「おかえり彰、今日は早いじゃん」
その次の日である。帰り道に見上げた、マンションの自室に明かりが灯っている時点で十分に嫌な予感はしていたが、こうも見事に当たると馬鹿らしくなる。俺は翔くんのなんだというのか。
「コートもらうわ、手洗いうがいして来い。飯出来てる」
当たり前の顔をして差し出された手にコートとマフラーを押し付け、よろよろと洗面台に向かう。そこにはやっぱり当たり前のような顔をして、俺自身で下ろしたホテルのアメニティ歯ブラシセットがちょんと鎮座している。仮にも俳優に歯磨きをせず寝ろというのは酷だと思って、彼が転がり込んできた初日にストックから出したものである。一日使い切り想定のそれは、三日目という思わぬ重労働にひしゃげてきていた。
「翔くん、今日の飯なんなの」
うがいした水を洗面台に吐き出しながら聞くと、「パスタ!」と当たり前のように返答がある。まるで彼がいなかった数年こそが嘘のような気までしてくるのだから、不思議だ。洗面台を出て食卓に着くと、うきうきの翔くんがパスタ皿を出してくる。そんなものうちになかったはずだけどな、と首を傾げていると、「物置部屋掘り返して見つけてきた」とこともなげに言われて気が滅入る。確かに、翔くんが残していったものは全部まとめて物置部屋に放り込んだような記憶がある。目の前ではほかほかとスープパスタが湯気を立てていて、この家ではついぞ見ることもないほど色鮮やかなサラダが目に刺さる。ずいぶん昔からそこにあったような顔でバゲットまで並べられていて、ほとんど俺の鞄置きとして機能していた椅子には、翔くんが笑顔で座っている。その手にはシャンパンの瓶まで握られていて、このままでは、本当にいけないと思った。
どうせ酒を飲めば俺は潰れて、翔くんもべろべろに酔って、明日の朝を迎えてしまうだろう。そうなれば、もう俺が何を言い出すかわかったもんじゃない。このまま一緒に住んでよと泣きながら酒に流されて言ってしまいかねないと思った。それではもういけないのだ。元の木阿弥なのだ。彼の我儘に振り回されて、傷つくのはもうごめんだった。都合よくつかわれて、俺はまともに恋人を作ることもできず、いつか彼が合鍵を使って玄関から入ってくるのを待ち続ける、そんなのはもう、終わりにしたい。
「どうしたの、彰。食べないの?冷めるよ」
いつの間にか翔くんがつけたのか、それとも随分前からついていたのか、テレビからはバラエティの音が流れ出てくる。うるさいな、と心底腹が立った。
「ねぇ、翔くん。」
翔くんは、きょとんと俺を見上げている。翔くんは俺より背が高くて、基本的にぎりぎり見下されているから、彼を意識的に見下ろすのは新鮮だった。酔いもせず、彼の顔にくらっと来ることもなく、明るい光の下で彼の顔を正面から見るのは、思えばずいぶん久しぶりだった。
彼は、老けていた。元々痩せていたのに、また痩せたせいで眼窩が落ちくぼみ、皮膚も薄いから目の周りに暗いクマが深々と浮かんでいるように見える。それは否応なく、年齢を感じさせた。彼の薄い肌には笑いじわが浮いていて、金髪に誤魔化されていたが、よく見ると彼のウェーブがかった髪の分け目には白髪も見える。
「出て行って」
思いがけず、口から出た声は震えた。もう徹底的に彼を排除する覚悟を決めて口にしたはずの言葉は、制御できない喉の震えで掠れた。
「俺の家から出てってよ、翔くん」
