〇守宮家・離れの廊下~澄乃の部屋・朝
守宮家の朝。
嫁入り当日だというのに、祝いの気配はどこにもない。
澄乃の部屋の前には、畳まれていない衣、運びかけの箱、使い終わった水桶が雑然と置かれている。
まるで花嫁の支度ではなく、下働きの仕事場のようだ。
澄乃は朝から休む間もなく、廊下を行き来している。
着替えを運び、湯を替え、髪飾りの箱を探し、言いつけられるままに手を動かしている。
佳代の声が、廊下の奥から鋭く飛ぶ。
佳代
「澄乃、何をもたもたしているの。彩華の簪がまだ揃っていないでしょう」
澄乃
「申し訳ありません、ただいま」
澄乃が小走りで戻ろうとすると、別の方向から彩華が現れる。
すでに支度の途中らしく、美しく髪を結い上げ、淡い化粧まで施されている。
彩華
「ちょっと。私の帯紐、まだ持ってきていなかったの?」
澄乃
「今、探していて――」
言い終わる前に、彩華は露骨にため息をつく。
彩華
「本当に役に立たないのね。自分が嫁ぐ日だというのに、こんなことも満足にできないなんて」
地の文
澄乃が嫁ぐはずの日。
けれどこの屋敷では、その日の主役が誰なのかすら、とうにすり替えられていた。
佳代が現れ、澄乃の手元を見る。
少し爪先に水が跳ねただけで、眉をひそめる。
佳代
「見なさい、その手。荒れて、赤くなって……そんな手で人前に出るつもり?」
澄乃は反射的に袖で手を隠す。
佳代
「みっともない。守宮家の恥を、最後まで晒す気なの」
澄乃
「……申し訳ございません」
佳代
「謝れば済むと思っているところが浅ましいのよ」
佳代はそう言って、澄乃の肩を乱暴に押す。
澄乃はよろめき、抱えていた箱を落とす。中から櫛や布紐がばらばらと散らばる。
彩華
「ああ、もう……!」
彩華が苛立った顔で一歩踏み出す。
彩華
「こんな日まで私の邪魔をするなんて、本当に最低」
彩華はしゃがみこもうとした澄乃の手を、足先で軽く払う。
澄乃、小さく息を呑む。
彩華
「触らないで。汚れるでしょう」
地の文
いつものことだった。
侮られることも、命じられることも、傷つけられることも。
今日だけが特別なのではない。
ただ、今日もまた同じように続いているだけだった。
澄乃は何も言い返さず、静かに散らばったものを拾う。
澄乃(心の声)
逆らったところで、何も変わらない。
ここでは耐えることだけが、私にできることだった。
〇守宮家・表座敷へ続く広間・昼前
ようやく澄乃に簡素な花嫁衣装があてがわれる。
だがそれも、彩華の使わなかった古い反物を仕立て直しただけのものだと、一目でわかる。
佳代は衣の襟元を直すふりをして、爪を食い込ませる。
佳代
「いいこと、余計な口を利くんじゃありませんよ」
彩華
「向こうで無様を晒したら、守宮家の名に泥を塗ることになるわ」
佳代
「もっとも、今さら失う評判がどれほど残っているのかは怪しいけれど」
二人が笑う。
澄乃は俯いたまま、小さく返す。
澄乃
「……承知しております」
彩華、ふと澄乃の頬を見る。
彩華
「その顔色の悪さ、どうにかならないの? 本当に幸の薄い顔」
彩華は無遠慮に澄乃の顎を持ち上げる。
彩華
「瑞原に行くのだから、せめて死人みたいな顔はやめてちょうだい」
澄乃は痛みに顔をしかめるが、抵抗しない。
佳代
「まったく……どうして最後の最後まで、こちらが手を焼かなければならないの」
そのとき、廊下の向こうでざわめきが起こる。
足音が慌ただしく近づき、家臣が血相を変えて頭を下げる。
家臣
「旦那様! 瑞原家の迎えが……もうお着きです!」
佳代と彩華が目を見開く。
彩華
「もう? こんなに早く?」
佳代
「聞いていた時刻より……」
地の文
守宮家の空気が、わずかに揺らぐ。
