野良の金星

 なんてきれいなひとなんだろう、と思った。俺の地元にはこんな人はいなかったし、きっとこれから俺がどれだけ頑張って芸能界を上り詰めたって、こんな人には会えないだろう、とはっきりと分かった。『彰くんほどカッコいいひとなんか、東京いったってそう簡単に会えるわけないよ、負けるな!』と送り出してくれた幼馴染のさっちゃんの言葉も、説得力が一瞬でなくなった。俺が全く知らない大都会に漕ぎだすのに、唯一の自信として握りしめた、地元の高校の「イケメングランプリ一位」の旗も、まったく彼の前では意味をなさないと、十八歳の何もわからないガキにだって、よくわかった。
「…はじめまして、谷内翔平です。よろしくどーぞ。」
 ふーっ、と吐き出された息は、明らかに白くて、頭のどっか遠くの方で、冷静な俺が「おいおい」と突っ込んではいる。子供の前で煙草なんか吸うなよ。岩手の親戚のおじさんたちですら俺の前では煙草控えてたってのに。けれども、それを飛び越えるように、こんなに綺麗な人は、何をしたってきれいなんだ、と思った。衝撃的だった。
「はじめ、まして。省吾役の、瀬戸内彰です。よろしくお願いします。」
 なんとか絞り出した声は、「ねぇ」と目の前に立っている人の声に潰された。
「礼儀がなってないね。先に君から挨拶するべき。しかも、新人でしょう、頭も下げな」
 控室の「完全禁煙」の札の目の前でタバコを吸ってるあんたが言うのかよとは思ったが、仕方がない。この世界では先輩が絶対だ。慌てて頭を下げると、「よし」という声が降ってきた。頭を下げたまま、首だけあげると、その人が俺の方に向き直って笑っている。薄い唇が歪んで、すごい性格が悪そうだ。逆光で表情はよく見えない。それでも、大きな目が細められて、睫毛が深い影を落としていることだけは見て取れた。『悪い女の人に騙されたらいけんよ、東京にはいろんな人がいるからね、綺麗なわっるい女の人がいるはずやから』という幼馴染の言葉が頭によみがえる。ごめん、さっちゃん。俺、女の人以前に、すごい綺麗な悪い男の人に騙されるかもしんない。
「俺はヨージ役。ドラマでは相棒だけど、足引っ張んないでよね」
 彼の手が、俺の肩に置かれる。今までの人生では見たことがないほど、繊細な男の手だった。呆けたように彼を見つめ続けていると、鼻を鳴らした彼に、片手で両眼をふさがれた。冷たくて、まるで人間のものではないようだ、とうっすら思ったことだけ、覚えている。

 それから、十年。俺も十分に老けて、今や二十八歳。オジサンに片脚は突っ込んだわけだが、それなりに俳優業に噛り付きながら、日々を過ごしている。彼女なし、結婚願望なし、こどもが欲しいわけでもなし。お金は十分すぎるほどにありますというわけでもないが、それでも東京に居心地のいい部屋を借りて、水槽に好きな魚を飼いながら生活できているので、不足は感じていない。そもそもが俳優になった理由はデビュー作になったあの作品に出たいというものだったから、人生で一番大きな夢は叶えたわけである。それで文句を言っていたらバチが当たりそうだ。
「ただいま~」
誰もいない我が家に、そう声をかけるのはもはや習い性になっている。かつて一緒に住んでいた、野良猫のようなあの人のせいだろうと思う。だって別に、あのドラマのために上京してきて一人暮らしを始めた頃にはこんなことを言う癖はなかったはずだから。そのはずだ。
「はぁ…」
 三十路も近くなると、ため息も深くなる。まだ二十代のはずなのに、身体が重くなったような気がする。稽古や台詞合わせだけの日でも錘を飲んだように体がきつくなるようになったのはいくつからだっただろうか。なんかもう少し前までは、これくらいの稽古の日は走って帰ってすぐに服を着替えて、友達と呑みに出ていたような気もするのだけれど、最近は誘いすら来ない。みんな体がしんどいのか、それとも恋人でもできたのかもしれない。
「腹減ったな…。今日は何作ろうかな、」
 マフラーとコートを上がり框のポールにかけて、どすどすと廊下を進む。そのままの勢いでキッチンに曲がって冷蔵庫を開けたところで、視界の端に何か映った気がした。