それでも、もう限界なんだ、と自分を鼓舞するために頭の中で叫んだ。翔くんはいつだって、俺の手から餌を食べて満足そうな顔をするくせに、俺のものにはなってくれない。他人に傷つけられた、と俺の所へ逃げ込んでくるくせに、また傷つけられたいのか外へと出て行ってしまう。俺なら翔くんが怖がることは一切しないのに、それの何が不満なのか。いや、不満でもいいけど、不満なら、もう二度と帰ってこないでほしい。俺から安心安全な餌だけもらって、野良で生きていきたいなんて、そんなの無茶苦茶だ。俺がどれだけ翔くんを褒めたって、それで彼は満たされはしなくて、結局危険な目に合わないと自分の美しささえ認めてくれない。
「だって翔くんは、俺との生活がいやになって出て行ったくせに、都合がよすぎると思わないの?どうして今更帰って来れるの、ね、翔くんはさ、俺のことなんだと思ってるわけ。都合のいい友達?何でもいうことを聞く出来の悪い後輩?俺はさ、翔くんのこと、」
「…彰はさ」
あぁ、負けたな、と思った。俺はこれだけ必死に喋っていても、結局翔くんの尖った声を聞くと、黙ってしまう。翔くんは、俺からまったく目をそらさない。信じられないほど大きな目が俺をまっすぐ見つめて、透き通った黒い目が俺に照準を定める。ごくり、と彼の喉仏が動いて、翔くんも少しは緊張してくれてるんだ、とほんの少し仄暗い喜びが上がってくるのを噛み締める。
「俺が泊まりに来て、いやだったってこと?」
そんな訳ない、と気持ちのまま叫べたらよかったが、俺はそんなに素直になれるほどはもう若くないのだった。喜びを飲み下しながら、「うん」とできるだけはっきり聞こえるように発音した。ずいぶんと苦い一音だった。
「そうなんだ」
「翔くんはさ、俺のこと都合よく使いすぎだよ。ラインもあるんだし、泊りたいなら事前に連絡くれたらいいじゃない。俺にだって都合があるんだしさ」
自分の中にせりあがった翔くんへの熱かった気持ちが、急速に冷え込むのを感じながら、止まれなかった。翔くんは、結局俺が必死に喋っても、その言葉を遮る。いつだって俺をまともに見てくれないのは、翔くんだ。彼にとって、俺はその程度の男なのだろうという客観的な事実が、仄暗い喜びと共に胃に落ちてくる。
これを言ったら、このひとは逃げて行ってしまうだろうとわかっていたから、これまで口に出すのを避けてきた言葉がいくつもある。それでも、もう目をそらし続けるには俺は年を取りすぎたし、彼も年を取ったと思う。俺の家に来る前に連絡をくれる様になったら、それはもう彼と俺の間にあったこれまでの関係ではない。普通の友人同士に戻ってしまうと思う。もしかしたら、仲のいい同業者以下だろう。そうなるのが惜しくて、彼を甘やかし続けてきたのは自分だ。しかし、もういい加減、踏みにじられても大丈夫な部分はすべて踏ませてあげてしまったと思う。
「合鍵も返して。もう一緒に暮らしてないんだから、いらないだろ」
俺の声は、自分が想像していたよりもずっと突き放すような響きを持って、ウォールナットの食卓の上に落ちた。いつの間にか暖かそうな食事は湯気を失くして、エアコンの稼働音だけが聞こえる。
「ごめんね」
長すぎる数秒ののち、鼓膜に響いたのは、出会ってから十年の間で、はじめて聞いた翔くんの謝罪だった。
「ごめん、彰。」
翔くんは真っ白な白目の縁を赤くしながら、俺をまっすぐ見ていた。
「そんなに彰を苦しめてるとか俺考えてみもしなくて、馬鹿だった。ごめん。彰は優しいから、お酒片手に遊びに行ったら、いつだって笑って迎えてくれるような気がしてたんだよね。」
白いカッターシャツから伸びた翔くんの首は細い。喉仏が震えているのを見て、俺は震えるほどの罪悪感が俺を押しつぶしそうになるのを感じた。俺は結局、懐いてくる子猫の毛皮を剥いだだけなんだろうか。長年懐かせていただけに、心臓がワイヤーで締め上げられるように痛かった。
「今日は帰る」