その揺らぎは次の瞬間、広間の入口に立った男の姿によって、完全に塗り替えられた。
〇守宮家・広間・昼
広間の敷居をまたぎ、一人の男が現れる。
瑞原 真紘。
軍服を思わせる端正な装い。
飾り立てた華美さはないのに、ひと目でただ者ではないとわかる気配をまとっている。
その視線は広間の全体を静かに見渡し、そして最後に、澄乃の姿に止まる。
乱れた衣、赤くなった手、うっすらと残る頬の痛み。
それだけで、ここで何が行われていたのかを察するには十分だった。
真紘
「……なるほど」
声は低いが、感情に濁りがない。
かえってそれが、場の空気を冷やす。
父が慌てて進み出る。
父
「瑞原殿。お迎え、ご苦労――」
真紘は父を見ず、澄乃から視線を外さない。
真紘
「私の妻になる者に、何をしている」
広間が凍りつく。
佳代
「……っ」
彩華
「な、何を、ですって……?」
真紘は怒鳴らない。
だが一言ごとに、相手の逃げ道だけを正確に塞いでいくような声だった。
真紘
「花嫁の支度、と言うには随分と行き届いているように見えたが」
父
「これは……その、家の内のことゆえ」
真紘
「家の内のこと?」
真紘がようやく父へ視線を向ける。
真紘
「本日のこの婚姻は、陛下の正式な命によるものです。澄乃殿は今日この時をもって、瑞原家当主夫人となる御方だ」
佳代
「ですが、この娘は――」
真紘
「ですが、何です」
佳代の言葉が止まる。
真紘
「守宮家の事情がどうであれ、国命で定められた婚姻を、守宮家自ら軽んじるのですか」
父の顔色が変わる。
父
「そのようなつもりはない」
真紘
「ならば結構」
その言葉は穏やかであるはずなのに、まるで刃のように重い。
彩華が一歩前に出る。
口元には笑みを浮かべているが、その目には苛立ちがにじんでいる。
彩華
「平民上がりが、随分と大きな顔をなさるのですね」
広間の空気がさらに張り詰める。
父
「彩華!」
だが真紘は眉一つ動かさない。
真紘
「私の立場を決めたのは、陛下です」
そう言って懐から二つの証を取り出す。
一つは瑞原家当主の印。
もう一つは、国璽の刻まれた正式な書状。
真紘
「この婚姻も、当主としての私の存在も、すべて国命によるもの」
彼は淡々と、しかし揺るがぬ調子で続ける。
真紘
「それ以上の説明は不要でしょう」
彩華の顔から笑みが消える。
佳代も、父も、何も言えない。
そこにあるのは、家格でも感情でもなく、陛下の名そのものだった。
地の文
この場において、守宮家はもはや逆らえない。
形式のうえでも、立場のうえでも。
澄乃を引き留める術は、ひとつも残されていなかった。
真紘は証をしまい、澄乃へ向き直る。
真紘
「行こう」
澄乃は目を見開く。
自分へ向けられたその言葉が、命令ではなく、手を差し伸べる響きを持っていたからだ。
一拍、間。
そして澄乃は、静かに一歩を踏み出す。
澄乃
「……はい」
彩華が唇を噛む。
佳代は険しい顔のまま澄乃を睨みつける。
父はただ苦々しく黙っている。
けれど、もう誰も止められない。
〇守宮家・門前~屋敷の外・昼
門が開く。
守宮家の屋敷の外には、瑞原家のために用意された車と供の者たちが控えている。
澄乃は屋敷の敷居を越える。
その瞬間、自分でもわからないほど小さく息を吐く。
地の文
追い出されるだけの門出のはずだった。
なのに今、澄乃の胸にあるのは、恐れだけではなかった。
真紘は隣を歩いている。
無言のまま数歩進んだところで、その横顔がふと険しく見えた。
澄乃ははっとして立ち止まる。
澄乃
「……申し訳ありません」
真紘が足を止める。
澄乃
「妹が、失礼なことを申しました。私から、お詫びいたします」