「は?え?!なに、誰?誰かいる?」
 外が真っ暗で電気もつけないまま冷蔵庫を開けた横着のせいで、その薄緑色に誰か映し出された気がした。そんなはずはない。だって、この部屋の鍵を持っているのは自分とあと一人のはずで、もう一人怪しい元彼女からは一昨日しっかりと鍵を回収したのだ。ということは、不審者だろうか?俺に?危ないファンとかか?だったらとっくに襲われていておかしくないはずなのに…と思いながら、抜けた腰でじりじりと後ろに下がる。相手がいたのはキッチンだから、包丁を持たれていてもおかしくない。というか、向こうも冷蔵庫が開いたのだから俺が帰ってきたってわかっているはずだ。なのにどうして何も言わないのだろうか。何もわからなくてかなり顔が引きつってきた。考えるほど怖くなる。頼むから神様、俺の見間違いでありますようにと祈りながら、ぱちりと押し込んだ壁のボタンは、奇跡的にキッチンのライトのものだったらしい。
 一瞬のうちにキッチンに吊り下げたいくつもの間接照明が点き、ぼんやりと暗い部屋の中でキッチンだけがオレンジ色に浮かび上がる。
 その中にいたのは。
「し、…翔くん…」
 キッチンで眠ってしまったらしい、かつての相棒役、谷内翔平だった。
「翔くん、…しょうく~ん?」
 恐る恐る近づいて肩を叩いてみるも、まるで反応はない。すぅ、すぅ、と寝息に合わせて肩が揺れるのみである。その指先には吸いかけで眠ってしまったのであろう煙草の死骸があって、ほっと胸をなでおろす。指先でつついてみると、それは完全に燃え切って灰になっているらしい。助かった。ぼや騒ぎになったら本当に困る。俺のささやかな貯金がすべて吹き飛んでしまう。…まぁ、昔そんなこともあったけどね。
 懐かしい気持ちになりながら、深いクマの刻まれた翔くんの肩をもう一度揺らしてみる。
 「うぅ」と不満げな声が彼の相変わらず薄い唇から漏れて、俺は思わずちょっと幸せな気持ちになった。翔くんの周りに倒れているチャミスルの瓶。その瓶の口に無理やり詰め込まれている吸殻を見るに、どうやら翔くんは俺が昔口酸っぱく言い続けたことを覚えてくれてはいたらしい。まず、煙草は換気扇の下で吸うこと。次に、吸殻は燃えないものの中に入れること。瓶とかコーヒーの空き缶の中に詰められた吸殻を引きずり出すのは気が遠くなるほど面倒くさい作業だけれど、ぼやを出されるよりだいぶんましだし、それにそんな作業を文句言いながら一緒にベランダでやる時間は結構楽しかった。趣味が家のインテリアにこだわることな俺にとって、貴重なお金を使わない休日の過ごし方としてランクインしていた。もうずいぶん昔の話だ。だから、まさか翔くんがまだこの家のカギを持っているなんて思いもしなかった。その頃から引っ越していない俺も俺だが、この部屋の間取りが気に入っている、ということにしている。
「ねぇ翔くんってば、」
 こん、と軽く作った拳で丸い頭を小突くと、金髪に染めた髪がゆらりと動いた。
「うーん、」
「うーんじゃないよ、なんでここにいるの、てか今何時かわかってる?」
「…何時なの?」
 そう訊き返してくる声は、俺より丁度十も年上とは到底思えないような幼い声だ。寝起きに舌っ足らずの声になるのって、ずるいよなぁと思う。それをかわいく思われるタイプの人間なのも相まって、本当にずるい。こういうふうだから、「翔くん可愛い~」と騒ぐファンも後を絶たなければ、恋人だって途切れることもないのだろう。俺が寝起きにもし万が一舌っ足らずになるタイプだったとしても、翔くんは絶対俺にかわいいなんて思ってくれないだろう。どうせ「彰、キモい」とか言われて終わりである。
「…二十三時、ちょいすぎ」
「まだ全然大した時間じゃないじゃん。ね、飲み直そうよ、彰帰ってくるの遅くない?俺が何時から待ってたと思ってんの」
 キッチンで立ち続けるのが億劫だったのか、俺がリビングで大事に使っていたおしゃれオレンジの椅子の背を倒しながら翔くんは文句を言う。ていうか椅子って洗えないよね、煙草臭くしてどうしてくれるの、それいくらしたと思ってんの、と口から出そうになる小言を咄嗟に飲み込む。もう今更飲み込んだって彼が帰ってくるわけでもないのだが、翔くんが俺の家から出ていったことは俺の中でトラウマになっているのか、あの日から彼に強く出られた試しがない。