翔くんの演技が破れて、声は震えていた。ガタンと激しく椅子を引く音がして、翔くんが立ち上がる。そこで初めて、彼が裸足だったことを知った。そんなので外に出たら、風邪をひく。今日明日と、東京は大寒波に襲われるらしい。
「翔くん」
廊下を歩いていく彼の背中に呼びかけると、彼は振り返った。そのことになんだかすごく安心しながら、「俺の靴下履いていきなよ」と声をかける。が、彼は幽霊のように白い横顔で首を振った。十年前のあの日、逆光でよく見えなかった彼の表情と同じように、何を考えているのか読めない。
「いいよ、タクシー捕まえるから」
このまま、彼が二度と戻ってこないんじゃないかと怯えながら彼の背中を追いかけて、玄関で靴を履く彼の姿を一生懸命見つめる。なんといっていいのかわからなかった。彼を追い出したのは、俺の言葉なのだ。この家は彼にとっての命綱だと知りながら、彼を追い出すと決めたのは俺だ。彼は芯から自由なひとで、悪気などなかったと誰よりも俺が知っているはずなのに、彼のその細い首を俺が縊り上げたような気がした。どうせ俺の家じゃない場所でも楽しくやっているんだろうと意地悪な妄想で彼を責めたけれど、本当は、本当に、彼の言う通り、彼はたくさんの男女に囲まれながらもまったく楽しくなく、ただ怯えているだけなのかもしれない。
けれど、それを確認する術を持たない俺は、ただ一生懸命白いカッターシャツの上にフェイクレザーのコートを羽織る彼を見つめていた。だから、視線が彼を呼び留めたかのように、彼が振り返った時には、心臓が一瞬止まったような気さえした。
「あきら、」
「なに?」
俺は、自分でも驚くほど優しい声で翔くんに応えた。
「…あいかぎ、」
やっぱり、翔くんは痩せた。骨っぽくなって元々の骨格の形を教える顔は、どこか儚い。その儚い顔は、今や細い眉毛を寄せて、俺を睨んでいるような顔をしている。けれども、その顔は、美しい顔に反して男性的であることを望む翔くんが泣くのを耐えている顔だと俺は知っている。
「合鍵、やっぱり返したくないって言ったら、怒る?」
怒れるわけがなかった。これ以上彼を罰することは、信じてもいない神に許されない気がした。俺が誰かをいじめていい限界というものを、超えている気がする。思わず首を振ろうとした俺を、「あのさ、」と囁くような声で翔くんが止める。
「俺今度帝国劇場で舞台やんのね」
冷たいマンションの玄関扉からは、外の風の冷気がうっすらと入ってくる。その気温にぶるりと体を震わせて、翔くんはコートの襟を立てた。
「その時まで、お守りで合鍵、持っておかせてほしい。千秋楽に彰が来てくれたら、その時に返すから。それまで、お願い。」
翔くんはいつの間にかコートの袷の部分を強く両手で握りしめている。玄関の淡い光に照らされて、彼の整った鼻筋に沿って細く影が落ちている。高く出た眉の骨のせいで、目元にまで影が落ちていて、その先で睫毛が震えていた。翔くんは俯きながら、俺の沙汰を待っている。メイクはしていなかったのか、唇は血色を失くして、いっそ白いと言ってもいいほどだ。俺がさっきまで言ったこと全部、なかったことにして、二人で食卓を囲んでしまいたいと思った。それで温かい風呂を沸かして、翔くんを入らせて、客用の布団を貸して泊まらせてやったらいい。そんなの、震えている彼を見捨てるよりずっと簡単なことのように思えた。けれど、それを振り切って、せっかくここまでけじめをつけたのだ。非情になることの方が優しいのだと、頭ではわかっている。それでも、色を失くした唇を白い歯が噛むのを見ていると、どうしても耐え切れなくなってしまった。
「わかった」
馬鹿だと思った。結局、懐く野良猫が馬鹿なわけではない。猫は生き延びるのに必死なだけで、餌をあげるヤツが全部悪いのだ。分かっているのに、また餌を与えてしまった。
