深い意味はない……本当に?」
真紘は書状へ視線を落としたまま、もう何も言わない。
灯りが揺れる。
祝言は、すぐそこまで迫っていた。
〇守宮家・奥の間・朝
重々しい空気の流れる座敷。
机の上には、国から届いた正式な通達書が広げられている。
守宮家と瑞原家の婚姻に伴う、形式的な祝言を瑞原の地で執り行う――そう記されていた。
継母は露骨に顔をしかめ、扇を閉じる。
継母 「冗談ではありません。あの子の晴れの席など、どうしてわたくしが見ねばならないのです」
彩華は母の隣で文を見下ろし、口元に薄く笑みを浮かべる。
彩華 「私は行きますわ」
継母 「彩華?」
彩華 「だって、見たいじゃありませんか。あの女が、場違いな席でどれほど無様に振る舞うのか」
彩華の瞳に、昏い愉悦がにじむ。
彩華 「どうせ澄乃ですもの。人前に立てば、すぐにぼろが出ますわ」
継母は鼻で笑う。
継母 「それもそうね。守宮の名ばかりで、何の力も持たぬ娘。恥をさらすだけでしょう」
しかし、その場の奥で黙したまま書状を見ていた守宮 恒一だけは、笑っていなかった。
恒一心の声
【祝言――よりにもよって、この時期に。澄乃が瑞原へ渡ってから、各地の穢れは目に見えて沈静化している】
机上の別の報告書。
各地の地名。減少していく穢れの記録。
見誤りであってほしいと願いながらも、もはや偶然とは思えぬ一致。
恒一心の声
【あれが、瑞原の地にあるだけで穢れの在り方が変わるというのなら――】
恒一の眉間に深い皺が刻まれる。
恒一心の声【十八年前のことが、ただの過去で済まなくなる】
彩華はそんな父の沈んだ顔に気づかず、愉快そうに笑う。
彩華 「楽しみですわ、お父様。澄乃がどれだけ取り繕っても、所詮は澄乃ですもの」
恒一は答えず、ただ硬く唇を結ぶ。
(第六話・了)
瑞原の地に来てから、いく日かが過ぎた。
朝の光が障子を透かし、静かな食堂に心地よく差し込んでいる。
澄乃は湯気の立つ汁椀を両手で運び、真紘の前にそっと置く。
もう最初の頃のようなおどおどしたぎこちなさはない。
屋敷の暮らしにも少しずつ慣れ、自分にできることを探しながら、日々を送っていた。
真紘はそんな澄乃の様子を、無言で見つめている。
真紘(心の声)
「……数日前から、守宮 恒一が何度も手紙を寄越してきている」
机の端に置かれた文。開かれた封。繰り返し読まれた跡。
真紘(心の声)
「一度澄乃を家に帰してほしい――飽きもせず、同じことを何度も」
真紘、静かに目を伏せる。
真紘(心の声)
「そこまでして、一度手放した澄乃を手元に置きたい理由はなんだ?」
一瞬、脳裏によぎる。
瑞原の地。
澄乃が来てから、土地の淀んだ空気が明らかに良くなっていること。
畑の作物が、目に見えて生気を取り戻していること。
真紘(心の声)
「もしあれが、澄乃がこの地の穢れを浄化する力を持っている証だとしたら。守宮がそのことに気づいたのだとしたら?」
真紘(心の声)
「……いや。これは澄乃を信じすぎかもしれない」
我に返るように、真紘は息を吐く。
真紘
「今日は何をするんだ?」
汁に口をつける前に、真紘が問う。
澄乃は少しだけ目を丸くしてから、控えめに微笑む。
澄乃
「畑を見に行こうかと。昨日見たら、植えた野菜がだいぶ育っていて……今日は手入れをしたら、もっと状態が良くなる気がするんです」
その声には、かすかな弾みがある。
真紘は澄乃を見る。
真紘(心の声)
「やはり、か」
真紘(心の声)
「あの作物が育つのは、偶然ではないのかもしれない」
澄乃は気づかぬまま、嬉しそうに続ける。
澄乃
「裏手の土も、以前より格段に状態が良くなってきていて……うまく育てば、みなさんの食事にも使えると思います」
真紘は何も言わず、ただ椀の湯気越しにその横顔を見つめる。
真紘心の声【彼女のいることで、この土地に変化が起きている。それだけは事実なのだ。守宮が何を考えているかはわからない―ー】
(暗転)
〇瑞原家・畑・昼
穏やかな陽の下、澄乃は畑にしゃがみ込み、伸びた葉を丁寧に間引いている。