澄乃は深く頭を下げる。
真紘は一瞬、言葉を失う。
地の文
謝る理由など、どこにもない。
失礼を働いたのは彼女ではない。
責められるべき立場でも、恥じるべき立場でもない。
それなのに彼女は、あまりにも自然に頭を下げた。
そうすることが染みついている者のように。
真紘
「……気にするな」
先ほど守宮家に向けていた声とは違う。
静かで、やわらかな響きだった。
澄乃は少しだけ目を上げる。
真紘
「謝るのは君ではない」
その言葉に、澄乃の目がわずかに揺れる。
真紘は小さく微笑む。
真紘
「こちらこそ、迎えが遅れた」
澄乃
「いえ、そのようなことは……」
ほんのわずかだが、澄乃の肩から力が抜ける。
だが次の瞬間、真紘の表情は仕事の顔に戻る。
真紘
「ただ、君にひとつ頼みたいことがある」
澄乃
「……頼みたいこと、ですか」
真紘
「この婚姻には、夫婦となる以上の意味がある」
二人は車へ向かって歩き出す。
供の者たちは距離を取り、主人たちの会話に入らない。
真紘
「今の凪代は、穢れの増加で各地が不安定になっている。三家の均衡が崩れつつあると、気づいている者も少なくない」
澄乃は黙って耳を傾ける。
真紘
「そんな中で、守宮と瑞原の婚姻は、表向きには“安定”の象徴になる」
澄乃
「……」
真紘
「だから私は、君に協力してほしい。人前では、仲睦まじい夫婦を演じてほしいんだ」
その言葉に、澄乃の表情が固まる。
地の文
夫婦を演じる。
それはつまり、この婚姻が情ではなく役目の上に成り立つものだと、改めて告げられることでもあった。
澄乃はうつむき、しばらく黙る。
澄乃(心の声)
当然だ。
政のための婚姻に、夢を見る方が愚かしい。
けれど同時に、胸の奥には別の感情も生まれる。
澄乃(心の声)
それでも、この結婚に意味があるのなら。
私にも果たせる役目があるのなら。
やがて澄乃は顔を上げ、まっすぐ真紘を見る。
澄乃
「……わかりました」
真紘が目を細める。
澄乃
「この結婚に意味があるのなら、私でお役に立てるのであれば、喜んで演じます」
その声音には、自嘲も打算もなかった。
ただ、静かな覚悟だけがあった。
真紘の胸が、ほんの一瞬だけ揺れる。
真紘
「……そうか」
短い返事。
だがその目には、先ほどまでとは違う熱が微かに宿る。
〇瑞原へ向かう道中・午後
車窓の外を、凪代の景色が流れていく。
和の屋根並みの向こうに、洋風の時計塔が見え、そのさらに遠くには黒ずんだ山の稜線が横たわる。
澄乃は静かに座っている。
向かいに座る真紘は、時折外へ目を向けながらも、必要以上に話しかけてはこない。
長い沈黙ののち、真紘が口を開く。
真紘
「疲れているなら、無理に話さなくていい」
澄乃
「……ありがとうございます」
真紘
「ただ、着く前に伝えておくべきことがある」
澄乃は姿勢を正す。
真紘
「瑞原の土地は、今も穢れの影響が強い。屋敷と、一族の者が暮らす区画には結界を張ってある」
澄乃
「結界……」
真紘
「ああ。君には、その内側で過ごしてもらう」
真紘の声音が少しだけ厳しくなる。
真紘
「決して、ひとりで外へ出ないでくれ」
澄乃
「それほど危険なのですか」
真紘
「危険だ」
短い言葉に、曖昧さはない。
真紘
「今の瑞原は、君が思っている以上に不安定だ」
澄乃はその横顔を見る。
守宮家で見たときよりも、ずっと深い疲れがそこにある気がした。
〇瑞原家・門前~屋敷内・夕方
瑞原家の屋敷は、かつての栄華を残しながらも、どこか寂れている。
広い敷地。古い社へ続く石段。手入れの行き届いた場所と、荒廃が滲む場所が隣り合っている。
門をくぐった瞬間、澄乃は肌に薄い膜のようなものを感じる。
澄乃
「……これが、結界ですか」