「そんなのでいいなら、持っていきな。応援してるから、頑張ってよ、翔くん」
「うん」
ずび、と彼が鼻を啜る。じゃあ、と彼がコートのポケットの辺りで手を振って、玄関扉を開ける。その背中が玄関扉の黒の向こうに消えるのを、俺は息も出来ないままじっと見つめていた。
その次の週は、何もなかった。翔くんがまた玄関扉の前に落ちていたりするかと微かに期待もしてみたが、そんなことはなかったし、自分の知らない間に自室の明かりが点いていることもなかった。アクアパッツァだとかパスタだとか分不相応なほどおしゃれな料理が食卓に並ぶこともなく、俺はぼんやりと鍋を煮たりうどんを茹でたりお茶漬けを食ったりした。職業がちょっと珍しいだけのありきたりなオジサンに戻るのに、そう大した努力は必要ない。翔くんさえいなければ、俺は面白みのない、ちょっとイケメンなだけのオジサンである。
その次の週も、特に何もなかった。帝劇で翔くんが出るらしい舞台のニュースを、朝のニュース番組で聞きかじったくらいである。演目はサロメらしい。翔くんらしいな、と思った。翔くんはヨカナーン役だそうだが、絶対にサロメの方が似合うだろうと思って少しだけ笑った。
その、次の週。俺の携帯には、一本の電話があった。見覚えのない電話番号だったが、故郷の市外局番からである。ずいぶん懐かしい番号に思わず電話を取ると、電話口からは穏やかな聞きなれた声が聞こえて、かなり驚いた。
「さっちゃん?!」
「あっくーん!よかった、名乗る前に気づいてくれた!昔と全然変わってないね」
煙草休憩という名のサボりの途中だったので、こそこそと共演者から見えない位置に移動しつつ、一緒に休憩していた監督に目配せする。お茶目な監督がウインクを返してくれたところで、なんとか俺は誰もいない廊下に逃げ込むことに成功した。彼女は昔から話が結構長いのだ。
「そうか?俺ももうオジサンだよオジサン。声年取ったの分かるでしょ」
「何言ってんの、十分若々しい声しとうよ。もうすっかり標準語だね」
それはあんまり帰っていない俺への当てこすりだろうか、俺の両親と仲のいい彼女なら、両親に頼まれてそれくらい言ってこないとも限らない。が、幼馴染である。やめろよ、と砕けた勢いで笑うと、彼女も電話口の向こうできゃらきゃらと笑った。俺と同い年で、きっと大人の女性になったはずだが、相変わらずかわいらしい感じが抜けないみたいだ。当時から彼女はよくモテて、俺と一緒に帰ることを死ぬほど同級生にからかわれたりもしていた。
「それでさ、今日電話したのはあっくんにお願いしたいことがあって電話したんよ」
「いけんした?」
「…あんね、私今度結婚するんよ」
「は?!」
思わず驚いた声を反射で出してから冷静になってみると、二十八は十分結婚適齢期なワケだ。驚くのはさっちゃんにすごい失礼だったかもしれない。同業者の結婚が遅いのもあって、結婚という言葉に対してすごい距離を感じていたし、結婚ラッシュで金がない、という同郷の友人の話も話半分で聞いていたツケが回ってきていた。けれども彼女は俺のすごい失言を笑い飛ばし、「驚くでしょう」と笑っている。
「私もずーっとあっくんが好きだったから、結婚するつもりまるでなかったんだけどね。すごい好きだって言ってくれる人が出てきて、お試しでいいからっていうから付き合ってみたら、すごい良いひとだったんだよね」
「はあ?!何言ってんの、そうなの?」
失言二回目である。けれども、驚きの前に幼馴染への失言などと言う概念は吹っ飛んでいた。まるで知らなかった。告白されたことはなかったし、冷やかされたことはあっても、彼女も迷惑しているのだとばかり思っていた。
