「翔くんお疲れさま、すごい良かったよ!」
帰っていく人の波からわずかに逆流しながら辿り着いた楽屋のドアを開けて言うと、メイクを落としていたらしい翔くんがぱっと振り返ってこちらを見た。強く引きすぎたアイラインが、じっとりと伸びて黒い涙のようである。
「彰、本当に来てたんだ」
「何言ってんの、俺と目、合ったでしょ」
「自惚れないで」
ぴしゃんと殴りつけるような言葉が冷たくて、俺は思わず頬を掻く。が、劇中で確かに目があったような気がしていた。これはファンが「絶対私を見ていた」と思うのとは、ちょっとだけ違うはずである。なにせ、今日の舞台の俳優の中ではどちらかと言えば若い方に入るはずの翔くんがスタッフに頼んだとは思えないくらいいい席が、俺宛に準備されていたからである。少し気合を入れれば俳優の目の中の色まで覗けてしまいそうな席だったので、本当に俺が来なかったらこの人はどうしていたんだろう、とちょっとだけ思った。それとも、疑ったり一切しなかったのか。俺があれだけ彼を無下に扱っても、それでも来るだろうというところまで読まれていたのなら、やっぱり俺が彼に敵う日はこないんだろうと思う。そして、そこまでした以上、やっぱり劇中翔くんは俺を見ていたはずなのだった。
「ね、翔くん、お茶淹れてあげようか」
「どうしたの、急に優しくなって怖い」
翔くんは俺の相手をするのがいやになったようで、顔を歪ませるとメイク落としの作業に戻っていった。俺はその後ろをそそくさと通り、楽屋に置かれているポットで湯を沸かし始める。翔くんは確か、舞台のあとは熱い緑茶が好きだったはずだ。もしくは冷えた烏龍茶だけれども、冷蔵庫の中に烏龍茶の姿がなかったので早々に諦める。それから二人分の紙コップでも探そうと楽屋の棚をごそごそと引っくり返していると、「あきら」と翔くんが呼んだ。
「なに、どうしたの、翔くん」
丁度その時、紙コップが見つかったことに浮足立ちつつも、紙コップを重ねたタワーが棚にみっちり入っていたので、それを引きずり出そうとしながらの返答になった。多分、それが良くなかった。翔くんの変化に気づくのが、一拍遅れた。
「…あきらは、こないと思ってた。」
冷たい声で、翔くんが言う。急に冷え込んだ声の温度に、慌てて振り向く。背後で支えを失くした棚の中身が全部崩れてくる音がしたけれど、そちらを振り向いたら今度こそ終わるような鬼気迫った顔で翔くんが俺を見ていて、目が離せなくなる。
「わざわざ俺の舞台に来るほど、俺って彰にとって邪魔だったんだ」
落ちかけた濃い舞台メイクと化粧台の女優ライトのせいで、翔くんの表情が上手く読めない。反射で声が冷たいと思ったが、よく聞いていると、その声はなんだか憑き物が落ちたようにも聞こえて、俺の心臓が急いで打ち始める。いつの間にか握っていた拳の中を、ぬるりと汗が垂れ落ちるのを感じた。
「ごめんね、彰。いっつも俺のこと慰めさせて。意味わかんない時間に電話するし、転がり込むし、迷惑だったよね」
違う、と咄嗟に言えればよかったが、喉の奥が張り付いたように言葉が出てこなかった。なにも違わない。今日の朝まで、確かに俺は彼を裏切るつもりでいた。彼を捨てられるのならこのまま田舎に帰ってもいいのかもしれない、なんて一瞬だけでも思った。その事実が、俺の舌を重くする。
「…突っ立ってないで、座りなよ」
翔くんが、自分の斜め前においてあった椅子を足先で軽く小突く。それでも俺が動かないのを見ると、翔くんは小さくため息をついた。それからおもむろに化粧台の上に置いてあった煙草の箱を取り上げる。ライターがいるかな、と一瞬思ったけれど、今日の翔くんはライターを持っていたらしい。かちり、と固めの音が響いて、煙草の匂いが辺りに充満し始める。
「俺はね、彰の傍にいるのが一番安心するの」
しゅんしゅんとお湯が沸いている。その熱に溶かされでもしたかのように、翔くんの声は少しずつ温もりを取り戻していた。ばきりと折れそうな冷たい声色がなくなったのにほっとしたのも束の間、すぐにその声が噛んで含めるようなものなのに気づく。