土に触れる手つきはやさしく、けれどどこか慣れてもいる。
この屋敷で、自分にできること。
澄乃は少しずつ、それを見つけはじめていた。
澄乃(心の声)
「ここは何かすることに、ちゃんと意味がある」
風に揺れる葉を見て、澄乃の表情が和らぐ。
ふと、屋敷の裏手のさらに奥に目が向く。
背の低い草が群れている一角。人の手があまり入っていない場所。
澄乃「……あちらなら、違う野草があるかもしれない」
そっと立ち上がり、籠を抱えて歩き出す。
〇瑞原の地・裏手の林道~古社・昼
木々の間を抜け、澄乃は人気のない場所へと足を進める。
鳥の声も、途中から不自然に遠のいていく。
草をかき分けた先に、小さな社が見える。
崩れかけた石段。ひびの入った鳥居。
長く打ち捨てられていたことがひと目でわかる。
澄乃「こんなところに……」
一歩、近づいた、その瞬間。
ぞわり、と全身を冷たいものが走る。
澄乃「……っ」
視界が揺れる。息が浅くなる。
立っていられず、澄乃の膝が崩れかける。
その身体を、後ろから伸びた腕が強く支えた。
真紘「澄乃!」
真紘が澄乃の肩を抱き寄せる。
いつもよりはるかに強い声。
真紘「何をしている? ここへ近づくな」
澄乃は苦しげに息を整えながら、真紘を見上げる。
澄乃「ご、ごめんなさい……ただ、野草があるかと思って……」
真紘は崩れかけた社を鋭く睨む。
空気の淀み。肌にまとわりつく穢れの気配。
真紘「ここは穢れが濃い。おまえがひとりで来ていい場所じゃない」
強い口調。
けれど、その腕は責めるようではなく、落ちぬようにとしっかり支えている。
澄乃はそのぬくもりに、一瞬、言葉を失う。
澄乃「ご迷惑を……」
真紘「違う、お前になにかあったらどうするのだ!」
澄乃心の声【心配……された?】
守宮家では向けられたことのない眼差し。
責めるためではなく、自分の身を案じる声。
澄乃は戸惑うように目を伏せる。
真紘(心の声)
「何をしている」
真紘(心の声)
「もし澄乃に本当に何かしらの力があるなら、この機に試せばよかったはずだ」
真紘(心の声)
「なのに俺は――」
腕の中の澄乃が、まだ青ざめている。
真紘(心の声)
「彼女の身を案じた、そして彼女を信じたい、そう思ってしまった」
真紘の胸に、説明のつかないざわめきが広がる。
澄乃は真紘の袖をかすかにつかみ、消え入りそうに言う。
澄乃
「……ありがとうございます」
その声に、真紘はわずかに目を見開く。
言い返すこともできず、ただ支える手に少しだけ力を込める。
風が吹き、崩れた社の奥で、黒い気配がかすかに揺れた。
(暗転)
〇守宮家・当主の間・同刻
重苦しい空気の満ちた部屋。
守宮家当主・守宮 恒一は、机の上に積まれた報告書を荒々しくめくっていた。
家臣
「……はい。ここ数日、各地で頻発していた穢れの発生ですが、明らかに沈静化の傾向が見られます。土地の状態が、急速に良くなっているようで……」
恒一の指先がぴたりと止まる。
家臣
「守宮の者を向かわせても抑えきれなかった場所まで、今は不自然なほど静かで……原因は、まだ」
恒一
「原因がわからぬ、だと?」
低く押し殺した声。
報告書には、各地の地名と、減少していく穢れの記録。
恒一(心の声)
「守宮の力をもってしても抑えきれなくなっていた穢れが、急に減り始めた」
恒一(心の声)
「しかも、その時期は――」
脳裏に浮かぶ。
澄乃が瑞原へ嫁いだ日。
恒一の表情が険しく歪む。
恒一(心の声)
「まさか」
恒一(心の声)
「あれが、瑞原へ渡った途端に……?」
十八年前の記憶が、暗い底からにじみ出る。
あの日、見誤ったこと。
覆い隠してきた真実。
恒一(心の声)
「十八年前――やはりすべてを消し去るべきだったのか……」
しかし、その答えを確かめる術は、もうない。
恒一の拳が震える。
恒一
「あの若造……わしの命令を聞かぬなど」
机上の文を握り潰す。
恒一(心の声)
「早く澄乃をあの地から遠ざけなければ……」
その焦りを断ち切るように、別の使者が部屋に入る。
使者