「何時から待ってたわけ」
「ん~と、八時から。それくらいに彰が仕事終わるだろうと思ったのに、全然終わんないんだね。暇だったから適当にご飯つまんだよ」
「あぁ、別にそれは良いけど…」
 そう言いながら、先ほどチェックし損ねた冷蔵庫の中を再度覗き見た。確かに、作り置いておいた副菜が何品か減っているし、チャミスルは狩り尽くされている。俺が大事にとってあった穂先メンマの姿も見えない。
「いや良くないわ。普通に、たべすぎ。太るよ」
「なんで彰ってそんなひどいこと言えるの。俺と住んでた頃の彰はすごい可愛かったのに」
「俺も年取ったんだよ」
 そう。ずいぶん昔、彼と俺は一緒に住んでいた。ある日突然、彼が「家の更新忘れてた、泊めて」といいながら転がり込んできたのだ。かつて数回程度お邪魔したことのあった彼の家は物があふれるような場所だったはずだが、その荷物の大半はどこかに預けでもしたのか、彼はキャリーケース一個のみでやってきた。真冬の寒空の下、凍える彼を放り出すわけにもいかずに始まった同居生活は、結局三年くらい続いた気がする。
「ね、彰。煙草持ってる?俺手持ち全部吸っちゃったんだけど、買いに行くの億劫でさ。もしあったらちょーだい。いま彰って何吸ってるの。」
 俺があげないなんて思いもつかないような純粋な顔で、翔くんは俺を見る。この人が、俺は苦手だ。この人を前にすると、冷静な自分が保てなくなる。なんだかどれくらい無茶苦茶なことを言われても許してしまいそうになるのだ。多分、こんなに美しい顔を見たらこの世の全ての人間が彼の言うことを聞いてしまうだろうと俺は強く信じている。
「今?アメスピの緑。メンソールだけど、いける?」
「うん、もちろん。…あーでも、彰ってもう銘柄俺と全然違うのね。昔は彰って俺の真似っこばっかりで、俺とおんなじ銘柄吸ってたのに」
「真似っこばっかて。…そこまでじゃないし。」
「さみしいなぁ。彰ってどんどん大人になっちゃうから」
「何言ってんの」
 鼻で笑う演技は、上手いこといっただろうか。俺の演技は普段からお世辞にもうまいとは言えず、多分翔くんなら簡単に見抜くだろう。
「…あ、待って。ここじゃなくて、どうせならベランダで吸おう、翔くん。もうこれ以上キッチンに灰が落ちると掃除面倒くさいわ」
「え、移動すんの?…こっから動くのダルすぎる。本気?」
「超本気。」
 ほら、立って。といいながら、キッチンの台から零れ落ちた彼の二の腕を掴む。そこで初めて、痩せたな、と思った。翔くんは確かに元々細いけど、ここまでだっただろうか。彼が酔いすぎて吐いたのを介抱したのは、…多分五年くらい前だろう。その時に見た腕は、俺ほどじゃないにしろある程度は筋肉質だったはずだけれど。
「…翔くん、痩せた?」
「まぁ、うん。…追いかけてくる歳からは逃げ切れなくて」
 ははは、と冷たい笑いが彼の唇から零れて、またこの人は、と心から呆れる。彼は結局、寂しくなったり慰めてほしくなると、俺の部屋に来るのだ。いい加減彼から合鍵を取り戻して、都合のいい男から脱却しなければとずっと思っているのに、いつも朝起きるともう翔くんはいなくて、メモだけがリビングの机に残されていて、返してもらい損ねている。彼はずっとそういう人なのだ。掴みどころはなく、こちらが区切りをつけようにもそういう気配にだけは敏感で、野良の猫の様にひょんと逃げ去っていく。その癖、腹が減ると俺の手のひらから餌を食うのだ。彼が来ると餌を用意してしまう俺も悪いとは知っているのだが。
「…そんなこと言わないでよ。翔くんはいつまで経ってもほんとにきれいだよ」
「ほんと?…そんなこと言ってくれるの、彰だけだよ」
 ほら、また。俺の手に乗った餌を、輝くような瞳で翔くんは食べる。
「そんなことないでしょ、翔くんと共演したことある人はみんなそうやって言ってるでしょ。この間東谷さんとかも翔くんのことすごく綺麗だってラジオで言ってたし」