真紘
「わかるのか」
澄乃
「なんとなく、空気が変わった気がして」
真紘は少し意外そうに澄乃を見るが、すぐに前を向く。
真紘
「この内側なら、外よりは安全だ」
地の文
屋敷の中には、思っていたより人が少ない。
すれ違う者たちは皆、口数少なく、それぞれが張りつめた役目の中にいるように見えた。
使用人が一人、恭しく頭を下げる。
使用人
「お帰りなさいませ、真紘様。奥方様」
“奥方様”という呼び名に、澄乃がわずかに目を見張る。
真紘は気づかないふりをして歩みを進める。
真紘
「君の部屋へ案内する」
澄乃
「……はい」
廊下を進みながら、真紘が言う。
真紘
「寝室は別でいい。無理に夫婦らしく振る舞う必要は、屋敷の内側ではない」
澄乃
「お気遣い、ありがとうございます」
真紘
「必要なものがあれば遠慮なく言ってくれ」
その言葉に澄乃は少し戸惑う。
“遠慮なく”と言われたことが、これまでほとんどなかったからだ。
〇瑞原家・澄乃の部屋・夕方
障子が開かれる。
そこにあったのは、やわらかな陽の差し込む、美しく整えられた部屋だった。
木の香りのする床。清潔な寝台。控えめながら品のある調度。窓辺には季節の花まで飾られている。
澄乃は思わず立ち尽くす。
澄乃
「……私の、部屋……ですか」
使用人
「はい。急ぎ整えたため、足りぬものもあるかと存じますが」
足りぬものなど何一つない。
むしろ、自分には過ぎた部屋に思えた。
澄乃
「こんな……」
真紘
「何か問題があるか」
澄乃は慌てて首を振る。
澄乃
「いえ。ただ、立派すぎて……恐れ多い、です」
真紘は一瞬だけ黙り、それから淡く言う。
真紘
「君が使う部屋だ。遠慮する必要はない」
澄乃は返事に詰まり、小さく頭を下げる。
澄乃
「……ありがとうございます」
真紘
「今日は休め。話はまた明日でいい」
そう言い残し、真紘は部屋を出ていく。
障子が静かに閉まる。
地の文
途端に、静けさが降りる。
誰にも急かされない静けさ。
誰にも怒鳴られない静けさ。
それが澄乃には、少しだけ不思議だった。
澄乃はそっと部屋の中央に進み、寝台に手を触れる。
やわらかい。あたたかい。
澄乃(心の声)
こんな部屋で、眠っていいのだろうか。
そのまま腰を下ろす。
張りつめていた糸が切れたように、全身から力が抜けていく。
澄乃(心の声)
朝から、ずっと気を張っていたんだ……。
澄乃は衣を整える間もなく、寝台にもたれるように目を閉じる。
地の文
安堵が先か、疲労が先か。
考える間もないまま、澄乃は深い眠りへ落ちていった。
〇瑞原家・真紘の自室・夜
屋敷の一角、光の少ない私室。
真紘は上着を脱ぎ、ひとり窓辺に立っている。
手には酒の入ったグラス。
窓の外には、黒々とした空と、冴えた月。
部屋の中は静かだ。
けれどその静けさは、休息ではなく、考えを深めるためのものに近い。
真紘はグラスを傾ける。
琥珀色の液体が揺れる。
地の文
迎えは果たした。
婚姻も成立した。
それでも胸の内にある重さは、少しも軽くならない。
真紘(心の声)
これでよかったのか。
彼の脳裏に、今日の澄乃の姿がよぎる。
赤く荒れた手。謝る必要もないのに頭を下げた姿。
そして、役目のために夫婦を演じると、静かに言い切った顔。
真紘は目を伏せる。
真紘
「陸……」
その名を呼ぶ声だけが、わずかに揺れた。
真紘
「俺は、正しいことをしているか?」
月は何も答えない。
黒い夜の向こうで、風だけが遠く鳴る。
真紘は窓の外を見つめたまま、グラスを握る手に少し力をこめる。
地の文
守るために選んだ道が、誰かをまた傷つけるかもしれない。
その予感を、真紘はまだ言葉にできないでいた。