「彰は信じてくれないけど、誰と呑んでるより、彰と呑んでるのが一番安心するの。楽しいとかとはちょっと違って、もちろん楽しいけど、そんなことより、あぁもう何も考えなくても彰がいるなら大丈夫って思う。家まで帰れなくても、もう歩けなくても、自分の家の鍵の場所が思い出せなくても」
ふぅ、と翔くんが吐いた煙が翔くんの膝のあたりに沈殿する。すっかり俯いた彼の表情は読めない。ただ膝についた肘の先で、自分の額を撫でる彼の指の長さがやけに目についた。
「しかも、あきら、いつだって俺のことを綺麗って言ってくれるでしょう。もう三十八だよ、そんなに綺麗なわけないじゃん」
あはは、と笑われて、「そんなことない」とぎりぎりで挟み込む。翔くんはその声に反応したように顔を上げた。ぎらり、と長いウェーブのかかった金髪の向こうで大きな瞳が猫のように光った。カチッ、と限界を告げてポットが稼働を止める。はぁ、とため息とも煙草を吐いただけともとれる翔くんの息が、まっすぐと白く伸びていた。
「彰はさ、俺のこと、どう思ってたの。」
負けである。俺にはできない決心を、彼は固めてきたらしい。結局、翔くんは、俺にとって明けの明星なのだった。ただ俺は、光っている彼を見ながら、もうすぐ夜になることも、もうすぐ太陽が昇ることも知る。彼なしでは、俺には朝も夜もないのだった。
黒目がちな瞳に、瞬きを二回もすれば零れ落ちそうな涙をためて、啖呵を切ってみせる彼ほど美しいひとを、俺はきっとこれからの人生で二度と見ることがないと思う。
「すきだよ」
十年口にできなかった言葉は、驚くほどスムーズに、俺の唇を出て行った。
まるで俺の奥の方に沈んでいた言葉が、翔くんに釣り上げられでもしたかのようだった。
翔くんが、俺を見ている。その目からは涙が引いて、つるりと白い蛍光灯を反射している。すっかり静かになった部屋には、ほとんど何の音もしない。翔くんはにっこりと歯を見せて笑った。
「だよね、俺も。」
感動はなかった。薄々、翔くんの気持ちなんか知っていた。翔くんの方だって同じだろうと思う。それでも、安心感が俺の気持ちの中を波のように満たす。やっぱりそうだったんだ、と確信していた答えにようやく赤丸がつけられたような充足感だった。
「でも俺は、愛のためには死なないよ」
「…そうだよね」
どうやら今度はこっちが泣く番らしかった。俺はいま、気持ちが通じた瞬間振られたのだと、馬鹿な現実を頭が少しずつ認識するにつれて、じわじわと胸に満ちていた温もりが目頭に移動していく。気を抜くと本当に泣きそうだった。翔くんは、誰のものにもならない。ずっと前からそうで、明日からもそうだという、ただそれだけである。翔くんが俺のことを好きだからって、毎日うちに帰ってくるわけでもなければ、堂々とルームシェアする日も来ないだろう。そんなことはとっくの昔からわかっていたのに、優しい翔くんが突きつけるのを避けてくれていた答え合わせを力づくでさせた挙句、俺は泣くらしい。いつまでも俺は彼の前では力のない十年下の後輩でしかなくて、情けなくて仕方がなかった。ダサくて、シャバかった。翔くんが最も嫌うものだが、彼はいつものように「何泣いてんだ」とは言わなかった。
「わかってたでしょ」
翔くんは立ち上がって、ポットの方に行くらしかった。多分お茶を淹れてくれるのだろう。
「だから十年も言わずにいたんだし」
俺の背中のすぐ後ろで、翔くんが紙コップを拾っている。力づくで抱きしめたって、無駄なことは分かりきっていた。
「ね、彰は優しいから、大丈夫だよ」
翔くんはこんな時だけ年上の実力を見せてくる。普段は本当に何もやらなくて、いいとこ家で伸びている猫程度の働きしかしない癖に、本当にずるい男なのだ。
「俺が死んだら、彰に保険金が行くようにするよ。俺がもし身を持ち崩してマンションのお金払えないようになったら、彰にお金の請求が行くようにもしてあげる」
