野良の金星



 当日、俺は、故郷へと戻る新幹線のチケットを買った。故郷へは新幹線で六時間以上かかるから、かなり早い時間に駅に行った。その時間帯の駅は誰もいなくて、なんだか上京してきたときを思いだす。当時はお金がなくて、夜行バスを乗り継いで東京へようやくたどり着いた感じだった。ひどく恐ろしくて冷たい感じがした。首都だから、朝早くても人がたくさんいるんだろうなという予想は裏切られ、地元と同じように数人の人が疲れを引きずって歩いているだけで、空気だけが臭くて、なんだかすごく悲しかったのを覚えている。
 三万を超える大出費が目の前の液晶に映し出されて、内心頭を抱えたくなる。昔は大人になれば数万円くらいぽんと出せるものだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。すっかりオジサンになっても、三万は三万だ。懐は痛むし、これでゲームが何本買えたかな、などと浅ましいことも考えてしまう。しかも御祝儀もあるのだ。懐がとても痛い。
 けれども、幼馴染の結婚に何も払えないというのは大人としてかなりダサいので、勇気を出して、支払い方法「カード」の部分をタッチする。カードを財布から取り出しながら、いま翔くん何してるかな、と考えかけた自分を殴りたい気持ちになる。今考えるべきはさっちゃんのことで、頭を結婚式に戻すため、さっちゃんは今頃何してるかな、と頭の中ではっきり発音する。が、あんまり想像ができなかった。新婦は朝に何をするのか、あんまり知らないのだ。大方今頃起きだして、準備とかしているのかな、とぼんやり思う。でも多分それは、翔くんも同じだ。翔くんは舞台のある日、朝早く起きる。風呂に入って、ヨガをする。そっちの方が気軽に想像できてしまうのにうんざりして、俺はカードの暗証番号を打ち込みながら、駅にいるほんの数人に変人だと思われないくらいの小ささで首を振った。翔くんをなんとか頭から追い出さないといけない。
 べろべろ、と券売機が絶対にそんな頑丈さを必要としないはずなのに立派な紙質のレシートをチケットと一緒に吐き出してくる。それを抜き取りながら、もうこのまま地元に戻ろうかな、とぼんやり思った。流石の翔くんも、きっと地元までは追って来れないだろう。いや、翔くんは俺を追ってきたことなどないんだった。それをすぐに思いだして、話にならないぐらい落ち込む。財布を鞄に入れた。改札を通ってしまえば、ここまで後ろ髪引かれることもないだろう。
 駅弁を買いたかったけれど、こんな時間に駅のキヨスクは開いていないのだった。空腹を抱えて、改札を超える。新幹線の中で駅弁を買おうかな、と半ば決意した。空腹が頭の中に翔くんを召喚しているような気さえする。腹いっぱい飯を食って、髪のセットが崩れない程度に新幹線の中で眠れば、きっと地元の駅につくはずだ。さっちゃんに会って、岩田の顔を見て、同級生たちの渦に飲まれれば、もう翔くんのことは思いださないはずなんだ。
 そう思いながら、スマホのロックを外したのが運の尽きだった。翔くんからラインが来ていて、その通知が見えている。馬鹿、と思わず反射で自分を罵りたくなった。それくらい予想出来ていたはずだった。翔くんが舞台の日の朝に連絡をしてくることぐらい、ちょっと考えてみればわかったはずだった。心臓が一気に動きを速めて、冷や汗が大量に出てくる。なんだかすごく悪いことをしているような気がした。俺が帝劇とはまるで関係がない新幹線に乗り込もうとしていることが、翔くんにはまるでお見通しのようにも思った。なにがなんだかわからないまま、とにかくホームの中にある寂れたベンチになんとか座り込んだ。手首が震えだし、スマホを鞄の中に放り込みながら左手で右手の手首を強く握りしめる。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。なんだかすごく悪いことをしている気がする、というのは、間違いだ。なんだかすごく悪いことを、俺は翔くんにしようとしているのだ。言葉にするなら、それは多分、裏切りである。俺は、翔くんを裏切ろうとしているのだった。