月光が、彼の横顔を白く照らす。
守宮家の朝。
嫁入り当日だというのに、祝いの気配はどこにもない。
澄乃の部屋の前には、畳まれていない衣、運びかけの箱、使い終わった水桶が雑然と置かれている。
まるで花嫁の支度ではなく、下働きの仕事場のようだ。
澄乃は朝から休む間もなく、廊下を行き来している。
着替えを運び、湯を替え、髪飾りの箱を探し、言いつけられるままに手を動かしている。
佳代の声が、廊下の奥から鋭く飛ぶ。
佳代
「澄乃、何をもたもたしているの。彩華の簪がまだ揃っていないでしょう」
澄乃
「申し訳ありません、ただいま」
澄乃が小走りで戻ろうとすると、別の方向から彩華が現れる。
すでに支度の途中らしく、美しく髪を結い上げ、淡い化粧まで施されている。
彩華
「ちょっと。私の帯紐、まだ持ってきていなかったの?」
澄乃
「今、探していて――」
言い終わる前に、彩華は露骨にため息をつく。
彩華
「本当に役に立たないのね。自分が嫁ぐ日だというのに、こんなことも満足にできないなんて」
地の文
澄乃が嫁ぐはずの日。
けれどこの屋敷では、その日の主役が誰なのかすら、とうにすり替えられていた。
佳代が現れ、澄乃の手元を見る。
少し爪先に水が跳ねただけで、眉をひそめる。
佳代
「見なさい、その手。荒れて、赤くなって……そんな手で人前に出るつもり?」
澄乃は反射的に袖で手を隠す。
佳代
「みっともない。守宮家の恥を、最後まで晒す気なの」
澄乃
「……申し訳ございません」
佳代
「謝れば済むと思っているところが浅ましいのよ」
佳代はそう言って、澄乃の肩を乱暴に押す。
澄乃はよろめき、抱えていた箱を落とす。中から櫛や布紐がばらばらと散らばる。
彩華
「ああ、もう……!」
彩華が苛立った顔で一歩踏み出す。
彩華
「こんな日まで私の邪魔をするなんて、本当に最低」
彩華はしゃがみこもうとした澄乃の手を、足先で軽く払う。
澄乃、小さく息を呑む。
彩華
「触らないで。汚れるでしょう」
地の文
いつものことだった。
侮られることも、命じられることも、傷つけられることも。
今日だけが特別なのではない。
ただ、今日もまた同じように続いているだけだった。
澄乃は何も言い返さず、静かに散らばったものを拾う。
澄乃(心の声)
逆らったところで、何も変わらない。
ここでは耐えることだけが、私にできることだった。
〇守宮家・表座敷へ続く広間・昼前
ようやく澄乃に簡素な花嫁衣装があてがわれる。
だがそれも、彩華の使わなかった古い反物を仕立て直しただけのものだと、一目でわかる。
佳代は衣の襟元を直すふりをして、爪を食い込ませる。
佳代
「いいこと、余計な口を利くんじゃありませんよ」
彩華
「向こうで無様を晒したら、守宮家の名に泥を塗ることになるわ」
佳代
「もっとも、今さら失う評判がどれほど残っているのかは怪しいけれど」
二人が笑う。
澄乃は俯いたまま、小さく返す。
澄乃
「……承知しております」
彩華、ふと澄乃の頬を見る。
彩華
「その顔色の悪さ、どうにかならないの? 本当に幸の薄い顔」
彩華は無遠慮に澄乃の顎を持ち上げる。
彩華
「瑞原に行くのだから、せめて死人みたいな顔はやめてちょうだい」
澄乃は痛みに顔をしかめるが、抵抗しない。
佳代
「まったく……どうして最後の最後まで、こちらが手を焼かなければならないの」
そのとき、廊下の向こうでざわめきが起こる。
足音が慌ただしく近づき、家臣が血相を変えて頭を下げる。
家臣
「旦那様! 瑞原家の迎えが……もうお着きです!」
佳代と彩華が目を見開く。
彩華
「もう? こんなに早く?」
佳代
「聞いていた時刻より……」
地の文
守宮家の空気が、わずかに揺らぐ。