「そんなのどこまで本心かわからないじゃん。リップサービスかもだし…」
 今更こいつは何を言っているのかと、憎む気持ちがないわけじゃない。誰にでも彼にでも「さみしい」「褒めて」と擦り寄っては、その誰かとの仲のよさそうなツーショットを送り付けてくるくせに、「リップサービスかも」なんて、よく言う。それだったら、俺の言葉はリップサービスじゃないと本気で信じてくれる?そんな訳ないくせに。きっとどこか別の友人の横では、俺のことも「リップサービスかも」とかいうくせに。それに、今さら翔くんにリップサービスなんかして、どうなるっていうんだ。かつては親の七光りがあったかもしれないが、今となっては親ももう無くて、少しずつ仕事が減っているあなたに、今さらリップサービスをするほどの価値はない。東谷さんのそれは、心からの言葉だろう。
「俺のは疑わないの?」
「彰は特別。彰がどれだけ純粋だったか俺は知ってるからね」
「成長してるってば。俺もう大人だし」
 そう言いながら、キッチンで伸びている彼の手を引く。手のひらに持ち直しても、手の甲が確かに筋張っていて、年を感じないと言えば嘘になった。元々薄かった皮膚が、また薄くなった。静脈が透けて、確かに見ようによってはおじいちゃんのようだ。こういう一つ一つが、翔くんを追い詰めているんだろうな、と思う。
「ね、早く。」
 キィ、と俺のお気に入りの椅子が鳴く。
「翔くん頼むよ、マジ、家に傷つくかその椅子が倒れたら損害賠償請求する。ガチで。それ俺のお気に入りなんだから」
「うわそうなの?道理で座りやすいと思った~。オレンジがかわいいしね」
「そう思ってるなら煙草の匂いつけないでくれる?」
 アイランドキッチンの光から出ると、相変わらず部屋は暗いのだった。なんとなくの勘で家具を避けながら歩き、カーテンの隙間からうっすら夜の東京の光が漏れる窓に到着する。後ろで翔くんが何かにぶつかったのか、「いたっ、彰、俺の方確認しながら歩けよ」とえらそうに文句を言った。
「知らないよ」
「俺がいたころからだいぶん模様替えしてるんだもん、流石に避けきれないって」
 知ったことではない。あんたの痕跡を消すために、俺がなけなしの貯金を一旦叩いて模様替えをしたことなんか、彼が知るはずもないのだが、知らないからって言っていいことと悪いことがあるので、翔くんの文句を黙殺したまま窓を開ける。部屋の外と中で随分圧力が違うのか、窓はかなり開きにくかったが、両手で力を籠めると随分抵抗しながらもガラス戸は開くことにしたらしかった。失敗したリコーダーのような音を立てながら扉が横に滑ると、一瞬で顔の周りが冬の風に包まれる。
「うっわさむ!信じらんない、大寒波って本当だね」
「ニュースが嘘つくわけなくない?」
「嘘ついてた方が良いこともある」
「そうね」
 ジーンズの尻ポケットに入ってた煙草の箱を引きずり出して、蓋を開ける。かつて翔くんがやっていた仕草だ。あの頃は、それがずいぶん大人の仕草に見えて、早くそれをやってみたいと思っていた。
「はやく~」
「減らず口ばっかり叩くじゃん」
 煙草を二本箱から出して、箱を尻ポケットに押し込み直す。ぐしゃりと箱がつぶれた気配がしたが、元々ひしゃげていたのだし、それで今から困ることはなかった。しかし、はたはたとめぼしそうなポケットを叩いてもライターの気配がない。もしかすると、コートに入れっぱなしだっただろうか。
「なに、ライターないの。だっさいな、俺の貸したげる」
 白い手が、横から視界に伸びてくる。そのまま、翔くんの手はホイールを擦って火を灯した。
黒くて青い冬の夜の中に、オレンジ色の炎が浮かび上がる。ゆらゆらと揺れるそれをぼうっと見ていると、目が回りそうな気がした。なんだかそれは懐かしい光景である。はじめて煙草を吸った日も、翔くんはそうやって俺の煙草に火をくれた。
「ありがとう」
 口に煙草をくわえると、吸い寄せられるように翔くんの手が俺の口元に伸びてきた。その手を摑まえて、ゆらゆらと揺れていた火を吸い込む。静かなせいで、煙草に火が点くちりちりとした音がよく聞こえた。ひと息を吸いこみながら、口の中に入ったカプセルを歯で潰していると、手指の隙間から煙草を抜き取られた感覚がする。捕まえていた相変わらず冷たい翔くんの手を離すと、顔の横に熱さを残しながら、彼の手が離れていくのが見えた。