「…そうなの。知らんかったでしょう」
「……うん。」
さっちゃんの声は、少しだけ湿度を含んだ。片思いの相手がまるでその気持ちに気づく気配もなく東京に出たきり、ほとんど帰らず夢を追っているなんて、挙句自分の気持ちを明かしても驚くばかりだったら、傷つくに決まっている。罪悪感が刺激されて、ごめんと思わず謝ると、「謝らんといて」とさっちゃんは笑った。
「モテんモテん、ってあっくんずっと悩んどったのに、言い出しもしなかった私も悪いんよ。言わんと伝わらんとは知っとったけど、言う勇気が出なかったしな」
「じゃあ、あの頃のバレンタインのチョコとかも?」
「本命にきまっとろ?」
「うわ、ならもっと大事に食えばよかった。もったいないことした」
中学、高校とバレンタインの行事が恒例化する時期に、ずっとさっちゃんはチョコレートをくれていた。かわいかったし美味かったし、部活帰りの空腹に飲まれてバリバリと食っていた記憶がある。友チョコだわ、とさっちゃんが言うまま信じて彼女の目の前で可愛いクマを食ったような記憶もおぼろげながら輪郭を取り戻し始めている。当たり前のように最悪だった。よくこんな男を好きでいたな、と呆れるような気持ちもないと言えば嘘になる。
「あの頃のあっくんいつもお腹空いてたもんな。会うとは『腹減った』って言ってた」
「おかげさまで身長伸びたけどね。…いやでもチョコはほんとごめん、なんか可愛いクマもらったよね」
「うわ、よく覚えとるね。かわいい~って言いながら豪快に顔から食べるから、こっちがビビったよ」
「あ~…」
かわいい、と腹が減った、は俺の中で別物である。しかし、それがあまり理解されない感覚だということは、翔くんから学んだ。忘れもしない、翔くんが食べに行きたいから付き合って、といいだして並んだドーナツ屋の名物商品の、柴犬がくっついたドーナツ。あまりにもおいしそうなにおいがするからと食べたら、携帯を構えていたらしい翔くんから半泣きで怒鳴られたのだ。まだ写真も撮ってないのに、しかも柴犬から食べるなんて人でなし!と。
「…マジでごめん」
「いいよそんなの!食べちゃえば一緒だよ」
さっちゃんは、優しくていい奴だ。俺が宿題を忘れると睨みながら問題のヒントを出してくれたし、忘れ物が多い俺を影ながら支えてくれたのはさっちゃんである。死ぬほど怖くて面倒くさい英語教師の授業中、彼女が辞書を貸してくれなかったら俺はきっと記憶の中の十倍は怒られていたに違いない。けれども、多分付き合っても上手くいっていなかっただろうな、とぼんやり想像した。俺は結局、自分のことを受け止めてくれる人とはうまくいかないのだ。好きになりきれない、という方が正しいかもしれない。『食べちゃえば一緒だよ』と自分が頑張って作ったクマを頭から齧られても許すような人では、俺はダメなのだ。翔くんのように、「クマなのに?!」「柴犬なのに?!」「かわいいっていう感情死んでんのかよ!」くらい言ってくれてはじめて、心から笑える。元カノたちもそうだった。俺のことを大好きで、俺に何かくれようとする人では、俺はダメらしい。そんなことにも気づいていない高校生の俺が、うっかりさっちゃんの気持ちに気づいて付き合っていたりしたら、きっと終わりは悲惨だっただろうし、こうして大人になってから連絡を取ることもなかっただろう。そう思うと、さっちゃんには誠に勝手だが、自分の鈍感さも悪くないのでは、と思う。
「んでさ、旦那さんになるのが岩田君なのね」
「岩田?!あいつそうだったの」