その揺らぎは次の瞬間、広間の入口に立った男の姿によって、完全に塗り替えられた。
〇守宮家・広間・昼
広間の敷居をまたぎ、一人の男が現れる。
瑞原 真紘。
軍服を思わせる端正な装い。
飾り立てた華美さはないのに、ひと目でただ者ではないとわかる気配をまとっている。
その視線は広間の全体を静かに見渡し、そして最後に、澄乃の姿に止まる。
乱れた衣、赤くなった手、うっすらと残る頬の痛み。
それだけで、ここで何が行われていたのかを察するには十分だった。
真紘
「……なるほど」
声は低いが、感情に濁りがない。
かえってそれが、場の空気を冷やす。
父が慌てて進み出る。
父
「瑞原殿。お迎え、ご苦労――」
真紘は父を見ず、澄乃から視線を外さない。
真紘
「私の妻になる者に、何をしている」
広間が凍りつく。
佳代
「……っ」
彩華
「な、何を、ですって……?」
真紘は怒鳴らない。
だが一言ごとに、相手の逃げ道だけを正確に塞いでいくような声だった。
真紘
「花嫁の支度、と言うには随分と行き届いているように見えたが」
父
「これは……その、家の内のことゆえ」
真紘
「家の内のこと?」
真紘がようやく父へ視線を向ける。
真紘
「本日のこの婚姻は、陛下の正式な命によるものです。澄乃殿は今日この時をもって、瑞原家当主夫人となる御方だ」
佳代
「ですが、この娘は――」
真紘
「ですが、何です」
佳代の言葉が止まる。
真紘
「守宮家の事情がどうであれ、国命で定められた婚姻を、守宮家自ら軽んじるのですか」
父の顔色が変わる。
父
「そのようなつもりはない」
真紘
「ならば結構」
その言葉は穏やかであるはずなのに、まるで刃のように重い。
彩華が一歩前に出る。
口元には笑みを浮かべているが、その目には苛立ちがにじんでいる。
彩華
「平民上がりが、随分と大きな顔をなさるのですね」
広間の空気がさらに張り詰める。
父
「彩華!」
だが真紘は眉一つ動かさない。
真紘
「私の立場を決めたのは、陛下です」
そう言って懐から二つの証を取り出す。
一つは瑞原家当主の印。
もう一つは、国璽の刻まれた正式な書状。
真紘
「この婚姻も、当主としての私の存在も、すべて国命によるもの」
彼は淡々と、しかし揺るがぬ調子で続ける。
真紘
「それ以上の説明は不要でしょう」
彩華の顔から笑みが消える。
佳代も、父も、何も言えない。
そこにあるのは、家格でも感情でもなく、陛下の名そのものだった。
地の文
この場において、守宮家はもはや逆らえない。
形式のうえでも、立場のうえでも。
澄乃を引き留める術は、ひとつも残されていなかった。
真紘は証をしまい、澄乃へ向き直る。
真紘
「行こう」
澄乃は目を見開く。
自分へ向けられたその言葉が、命令ではなく、手を差し伸べる響きを持っていたからだ。
一拍、間。
そして澄乃は、静かに一歩を踏み出す。
澄乃
「……はい」
彩華が唇を噛む。
佳代は険しい顔のまま澄乃を睨みつける。
父はただ苦々しく黙っている。
けれど、もう誰も止められない。
〇守宮家・門前~屋敷の外・昼
門が開く。
守宮家の屋敷の外には、瑞原家のために用意された車と供の者たちが控えている。
澄乃は屋敷の敷居を越える。
その瞬間、自分でもわからないほど小さく息を吐く。
地の文
追い出されるだけの門出のはずだった。
なのに今、澄乃の胸にあるのは、恐れだけではなかった。
真紘は隣を歩いている。
無言のまま数歩進んだところで、その横顔がふと険しく見えた。
澄乃ははっとして立ち止まる。
澄乃
「……申し訳ありません」
真紘が足を止める。
澄乃
「妹が、失礼なことを申しました。私から、お詫びいたします」
澄乃は深く頭を下げる。