「今日何本目?」
「分かんない」
「吸いすぎなんじゃないの」
「年上に偉そうな口きくな」
 煙草をくわえて、もごもごと翔くんが言い返してくる。その横顔を見ていると、やっぱりちょっと幸せな気持ちになるのだった。『付き合ってんの?』と自分たちとかつて共演していた俳優が言った一言を思い出す。『俺は全く偏見とかないんだけど、距離近すぎるしすっぱ抜かれないように気を付けた方が良いよ』。付き合っていたなら、話は幾分かマシである。彼は近すぎる距離を保ちながら、こちらのテリトリーを犯しつつも、俺の飼い猫になる気はさらさらないのだ。思わず漏れだすため息を紫煙に混ぜながら、翔くんの横顔を覗き見る。寒いのか、鼻の頭が真っ赤になっていた。
「ねぇ、彰はさ、いま恋人とかいるの」
 けれども見惚れていられたのはものの数秒だった。すぐさまこちらを見た翔くんは、目をきらめかせながらそんなことをのたまう。馬鹿じゃないの、と反射で出かけた言葉を飲み込みながら、これはまずいぞ、と胸の中でそろばんを打つ。恋人いるの、にいないと返せば、この男はどうせ今日泊めて、といい始めるのに違いないのだ。かといって、恋人がいると言っても、どこかから聞きつけた俺の失恋情報片手に「嘘をついたお詫びで俺を泊めろ」といい始める。彼は昔から変わらず、非常に厄介な先輩なのだ。しかも、この美貌である。翔くんに出会ってから知ったが、どうやら俺はかなりの面食いらしい。この大きな瞳を細めてでろでろと頼まれると、どうにも断れなくなる性分をしている。俺のことを好ましく思っているから目を細めているわけでも、頬を染めているわけでもなく、その全ては酒のせいだとわかっていながら、許してしまうのだから始末に負えない。だからこそ、俺は翔くんが苦手だった。
「泊めないよ」
「まだそんなこと言ってないじゃん」
「言う予定だったんでしょう」
「なんでだめなの。女の子とか、これから来るの?」
「……来るわけないじゃん」
 年を取って失ったものはとても多い。けれども、手に入れたものもある。それが冷静さであり、物事をちょっと遠くから見つめる方法、俗にいう客観的視点というものだ。何も知らず、美しい年上の先輩に甘えられることへの喜びばかりを感じていた純粋な俺ではもういないはずだというのに、彼の前では手に入れたそれらがすべて意味を成さなくなる。だからこそ、彼からのラインは全部ミュートにしていたし、インスタもエックスも全部通知を切っているというのに、彼はこうして突然目の前に舞い降りてきてしまう。
「なら、」
「だれか来なかったら泊まっていいってわけじゃないよ。翔くん、着替えも歯ブラシもないんだし、まだ終電あるんだから、帰った方が良いって」
 煙草は、いつの間にか燃え尽きていた。口をつけようとして、その冷たさに初めて気が付く。
「どうして?彰は俺のこと嫌いなの」
「そういうことじゃないって」
 こうなると、ヘタな女たちよりもよほど彼の方が面倒だった。彼が吸殻をベランダの床に投げつける。
「いいじゃん、俺だって住んでたところなんだし、明日の朝には帰るから!彰は何、いまから俺に駅までダッシュしろって言うの?こんなに寒いのに。」
「そういうつもりじゃなくて」
「じゃあ何?どういうつもりか説明してみろよ。」
 怒りで白目が赤く染まって、翔くんはすごく綺麗な目をしていた。寒さと怒りで潤んだ黒目が、東京の端っこの少ない光を拾って光っている。
「女の子じゃないんだし、一晩くらい許せよ、なぁ、彰。着替えだって彰のを借りたらいいし、歯磨きだって一日くらいしなくて死ぬわけじゃない。何がそんなにいやなわけ」