 考えてみると、翔くんは俺との約束を多分星の数ほど破っているけれど、俺を裏切ったことはないような気がした。俺はいつも、翔くんはどうせ守れないだろうなと思いながら約束をしているのだから、彼が約束を破ったところで裏切られたわけではないのだった。本気でがっかりとうんざりを味わいながらも、そして時にはかなりの実害を負いながらも、結局は幸せに少し似た温かめのため息ひとつで許せてしまう程度の約束しか、俺は翔くんに破られたことがない。翔くんは俺がデビュー作以降のオーディションに落ちまくっても、絶対笑ったりしなかった。「彰はカッコいいんだし、いつかはなんとかなるでしょう。」と飄々と俺に飯を奢ってくれていた。実は彼も当時オーディションに受からず悩んでいたという話を共通の知人に聞いたのは、ずいぶん後になってからの話だ。俺が長台詞を覚えられないと嘆けば、「バカだから?」といいだけおちょくられたものの、それでも何時間も練習に付き合ってくれた。実は炎が怖いのに、俺が撮影のセットに「ガチで燃えてる」と怯えたら、「こんなの全然大丈夫だよ」と飛び越えてみせてもくれた。ニキビのあととクマに悩んでいた俺に、いくつもの化粧品を送り付けてきたこともある。当時は「俺が試したくて買ったの、あわなかった奴だから彰も良かったら使いな」という彼の言葉を信じていたものの、多分そんなことはなかったのだろう。
 いつだって翔くんは、俺が信じる通り、ずっとすごい先輩の背中を俺の前に魅せ続けてくれていた。怖いことを怖いと言わず、いやなことをいやと言わず、「そんなの大したことない」と言い続けた。いま当時の翔くんと同じ年になって思うのは、二十八だろうが、オーディションに落ちるのは怖いし、人におごれば懐は痛むし、やっぱり燃え盛る炎のセットは怖いということだ。それでも、翔くんは「彰の経験が足りないせいで」「場数を踏んでないから」「努力が足りないだけで」怖いのだと言い続けた。当時の俺は、それなら、と思ったのだ。もうちょっとだけ頑張ってみよう。そう信じるには翔くんの言葉は十分だった。そのもうちょっとだけ、あと少しだけ、というあがきが、俺の十年の俳優人生を作ったと言ってもいい。思えばそれは、俳優としてどうしても生きていきたかった俺への、翔くんなりの愛だったのかもしれない。
『まもなく、十七番乗り場に、のぞみ一〇三号 博多行きが参ります』
 ホームに、新幹線が来る曲とアナウンスが流れ始めた。立ち上がるべきだと思う。だって俺はもう決めたのだ。翔くんを裏切って、俺は俺自身の人生を取り戻したいと真剣に思っている。もう翔くんを待つのはやめて、新しい人生を歩むのだ。オジサンなりの穏やかな安定に身をゆだねて、たまに恋人を作ったり、友達と呑んだりして、酔いつぶれた友達を家に不定期に泊めたりして、良いだけスイッチをやったりして年を越したいのだ。翔くんの燃え上がるような情熱に、いつまでも付き合っていられない。
 視界に、新幹線の白い体が入ってくる。アナウンスはこの新幹線の途中の停車駅について伝えている。数は決して多くないが、それでも朝一のこの新幹線に乗る必要がある乗客たちのキャリーケースを引きずる音が、がらがらと頭に響いた。乗らなくちゃ、と思う。とにかく、乗ってしまえばいい。そうすれば、もうあとは何も考えなくてもいい。それなのに、身体が動かない。
 ピリリリリリ…と鳴り響くベルの音がする。あぁ、と思った。ようやっと顔を上げると、目の前で新幹線のドアが閉まっていくところである。じりじりと、閉まっていくドアを一生懸命見つめていた。アナウンスが響き、新幹線がとうとう動き始める。白く流れ始める車体が、目に突き刺さるように痛かった。

 新幹線がいってしまうと、一転したかのように東京駅のホームは静かになった。きっとどこかには次の新幹線を待つ乗客もいるんだろうが、そう簡単には気配を感じない。そうなって見ると、先ほどまでの額から汗を搾り取られるような重圧はどこへ行ったのか、まるで重力が軽くなりでもしたかのように、体が軽くなるのだった。
 俺は立ち上がりながら、コートのポケットを探る。ぬるついた掌では思いつくままにものを放り込みがちなコートの中からジッポと煙草を見つけ出すのは簡単なことではなかったが、ホームにぽつんとある喫煙所に辿り着くまでの間にはそれを引っ張り出すことに成功する。スライドドアを開けながら、右手で開けた煙草の箱から歯で挟んで煙草を引っ張り出す。
 あぁ、もう、どうとでもなれ、と思った。