真紘は一瞬、言葉を失う。
地の文
謝る理由など、どこにもない。
失礼を働いたのは彼女ではない。
責められるべき立場でも、恥じるべき立場でもない。
それなのに彼女は、あまりにも自然に頭を下げた。
そうすることが染みついている者のように。
真紘
「……気にするな」
先ほど守宮家に向けていた声とは違う。
静かで、やわらかな響きだった。
澄乃は少しだけ目を上げる。
真紘
「謝るのは君ではない」
その言葉に、澄乃の目がわずかに揺れる。
真紘は小さく微笑む。
真紘
「こちらこそ、迎えが遅れた」
澄乃
「いえ、そのようなことは……」
ほんのわずかだが、澄乃の肩から力が抜ける。
だが次の瞬間、真紘の表情は仕事の顔に戻る。
真紘
「ただ、君にひとつ頼みたいことがある」
澄乃
「……頼みたいこと、ですか」
真紘
「この婚姻には、夫婦となる以上の意味がある」
二人は車へ向かって歩き出す。
供の者たちは距離を取り、主人たちの会話に入らない。
真紘
「今の凪代は、穢れの増加で各地が不安定になっている。三家の均衡が崩れつつあると、気づいている者も少なくない」
澄乃は黙って耳を傾ける。
真紘
「そんな中で、守宮と瑞原の婚姻は、表向きには“安定”の象徴になる」
澄乃
「……」
真紘
「だから私は、君に協力してほしい。人前では、仲睦まじい夫婦を演じてほしいんだ」
その言葉に、澄乃の表情が固まる。
地の文
夫婦を演じる。
それはつまり、この婚姻が情ではなく役目の上に成り立つものだと、改めて告げられることでもあった。
澄乃はうつむき、しばらく黙る。
澄乃(心の声)
当然だ。
政のための婚姻に、夢を見る方が愚かしい。
けれど同時に、胸の奥には別の感情も生まれる。
澄乃(心の声)
それでも、この結婚に意味があるのなら。
私にも果たせる役目があるのなら。
やがて澄乃は顔を上げ、まっすぐ真紘を見る。
澄乃
「……わかりました」
真紘が目を細める。
澄乃
「この結婚に意味があるのなら、私でお役に立てるのであれば、喜んで演じます」
その声音には、自嘲も打算もなかった。
ただ、静かな覚悟だけがあった。
真紘の胸が、ほんの一瞬だけ揺れる。
真紘
「……そうか」
短い返事。
だがその目には、先ほどまでとは違う熱が微かに宿る。
〇瑞原へ向かう道中・午後
車窓の外を、凪代の景色が流れていく。
和の屋根並みの向こうに、洋風の時計塔が見え、そのさらに遠くには黒ずんだ山の稜線が横たわる。
澄乃は静かに座っている。
向かいに座る真紘は、時折外へ目を向けながらも、必要以上に話しかけてはこない。
長い沈黙ののち、真紘が口を開く。
真紘
「疲れているなら、無理に話さなくていい」
澄乃
「……ありがとうございます」
真紘
「ただ、着く前に伝えておくべきことがある」
澄乃は姿勢を正す。
真紘
「瑞原の土地は、今も穢れの影響が強い。屋敷と、一族の者が暮らす区画には結界を張ってある」
澄乃
「結界……」
真紘
「ああ。君には、その内側で過ごしてもらう」
真紘の声音が少しだけ厳しくなる。
真紘
「決して、ひとりで外へ出ないでくれ」
澄乃
「それほど危険なのですか」
真紘
「危険だ」
短い言葉に、曖昧さはない。
真紘
「今の瑞原は、君が思っている以上に不安定だ」
澄乃はその横顔を見る。
守宮家で見たときよりも、ずっと深い疲れがそこにある気がした。
〇瑞原家・門前~屋敷内・夕方
瑞原家の屋敷は、かつての栄華を残しながらも、どこか寂れている。
広い敷地。古い社へ続く石段。手入れの行き届いた場所と、荒廃が滲む場所が隣り合っている。
門をくぐった瞬間、澄乃は肌に薄い膜のようなものを感じる。
澄乃
「……これが、結界ですか」
真紘