「…マンションの連帯保証人だけはもうしてるでしょ」
「そうなんだけどさ。」
翔くんが、暖かな緑茶の紙コップを手渡してくる。振り返って受け取ると、熱すぎるその温度は俺の手を焼くみたいに思えた。翔くんの手首には、いつか俺があげた安物のブレスレットが光っている。当時の俺は綺麗な翔くんがいつかどこかで誰かのものになってしまうことが恐ろしくて、なんとか捻出した時間でジュエリーショップに駆け込んで、それを買ったのだった。ふうっ、と翔くんが緑茶の表面から湯気を吹き飛ばしている。ヨカナーンの名残りらしい薄紫色の口紅が、良く似合っていた。
「あきら、俺ひとつだけお願いがあるんだよね」
「なあに」
翔くんのお願いは、いつだってひどくしょうもないか、びっくりするほどひどいことなのだ。それが分かっていても、俺はそれを受け止めるしかない。翔くんはいつもそれが分かっていて、俺にお願いなんてものをしてくる。最悪な男なのに、俺はこの人が好きで好きでたまらない。馬鹿な話だと思う。
「いっせーのせ、で俺の連絡先、消して」
囁くように、その人は最悪なことを口にする。それは結局、俺がずっと恐れてきたことだった。無茶なお願いを聞き続けてきたのも、家がどれだけ荒れても許してきたのも、すべては翔くんが俺の傍からいなくなってしまわないようにするためだった。
「俺も消すから」
そういう問題ではないのに、縋るように見た目は、笑った睫毛で一蹴されてしまう。
「いいじゃん。広くない業界だもん、いつか絶対会えるよ」
「しょうくん、」
「情けない顔するなよ、てかお茶飲んでくんない?冷めるでしょ」
あまりにもいつも通りの顔ですごまれて、俺は渋々お茶を飲んだ。そのあと、すぐに後悔する。翔くんはお茶を淹れるのが壊滅的に下手なのを忘れていた。粉の緑茶のもとを渡すと、信じられない濃さのお茶を錬成する達人が翔くんなのだった。うげ、という言葉を一応先輩の前では口から出さないように俺が無言で悶えているのをみて、翔くんはゲラゲラと笑った。
「笑ってないで、水。水ちょうだいよ」
「おう!」
翔くんは死ぬほど笑った目尻の涙を拭いながら、化粧台にあった飲みかけの水のペットボトルを放ってよこした。それを慌ててキャッチして飲んでいると、「もう一発!」と声がして、バスッと投げられた何かが俺の体に当たって落ちた。パンパンのペットボトルだろうと思って一瞬目をつぶったが、それは思ったよりも軽い感覚を俺に残して、床へ落下していく。慌てて目を開けると、それは煙草の箱だった。既に開いていて、投げられた衝撃で中身が飛び散り、彼の練習着のポケットに詰め込まれていたせいか箱はぐちゃぐちゃになっている。銘柄は、赤いマルボロ。
「何してんの」
慌ててしゃがみ込んで中身を拾っていると、流れるように俺の背後を取った翔くんが、俺のスマホをコートのポケットから抜く。それは気配で分かったけれど、止めても無駄だと分かったから、黙って煙草を拾うふりをしていた。かこかこ、とパスワードを外す音がする。俺のパスワードなんてどこで知ったのなんて聞いたところで、どうせ無駄だろう。パスワードは十年前からずっと変わらず、翔くんの誕生日である。
「翔くん、」
「なに」
今更言えることなんか、何にもないような気がした。絶対最後は俺のところに帰ってきてねだとか、ありふれた言葉ではどうにもならないことはあるのだ。結婚しないでね、も何か違う気がした。結婚したところで、俺と翔くんの間にあるものが何か変わるわけではない。十年積み上げた翔くんとの記憶の代わりに、何か今の翔くんに残したいような気がしたものの、今さら彼に言えることなど何もないのだった。本気で好きだったということぐらい、今までの俺の行動が証明しているし、翔くんがそれを疑うはずもない。
「…なんでもないよ」
「彰は馬鹿だね、なんか言ったらいいのに。今なら何でも聞いてあげるかもしれなかったよ?」