「当主様。国より達しが」
恒一、苛立ちを隠さず顔を上げる。
使者
「瑞原家と守宮家の婚姻に伴う、形式的な祝言を執り行うことが決定いたしました」
一瞬、部屋が静まる。
使者
「民に対し、国の安定を示すための儀。ならびに、両家の関係を公に示す場となるとのことです」
恒一の顔が、さらに険しくなる。
恒一(心の声)
「祝言だと」
恒一(心の声)
「そんなものを挙げられれば、澄乃を認められてしまう……!」
だが国の意向を、真正面から退けることはできない。
恒一は歯噛みし、低く唸るように息を吐いた。
(暗転)
〇瑞原家・書院・夜
夜。
灯りを落とした静かな書院。
澄乃は真紘と向かい合って座っている。
ふたりの間には、国からの通達書。
澄乃は書状を見つめたまま、小さく息を呑む。
澄乃
「……祝言、ですか」
真紘
「形式的なものだ。民に両家の婚姻を示し、国の安定を印象づけるための儀式らしい」
澄乃は戸惑いながらも、そっとうなずく。
澄乃
「私に、務まるでしょうか……」
真紘
「務まるかどうかではない。国が決めた」
真紘の声音は淡々としている。
だがその目だけが、澄乃をまっすぐ見ていた。
少しの沈黙。
澄乃
「……わかりました」
静かな返事。
逃げるでもなく、拒むでもなく。澄乃なりに、覚悟を決めた声。
しかし真紘の表情は晴れない。
真紘
「澄乃」
澄乃
「はい」
真紘は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とする。
真紘
「祝言を挙げれば、今より簡単には離縁できなくなる」
澄乃が、はっと顔を上げる。
真紘
「……後悔はないのか」
静かな問い。
けれど澄乃には、その言葉の意味がすぐには呑み込めない。
澄乃(心の声)
「どうして、そんなことを聞くのだろう」
澄乃はかすかに眉を寄せる。
澄乃
「後悔……ですか?」
真紘はすぐに目を逸らした。
真紘
「いや、忘れろ」
澄乃
「でも――」
真紘
「確認しただけだ。深い意味はない」
そう言って、真紘は話を打ち切る。
書院に、しんとした静けさが落ちる。
澄乃は膝の上で指を重ねる。
胸の奥に、小さなしこりのような違和感だけが残る。
澄乃(心の声)
「深い意味はない……本当に?」
真紘は書状へ視線を落としたまま、もう何も言わない。
灯りが揺れる。
祝言は、すぐそこまで迫っていた。
〇守宮家・奥の間・朝
重々しい空気の流れる座敷。
机の上には、国から届いた正式な通達書が広げられている。
守宮家と瑞原家の婚姻に伴う、形式的な祝言を瑞原の地で執り行う――そう記されていた。
継母は露骨に顔をしかめ、扇を閉じる。
継母 「冗談ではありません。あの子の晴れの席など、どうしてわたくしが見ねばならないのです」
彩華は母の隣で文を見下ろし、口元に薄く笑みを浮かべる。
彩華 「私は行きますわ」
継母 「彩華?」
彩華 「だって、見たいじゃありませんか。あの女が、場違いな席でどれほど無様に振る舞うのか」
彩華の瞳に、昏い愉悦がにじむ。
彩華 「どうせ澄乃ですもの。人前に立てば、すぐにぼろが出ますわ」
継母は鼻で笑う。
継母 「それもそうね。守宮の名ばかりで、何の力も持たぬ娘。恥をさらすだけでしょう」
しかし、その場の奥で黙したまま書状を見ていた守宮 恒一だけは、笑っていなかった。
恒一心の声
【祝言――よりにもよって、この時期に。澄乃が瑞原へ渡ってから、各地の穢れは目に見えて沈静化している】
机上の別の報告書。
各地の地名。減少していく穢れの記録。
見誤りであってほしいと願いながらも、もはや偶然とは思えぬ一致。
恒一心の声
【あれが、瑞原の地にあるだけで穢れの在り方が変わるというのなら――】
恒一の眉間に深い皺が刻まれる。
恒一心の声【十八年前のことが、ただの過去で済まなくなる】
彩華はそんな父の沈んだ顔に気づかず、愉快そうに笑う。
彩華 「楽しみですわ、お父様。澄乃がどれだけ取り繕っても、所詮は澄乃ですもの」
恒一は答えず、ただ硬く唇を結ぶ。
(第六話・了)