「わかるのか」
澄乃
「なんとなく、空気が変わった気がして」
真紘は少し意外そうに澄乃を見るが、すぐに前を向く。
真紘
「この内側なら、外よりは安全だ」
地の文
屋敷の中には、思っていたより人が少ない。
すれ違う者たちは皆、口数少なく、それぞれが張りつめた役目の中にいるように見えた。
使用人が一人、恭しく頭を下げる。
使用人
「お帰りなさいませ、真紘様。奥方様」
“奥方様”という呼び名に、澄乃がわずかに目を見張る。
真紘は気づかないふりをして歩みを進める。
真紘
「君の部屋へ案内する」
澄乃
「……はい」
廊下を進みながら、真紘が言う。
真紘
「寝室は別でいい。無理に夫婦らしく振る舞う必要は、屋敷の内側ではない」
澄乃
「お気遣い、ありがとうございます」
真紘
「必要なものがあれば遠慮なく言ってくれ」
その言葉に澄乃は少し戸惑う。
“遠慮なく”と言われたことが、これまでほとんどなかったからだ。
〇瑞原家・澄乃の部屋・夕方
障子が開かれる。
そこにあったのは、やわらかな陽の差し込む、美しく整えられた部屋だった。
木の香りのする床。清潔な寝台。控えめながら品のある調度。窓辺には季節の花まで飾られている。
澄乃は思わず立ち尽くす。
澄乃
「……私の、部屋……ですか」
使用人
「はい。急ぎ整えたため、足りぬものもあるかと存じますが」
足りぬものなど何一つない。
むしろ、自分には過ぎた部屋に思えた。
澄乃
「こんな……」
真紘
「何か問題があるか」
澄乃は慌てて首を振る。
澄乃
「いえ。ただ、立派すぎて……恐れ多い、です」
真紘は一瞬だけ黙り、それから淡く言う。
真紘
「君が使う部屋だ。遠慮する必要はない」
澄乃は返事に詰まり、小さく頭を下げる。
澄乃
「……ありがとうございます」
真紘
「今日は休め。話はまた明日でいい」
そう言い残し、真紘は部屋を出ていく。
障子が静かに閉まる。
地の文
途端に、静けさが降りる。
誰にも急かされない静けさ。
誰にも怒鳴られない静けさ。
それが澄乃には、少しだけ不思議だった。
澄乃はそっと部屋の中央に進み、寝台に手を触れる。
やわらかい。あたたかい。
澄乃(心の声)
こんな部屋で、眠っていいのだろうか。
そのまま腰を下ろす。
張りつめていた糸が切れたように、全身から力が抜けていく。
澄乃(心の声)
朝から、ずっと気を張っていたんだ……。
澄乃は衣を整える間もなく、寝台にもたれるように目を閉じる。
地の文
安堵が先か、疲労が先か。
考える間もないまま、澄乃は深い眠りへ落ちていった。
〇瑞原家・真紘の自室・夜
屋敷の一角、光の少ない私室。
真紘は上着を脱ぎ、ひとり窓辺に立っている。
手には酒の入ったグラス。
窓の外には、黒々とした空と、冴えた月。
部屋の中は静かだ。
けれどその静けさは、休息ではなく、考えを深めるためのものに近い。
真紘はグラスを傾ける。
琥珀色の液体が揺れる。
地の文
迎えは果たした。
婚姻も成立した。
それでも胸の内にある重さは、少しも軽くならない。
真紘(心の声)
これでよかったのか。
彼の脳裏に、今日の澄乃の姿がよぎる。
赤く荒れた手。謝る必要もないのに頭を下げた姿。
そして、役目のために夫婦を演じると、静かに言い切った顔。
真紘は目を伏せる。
真紘
「陸……」
その名を呼ぶ声だけが、わずかに揺れた。
真紘
「俺は、正しいことをしているか?」
月は何も答えない。
黒い夜の向こうで、風だけが遠く鳴る。
真紘は窓の外を見つめたまま、グラスを握る手に少し力をこめる。
地の文
守るために選んだ道が、誰かをまた傷つけるかもしれない。
その予感を、真紘はまだ言葉にできないでいた。
月光が、彼の横顔を白く照らす。