 女の子じゃないんだから、というなら、どうして最初に恋人がいるのか確認したんだよ、とか、逆にどうしてそんなに俺の家に泊まりたいわけ、とか、言いたいことはたくさんあった。けれども、それを言うと潤んだ翔くんの目は決壊を迎えるだろう。決壊を迎えたら面倒くさいな、という気持ちと、どうせ決壊したら泊めることになるな、という計算と、それからこんなにきれいなひとを泣かせるのは良くないよな、という本心が俺の中で混ざる。挙句、一回泊めたらきっとこの人はまた俺のテリトリーを犯してくるんだから、という理性に押し勝ってしまった。
 十分に長すぎるため息をついてから、「じゃあ」と言ってみる。翔くんは、潤んだ瞳で俺を睨む。脱色しっぱなしの痛んだ金髪がさらりと揺れて、彼の睫毛にかかる。馬鹿みたいな光景だと思った。大昔にさっちゃんに見せてもらった少女漫画の男でも、ここまで睫毛が長かったことはない。
「今日だけね。すごい寒いし、これから雪が降るかもしれないらしいから。電車止まっても大変だし、タクシーで事故っても怖いし」
「やった!やっぱり彰は優しいね」
 翔くんは、ずび、と鼻を啜る。もういい年なんだからそんな仕草は似合わないはずなのに、なんだかすごくあどけなく見えてやっぱり俺は少しだけ幸せな気持ちになった。それから、いそいそと室内に戻る翔くんの背中を見送りつつ、彼の投げ捨てた煙草の吸殻を拾う。彼のこういうところが、大嫌いだ。
 次の日目覚めると、当たり前のように翔くんの姿はなかった。リビングに俺の手帳から勝手に破ったらしい紙切れが一枚残されていて、俺は少し腹を立てる。手帳から破ったということは、俺の鞄を勝手に漁って手帳を出してきたんだろう。そういうことを何の躊躇いもなくやっていいと思っている彼が嫌いだ。完全に舐められている。十も年下だから、当たり前なのかもしれないが。
『彰へ。よく寝ていたので、置手紙でごめんね。約束通り、先に出ます。夕飯ありがと!適当に洗いものしたのと、勝手に朝ご飯作ったよ。冷蔵庫にあるから、良かったら食べてね』
 心から、彼が嫌いだと思う。勝手気ままに好き勝手やってこちらを振り回しておいて、それでも嫌いきる前にこうしてポイントを稼いでいく。それでまたこちらは絆されて、また振り回されるのだ。ひどい話である。いい加減に、彼の呪縛から逃れたかった。
「約束通りっていうなら、鍵置いてけよな…」
 それでも、冷蔵庫の中の朝飯に罪はない。無駄にこだわり屋の彼の作った飯は、ツナトーストと簡単なサラダだった。うちの冷蔵庫にろくなものは入っていないので凝った料理を作り損ねただろうが、それでもサラダはなんだかよくわからない高そうなスパイスの味がして、十分に旨かった。

「あ、おかえり彰~遅いよ。ね、早く開けて」
 けれども、というかやっぱりというか、翔くん作の朝ご飯を食ったまさにその日、帰宅すると玄関の前には翔くんがいた。捨て猫よろしく、俺の家の玄関の前で座り込んでいる。
「どうしたの。ていうか合鍵あるんだから入ってたらよかったのに」
 諦め交じりで呟くと、良かったの?と翔くんが笑った。阿保らしい。道化とは俺のことである。
「今さら何言ってんの。」
 翔くんの手首を握って立たせようとすると、それは十分すぎるほど冷えていた。一体どれだけの時間、ここで待っていたんだろうか。ご近所の人に変な目で見られたりしなかっただろうか。俺はもう大人だから、翔くんが体を冷やして待っていたくらいで絆されたりなんかしないのに。
「もう夕飯は食べた?」
「まだ。彰は?」
「俺もまだ。簡単に作るから、座ってて」
「やったぁ、何作ってくれんの。鍋?ラーメン?」
 俺より少しばかり背の高い彼は、俺を覗き込むように訊いてくる。良い匂いがした。どうせまた高い香水をつけているんだろう。女ものなんだろうなということだけ当たりをつけた。
「よくわかってんね、鍋鍋。俺には翔くんほど大したもん作れないから」
「そんなこと言わないでよ、俺が教えたパスタとか作れるじゃん」
「もうそんな昔のレシピ忘れちゃったよ」
 買い込んできた食材を冷蔵庫に入れながら、できるだけさりげなく聞こえるように嘘をついた。何年も前に教えられたレシピを未だに覚えているなんて、ダサい。よっぽど未練があるように聞こえるだろうと思った。翔くんが俺の作れる料理を当時のまま、鍋とラーメンしかないっていまだに思っていても、未練があるなんてまるで思わないのに、ずるい話だと思う。