岩田とは、俺の高校時代の悪友である。学校にエロ本を持ち込み、改造したゲーム機を自慢し、ピアスを開け、飲酒が見つかっては生徒指導部の先生に小突かれまくっていた問題児で、それでもクラスの中では何かと人望があった。俺とさっちゃんのことをからかいまくり、彼がやるならとクラス中がそのノリに乗りはじめ、ひどくなるからかいに俺が怒鳴ったりしたこともある。若かった。
「さっちゃんあんな奴と結婚して大丈夫なの。ひどいことされてない?」
「全然!鳶になって一生懸命働いてるよ。最近はタトゥーが恥ずかしくなって、消すための手術?のお金稼ぐって頑張ってるわ」
「だっせ。だからやめとけって言ったのに」
「ね~」
でも、さっちゃんの言葉の節々からは、当時の悪友を責めるような響きは聞こえない。代わりに、身内の不始末を「しょうがないひとね」とでも言いたげに庇う気配がした。それで、あぁこいつらって幸せなんだな、となんとなく把握する。
「でね、岩田君も私も彰くんに結婚式来てほしくて、でもお仕事忙しいだろうし住所分からないからってもたもたしてたら結構時間たっちゃって…ぎりぎりだけど、来れる?」
「いつなの」
「二月の十七日。」
コートのポケットから手帳を出そうとしていたが、日付を聞いて、手を止めた。その日は、翔くんの千秋楽の日である。行くべきか、行かないべきかとここ数週間ずっと悩んでいたから、日付もすっかり覚えてしまっていた。行けば、翔くんは合鍵をくれるだろう。けれど、それ以前に、翔くんの舞台を見て、俺が平静でいられるのかも怪しい話だと思う。翔くんはそれを狙ったんじゃないか、とすら思う。翔くんの舞台は、凄まじいのだ。それを見たら、きっと俺は自分が彼に消費されるのなんて全く気にならなくなってしまうだろう。そうやってまた彼を甘やかして、それでも数年後にはまた自分の限界が来て、また同じことの繰り返しになる気がしてならない。それくらいなら行かない方が良いんじゃないか、と思うのだ。合鍵は失くしてしまったと大家に謝って、引っ越してしまえばいい。翔くんに負担なんか強いなくても、その程度のことで解決する話なのだ。なにより、裏切られたと知れば、翔くんはもう俺を頼らないだろう。そのことはひどく寂しく、けれども同時にすごく清々しくも思った。
「…分かった、行くよ」
「ほんとに?!ありがとう、時間はね、午後二時からなんだけど、お仕事大丈夫?」
「もちろん。大事な幼馴染の結婚式なんだから、それくらいなんとかするよ」
「嬉しい。…ありがとう」
どきどきと心臓が自身の存在を主張し始めた。ヤニクラが今頃来たのだろうかと考えかけて、そんな訳あるかとおかしくなる。翔くんじゃあるまいし、俺は貧血でもない。強い体だけが取り柄だと言ってもいいくらいの俺が、ヤニクラなんてするわけないし、煙草を吸い終わってからずいぶん経つ。
「ぎりぎりの連絡でごめんね。あっくんに繋がるかほんとはちょっと怪しいような気もしてたから、声聞けて良かった」
「うん」
翔くんは、いま、どうしているだろうか。きっとサロメの稽古中だろう。俺が来ると信じているのだろうか。俺の鍵が、本当に彼のお守りになっているなら、良いのだけれど。
「…じゃあ、切るね。お仕事中にごめん」
「うん、じゃあ、当日に、また。細かいことはメールしといてくれたら読むから」
「オッケー。じゃあ、ね。」
プッ、と通話が切れる。俺は、ため息交じりに壁に背中を預けた。なんだか、どっと体が重さを増したような気がした。彼と出会ってから初めて、俺は翔くんとの約束を破ろうとしている。