 悩んでいたのが馬鹿のようで、思わず笑ってしまった。早朝の新幹線のホーム、しかも発車したばかりの新幹線がある状態では、喫煙所には誰もいない。薄汚れた喫煙所の端の蜘蛛の巣を見つめながら、目尻に涙が浮かびそうなほど笑った。もうどうせ、今さら結婚式には間に合わない。多分一生懸命方法を探したら今からでも間に合わなくはないのかもしれないが、そんなやる気はまるで残っていなかった。結婚式への少ない俺の意気込みだけを載せて、あの新幹線は発車したのかもしれない。
 ジッポの蓋を開け、ホイールを親指で擦る。シャッ、と見た目に反して軽薄な音を立てて、ジッポの上に火が上がる。こんな小さいくせに、炎は立派に神社で燃えているような匂いがする。ふわりと鼻を突くガスの匂いまでもリアルで、地元のどんど焼きを思い出す。あの頃は、良かった。さっちゃんがいて、友達がいて、この町を出ようなんてまるで思わなかった時代。あの頃のまま俺がいたなら、きっとさっちゃんと結婚していたのは俺だったのかもしれないとも、うっすら思った。
 煙草を咥えて、その先で炎を吸う。炎は揺れながら、俺の方に身を寄せる。煙草がオレンジ色に燃え始めたので、俺は吸った息を吐きながら、ジッポの炎を消した。
 けれども、俺は東京に出てきて、しかもなんとか俳優になれた。翔くんに出会って、彼にいいだけ振り回されながら、俳優生活も十年目である。今更、翔くんを捨てられるわけがないのだった。彼がいなければここまで来られなかったし、悲しいことにきっとこれからもそうなのだろうと、喫煙所の窓から外を見ながら思い知った。地元の結婚式に出ようなんて、馬鹿なことを考えたものだ。それを見て、どうしようというのだろう。級友たちに「お前最近テレビで見ること増えたな」とか言われながら肩を叩かれ、なんとなくサインを書いて夜まで飲むのか。そんなしょうもない用事で、翔くんを裏切ることは、やっぱり俺には無理なのだろうと思う。それは俺の弱さで、甘さだけれども、仕方がない。例えその甘さが、俺と翔くんをだめにしていくとしても、もうそれは仕方がないことなのだ。翔くんに出会ってしまって、翔くんの顔を見た瞬間から、決まっていたことのような気がした。
 思い切り煙草の煙を吸い込み、肺を満たす。まだ喫煙所内の空調は本調子じゃないのか、その煙は朝の冷たい温度を孕んで、じんと体を痺れさせる。窓の外はまだ暗くて、遠くの方に、ぽつんと光る明けの明星が見えた気がした。もうすぐ、朝日が昇るのだろう。

 東京駅から自分の家に戻る電車の中で、翔くんからのラインを開いた。
『今日だからね』
『絶対見に来てね』
 だめ押しのように、よくわからないが柔らかそうな生き物が怒っているスタンプも届いていて、思わず笑った。いつもは混んでいる電車もさすがにこの時間だとまだ空いていて、電車特有の熱めの空調が俺の痺れた指先に血流を戻してくれる。
『わかってるよ』
『でも俺、実はチケット買ってなくて』
 ごめん、と猫が謝るスタンプを送る。その全てに一瞬で既読がついて、『だろうと思った』と届いた。翔くんは、大人になっていた。その一言だけで、翔くんの呆れたような笑顔が想像できる。
『でもいいよ』
『スタッフさんにお願いして、彰が来たらチケット渡すようにしてもらったし』
『関係者席だから絶対穴開けるなよ』
 ぽこぽこぽこ、と間を空けずに送られてくる連投メッセージは、翔くんも俺が来るか不安に思っていてくれたってことだろうか。それくらいは、自惚れてもいいだろうか。
『わかった』
『差し入れ買ってくよ、何か欲しいものある?』
『いらない』
 それでも、翔くんは翔くんなのだった。俺からの差し入れは受け取らない癖に、俺の舞台も見に来ない癖に、俺の出る作品に馬鹿でかい花を送り付けてくるようなひとである。彼の高潔なプライドが、俺は好きだ。後輩からの贈り物なんて受け取ってはくれないし、後輩に奢られるのをすごく嫌う。それでいて俺の家に時間もわきまえずに転がり込んでくる彼が、結局好きなのだった。
『了解』
『頑張ってね』
 だめ押しのように送ったラインを、最寄りの駅につくまで見つめていたが、それに既読が点くことはなかった。きっと最終稽古にでも出たのだろうが、多分翔くんは俺からのラインを読んでくれただろう、と思った。