「はぁ?仕方ねぇ奴だな。だったらもう一回教えてやるよ、卵ある?生クリームは?」
「そんなもんあるわけないでしょ。今日は鍋。」
「じゃあ明日教えてあげる」
「明日も来る気なの」
 勘弁してくれ、と言わんばかりの俺の心の中でのため息が、声にうっかり漏れ出した。慌ててテレビの前のソファに座ってザッピングを繰り返す翔くんを見たけれども、その横顔に動揺はない。歌うようにごめんごめん、嘘、と彼は言う。
「流石にいい加減帰りなよ、どうして帰りたくないの」
「うーん。理由とかないよ。彰と一緒にいたくて」
「流石に騙されないって。今度は何?別れた恋人が居座ってる?飲み屋で絡んできたヤンキーがまたマンションを張ってるとか?それとも、」
「そんなんじゃないってば!俺もいい年ですから。」
 翔くんは、常にどこに行ってもトラブルメイカーである。美しいせいだね、と彼は嘯いているが、それだけではないことを彼自身も、彼の周りにいる人もみんなが分かっているはずだ。彼の傍若無人な態度と世の中の人を舐め腐った態度、その上ダメ押しのような美しさのせいで、彼の傍にいるとみんな気がおかしくなる。彼に腹が立って仕方がなくて、それでも許してもらえるだろうという彼の態度に誰もが限界まで神経を絞られる。特に同業者には彼の態度は突き刺さる。抜き身のナイフの様に、「そんな程度の努力もできないの」と才能をひけらかす彼は、いつか刺されてもおかしくないだろう。俺だって、彼に暴力をいつか何かの拍子でふるってしまいかねないような危うさを自分の中に感じている。だからこそ、俺の領域を安全かのように信じて彼が土足で歩き回ることを、恐れているのだ。
「いい年だからなんだっての」
「流石に顔もしわくちゃだからね。…女の子がどうこうとか、男につけられてどうこうとか、そんなことは、もうないよ」
 手元で切っていた豆腐から目線を上げると、翔くんはソファの上で三角座りを決め込んでいる。足が長すぎて、下を向いた額にくっつく膝がいっそ嫌味だ。
 そんなに恵まれた体格をしていて、馬鹿みたいに美しいくせに、翔くんは、ナンパされたり尾けられたりしなくなった自分に、自信を無くしているらしい。馬鹿だな、と思った。いつまでもこの人はこどもみたいだ。自分の美しさでおかしくなる人間の数でしか、自分の価値を実感できないなんて、十代の女の子だってもう少し賢いはずだ。
「…馬鹿だなぁ」
「は?」
 思わず言ってしまった本心に、翔くんの鋭い視線が突き刺さる。おでこの辺りに痛いような視線を感じながらも、俺は切り終えた豆腐を横にどけて、椎茸を切ることに集中しているふりをした。
「尾けられたり、ナンパされなくなって、良かったじゃん。俺は翔くんが安全になったならそれで嬉しいけど、だめなの?」
「だめじゃないけど…」
 だめじゃないけど、なんなのか。俺なんかが、絶世の美人で感覚派の先輩俳優が美貌の衰えで悩むことに対してかけられる言葉なんか持っているわけがなかった。
「ねえ、そんな下らないこと言ってる暇があるなら、翔くん手伝ってくんない?どうせ今日も翔くん来るだろうと思ってデカい魚買ったからさぁ。」
「…え?魚?鯛とか?」
「馬鹿いっちゃだめだわ。そんな高いモン買えるわけないでしょ」
 俺の軽口に載せられたふりをして、翔くんがひょこひょことキッチンにやってくる。そしてキッチンテーブルを覗き込んだ彼は、これ見よがしに残念そうな声で「たら~?」と文句を垂れた。自分に出す以上はもっと良質な魚を出せとでも言いたいのか。
「我慢しなさいよ、これ俺の金で買ってんだから」
「う~ん、それもそうか。分かったってば、怒んないで」
 翔くんは薄いセーターを捲りながら、フロアキャビネットの中をごそごそと漁る。「包丁あっちだよ」と教えてやりながら、そのあまりにもなじみのある光景にやっぱりちょっと幸せになる。こんな幸せを俺にくれるのは、同居していた時代から変わらない。いちいち腹が立つような言動を彼がしていたのも全く変わってはいないが、それも許しながら生活していたはずだった。それなのに、どうしてこの人は俺の家から出ていったんだったっけ。