急に、翔くんの気配が近づく。翔くんは元々くっつくのが好きだから、おぶさってでも来るのかもしれない。上背がある分、決して軽いとは言えない翔くんの体重がかかることへの覚悟を内心で決めた時、ふわりと柔らかな髪が耳の辺りをかすめた感覚がした。ついで、首筋の後ろあたりに、冷たい唇の感覚。もう若くはないし、それが何かわからないというほど何も知らないわけではなかった。皮膚を無理やり引っ張られるような痛みが走り、思わず「ちょっと」と言いかけた時、かすかな汗と、舞台化粧の甘いような匂いを残して、翔くんが離れていく。
「写真は残してあげたよ」
振り返ると、翔くんはそうやってふてぶてしく笑った。翔くんの白い歯が、蛍光灯を弾いて光る。化粧が中途半端に半分以上落ちた顔は、お世辞にも美しいとは言えなかったけれど、それでもひどく綺麗だった。俺の大好きな笑いじわの間に、厚く塗ったコンシーラーがはまり込んでより深く見える。薄紫色の口紅は俺に移したらしく、自然な色をした唇が綺麗な半月型を描く。下がった眉尻がやっぱり彼をひどく魅力的に見せていて、喉の奥が引き絞られるように乾いた。
「俺の奴は、あきらがやる?」
翔くんはまるで俺が「うん」とは答えないことをわかっているようなそぶりで自分のスマホを見せてくる。彼の予想にたがわず、俺が首を振ると、そう、と翔くんは頷いた。
「じゃあ、赤マル持って、もう帰りなさい。夜も遅いんだし」
どうせ彼はこの後先に居酒屋に移動している舞台の共演者と打ち上げだろう。そしてべろべろになるまで酔って、SNSに俺ではないだれかとのツーショットを上げるのだろう。そのあとは、おぼつかない足を引きずって家に帰るのだろうな、となんとなく分かった。翔くんは、翔くんの家に帰るべきである。俺にも、俺の家があって、明日も仕事がある。
「そんで、オジサンは、煙草を死ぬほど吸って風呂に入って、酒飲んで、寝ろ!」
劇場から出ると、外は全くもって夜になっていた。ひゅお、とまだまだ本気を出していないらしいのに、十分すぎるほど冷たい風がコートの上を撫でていく。それに乗って白い欠片が目の前を横切っていったのを見ながら、今日はこれから雪か、とぼんやり思った。道理で寒かったはずだ。周りに人目が全くないのを確認して、赤マルをポケットから取り出す。ジッポで火を点けながら、若くて懐かしい苦い煙を吸い込んだ。赤いマルボロは、俺と出会った当時翔くんが吸っていた煙草である。その時はまだまだ俺を信用していなかったのか氷の精のように冷たかった翔くんだが、俺の目にはその氷の精が吸い込む煙はなんだかひどく特別なもののように見えていて、俺は鬱陶しがる翔くんの周りを毎日ついて回っては、「一本ちょうだい」とせがんでいた。「ガキは嫌いだ」とか「ガキが吸うんじゃない」とか、今思い返すと絶対ガキには言うべきではない言葉を吐いては俺から逃げ回っていた翔くんが、とうとう折れて俺にその一本を分け与えてくれたのは、二十歳の誕生日だったと思う。「成人おめでとう」と言いながらその綺麗な白い指に与えられた一本は、俺にとってはどんな誕生日プレゼントよりうれしくて、俺はめでたく社会から後ろ指指される喫煙者の仲間入りをしたというわけだ。
ふう、と煙を吐き出すと、白い煙が夜を背景にくっきりと立ち上がる。十年身を捧げ続けたいじらしい片思いの結果が吸いかけのひしゃげた煙草一箱なんて、散々な話だった。笑い話にもならない。けれどもやっぱり、冬の冷たい風と吸い込む煙草の煙はうまくて、俺の輪郭をはっきりと冷やして確かにしていく。
俺の初恋って、死んだんだよな、とはっきりわかった。というか、それは恋だよ、と名付けた翔くんに殺されたのだ。それでも変な話で、翔くんに振り回され慣れているからなのか、不思議と恨めしくはなかった。だって結局、彼は合鍵を返すのを忘れた。
それがわざとなのかうっかりなのかは知らないが、とりあえず、一旦、できる限り、引っ越さないでいてみようと思う。もしかしたら、いつか、お酒片手に翔くんが帰ってくるかもしれないのだから。
終