別にいいじゃないか、とも思う。だって彼は、俺との約束をいいだけ破ってきた。何度吸殻は蓋出来る容器に捨ててくれといっても彼は無視したし、仕事の前日にお酒は飲まないようにしようって約束も、彼は好きなだけ破った。夜中に呼び出しの電話をかけてくるのはやめてと何度頼んでも、ひっきりなしにかかってきていた時期もあった。それで当時の彼女には振られたし、電話口の半泣きでべろべろな翔くんに驚いて居酒屋へ駆け付けたら、「財布を忘れたから代わりにここのお会計払って」という膝から崩れ落ちそうなお願いだったこともある。ごはんの約束をしても、彼は何度も「今の仕事で一緒の人と呑みに行くことになっちゃった」とブッチしたし、彼が掃除担当の週は家がぐちゃぐちゃになった。恋人との別れ話が面倒になった翔くんがうちに逃げてきて、彼女さんを追い出す役回りを押し付けられたこともあった。もう女のひとがらみのことは家に持ち込まないで、とお願いしても、彼は俺のあげた香水をどこかの女の子にあげてしまったりもした。軽く思いだすだけでも翔くんにはあまりにもたくさんの前科がありすぎて、きっと真剣に思いだそうと思えば際限なく彼が俺にやらかしたことは数え上げられるはずだ。それでも、俺は、彼のことが好きだった。
携帯を取り出して、ライン上で翔くんとのトークルームを選ぶ。アイコンは、翔くんがどこかのビーチで笑っているのを誰かが撮った写真らしかった。誰と行ったんだよ、と吐き捨てるように思う。俺は、翔くんに旅行に誘われたことなんかない。長めの休みがとれそうで誘っても、「俺は彰と違って忙しいから」といつだってはぐらかされるだけだ。
『翔くん、』
打ち込みかけて、やめる。アイコンの翔くんが、弾けるように笑っていて、見ていると苦しくなってくる。翔くんは、本当に俺にとって、世界で一番きれいなひとなのだ。どんな表情だってきれいだけど、やっぱり笑っているのが一番いい。限界まで笑った唇の隙間から覗く白すぎる歯が、真夏の太陽を浴びて光って見える。遠慮なく刻まれた笑いじわが、とてつもなく美しいと思った。翔くんがそれを気にしているのは知っている。彼が泊まりに来るようになって洗面所にいつの間にかノミネートされた美容液は、眉唾物だけど調べてみたら皺に効くらしかった。だけど、俺はそれが本当に好きだ。翔くんが全力で笑っているのを見ると、しあわせだと思う。肋骨の中身だけが温泉に浸かりでもしたみたいな感じで、温かくなる。
『千秋楽、予定が入っていけなくなった』
打ち込みはしたものの、そんなことを送る勇気が、俺にはなかった。打ち込んだ文章を戻るボタンで消しながら、翔くんのアイコンを睨む。翔くんをこんな風に笑わせることが俺にはできなくて、悔しいと思う。誰が彼をこんなに笑わせたんだろうか。俺じゃない、翔くんより先輩の俳優だろうか。それともすごくかわいい女の子なんだろうか。俺ならもっと笑わせてあげられるなんて思わない。俺は翔くんがくれたレシピひとつ彼の前で披露してあげることのない、可愛くない出来損ないの後輩にすぎない。だからこそ、俺は彼の笑顔を潰すのが怖い。俺では絶対に取り戻せないものを壊すことは、取り返しのつかない裏切りのように思う。
このメッセージを送ったら、『予定が入ったって何?俺の方が先に約束してたじゃん』と、かつての彼ならすぐに怒っただろう。俺はそれにごめんと平謝りしながら事情を話して、翔くんの機嫌を取るために流行りのスイーツを並んで買ったりして、昔は、それでよかった。けれど、もう翔くんも俺も、そんな歳ではなくなってしまった。スイーツごときで誤魔化されたふりをするにも、傷ついたことを隠すために怒鳴るにも、俺たちにはもう体力がない。俺たちはいつの間にかすっかりオジサンになっていて、オジサンについた傷は見て見ぬふりをしているうちに自然とふさがったりしない。段々膿んで、関係を腐らせるだけである。