 たしか、俺がデビューした作品の後日談の映画をやるとなって、その稽古の最中から、彼はこの家に転がり込んできたはずだった。狭いだとか、ものが多いだとか、俺が背伸びして買ったインテリアをオシャレすぎて恥ずかしいだとか弄りながらも、彼は俺の家に居ついた。今となっては物置になっている狭い部屋に、彼は簡単な折り畳み式マットレスを持ち込んで眠っていた。彼のことは好ましく思っていたが、だからといってキスをしてやろうだとか、セックスをさせてくれというつもりもなかった。美しいひとだったし、そうなったら素敵だろうと思うことがなかったと言えば嘘になるが、妄想の範囲内だった。なんというか、神格化していたんだろうと思う。彼が彼のやりたいように、いてくれたらいいと思っていた。その頃には俺が彼にとっての安全圏になっているのも薄々感づいていて、ちょっとした性欲の波なんかに負けて彼を損なうのは、なんだか懐いてきたいたいけな子猫の毛皮をはがすような、すごくひどいことのようにも思っていた。
 ところかまわず煙草を吸い、密閉できない灰皿に煙草の灰を捨てまくる彼に、うんざりしていなかったと言えば嘘になる。仕事から帰ってきたら、家じゅうすごい煙のにおいがして、火元を探したら彼の寝煙草だった時には流石に叩き出してやろうかとも思った。けれども、彼は家賃の半額を収めてくれていたし、俺のひとり暮らしでは到底食卓に並びそうもないおしゃれな料理をたまに披露してくれた。アクアパッツァが家で作れるのだということを俺に教えてくれたのは、他でもない翔くんである。
 服のサイズもほとんど同じで、俺が翔くんの服を借りたり、翔くんが俺の服を着たりもした。休みの日には、お互いの髪をセットして遊んだり、真剣にお互いの写真を撮ったりもした。未だに物置を引っくり返せば、当時のポラロイドカメラから焼いた写真が発掘できるだろう。
 俺が出張の日には、俺の飼っている魚に翔くんが餌をやってくれていたし、観葉植物にも水をあげてくれた。思い返せば家事の大半は俺がやっていたような気もするけれど、家で真剣に台詞合わせをする彼の相手役をしながら、俺はかなり幸せだった。こんなにきれいで自由な人が、俺の家に「ただいま」と当たり前のような顔をして帰ってくることに、毎日感動していたと言ってもいい。
 それなのに、ある日突然、翔くんはいなくなったのだ。
 部屋の中で煙草を吸った後は窓を開けろ、と口うるさく言い倒したせいか、その日は起きるとリビングの窓が開いていて、馬鹿みたいに寒かったのを覚えている。その頃には翔くんの担当になっていた朝ご飯が俺の分だけ用意されていて、そのお盆に挟み込むように、「お世話になりました」というメモが風に震えていた。いやな予感がするどころではなく、翔くんの部屋の扉を初めて勝手に開けると、もう折り畳みマットの姿はなく、洗面台にも彼のお気に入りの香水瓶はなくなっていた。泣きそうになりながら翔くんにラインして、すぐさま帰ってきた「俺新しく部屋借りたんだよね」という簡素な返信に抱いた感情には、いまだに名前を付けられていない。

「ねぇ~ちょっと、大根刻みすぎじゃね?もうそれどうすんの、大根おろしにしてはでかいし鍋の具材には細かすぎるよ」
 耳元からそんな声が聞こえて、はっとする。慌てて振り返ると、げらげら笑いながら翔くんが離れていった。手元を見ると、翔くんが言う通りの有様の大根が見るも無残に倒れている。
「ちょっと考え事してた。良いじゃん、試しに鍋に入れよう」
「いいけど、辛くなったら彰の責任だからね」
「分かったってば」
 そんなことをされた癖に、なぜか今また俺は彼の横にいる。なんなら翔くんが勝手に見つけてきたらしい土鍋から出汁の匂いが柔らかく立ち上っていて、光景だけでいえばリビングは十分幸せな家庭の様相を呈している。意味が分からない。自分で壊しておいて、どうして俺の家にまた転がり込んでこんなことをしているのか、本当に訳が分からなかった。さっちゃんの言う通り、東京には「きれいなわっるいひと」が至極当たり前の顔をして、生息している。