歌舞伎町残影ポリ

 最初に言い出したのはカイだった。

「ねえ、これ、壊れてない?」

 マットレスに座ったまま、エアコンのリモコンを天井へ向ける。
 ピッ、と気の抜けた音がして、送風口がゆっくり開く。
 でも、出てきた風はぬるかった。
 ソファに座って缶を開けていたユウキが、顔も上げずに「昨日から変だった」と言う。

「昨日から?」
「うん」
「言ってよ」
「今日も動いてるから、まだいけるかと思った」

 カイはエアコンを見上げたまま、信じられないみたいに笑った。

「いや、無理でしょ。ぜんぜん冷えてないじゃん」
「今日あちいしな」
「今日とかじゃなくて、部屋がずっとあったかい」

 その言い方は、少しだけ変だった。
 暑い、じゃなくて、あったかい。

 熱が抜けきらないみたいに、部屋の奥にぬるさが残っている。
 夜になっても、冷えない。
 窓際のレースカーテンがわずかに揺れていた。
 外の風が入ってきているはずなのに、空気は動いていないみたいだった。
 ユウキは缶を丸テーブルに置いて、ようやくスマホを手に取る。

「修理呼ぶか」
「今日なおせるやつ?」
「無理。明日の昼」
「昼か……」
「おまえいるだろ」
「いるけど」

 カイはそこで一度、部屋の中を見渡した。

 ソファの横に積まれたビーズクッション。丸いローテーブル。窓際のマットレス。
 棚のキーホルダー、出窓のぬいぐるみ。
 マットレス横のワードロープ。半透明のケース。
 折りたたんだタオル。服。端に押し込まれた小物。

 いつもの部屋だった。

 見慣れたはずの、自分たちの部屋。
 でも、他人が入る前提で見ると、その全部が少しずつ落ち着かなかった。

「……やばいかも」

 カイが言う。

「なにが」
「人来るの」

 ユウキが顔を上げる。

「別に」
「別にじゃないって」

 カイの視線の先を追って、ユウキもワードロープの方を見る。
 服が見える。タオルが見える。透明ケースの輪郭が見える。
 その一番下の段に、タオルを雑にかけたボックスがある。
 隠しているつもりなのに、あまり隠れていない。

「……あー」ユウキが小さく言う。
「でしょ」

 カイは立ち上がって、そのままワードロープの前まで行った。
 タオルの端を引っ張って、もう少しだけ中が見えないように掛け直す。
 でも、そうするとそこだけ妙に整って見えた。

 隠している、というより、
 隠しました、みたいな顔になる。

 カイは少しだけ迷ってから、
 端をまた雑に崩した。
 その方がまだ、この部屋には馴染んだ。

 中には、細かい私物がまとめて突っ込まれていた。

 小さな鏡。ピルケース。使いかけのハンドクリーム。リップ。ヘアピン。
 使わなくなった充電コード。細いポーチ。
 その奥に、シリコンっぽい質感のものが少しだけ覗いている。
 何なのか、わかる人にはわかる。
 でも、ぱっと見ではただの生活用品にも見えるくらいの曖昧さだった。

 カイはそこを見て、一瞬だけ手を止めた。
 捨てる理由はいくらでもあったはずなのに、捨てるきっかけだけがなかった。
 使う予定なんて、もちろんない。
 この先もたぶん、ない。
 なのに、そこにある。

「これ、どっかにやる?」カイが言う。
「どこに」
「浴室とか」
「別にそこまでしなくてよくない」
「よくなくない?」

 ユウキは返事をしないまま、マットレスからワードロープを一度だけ眺める。
 服の色味。タオルのかけ方。透明ケースの中身。見えるものと、見えないもの。
 全部が、生活の途中みたいな顔をしていた。

「……見えたら嫌か」ユウキが言う。
「嫌っていうか」カイは言い淀む。
「なんか、説明できないじゃん」

 その言葉に、ユウキは少しだけ黙った。

 説明できない。
 たしかにそうだった。
 この部屋には、説明できないものが多すぎた。
 女のいない部屋なのに、女の生活の名残がある。
 男二人の部屋なのに、可愛いものが妙に多い。
 使わないものが、使うみたいに置いてある。
 整理されていないわけじゃない。
 むしろ、一度はまとめた痕跡がある。

 でも、その先へ進めなかった。

「とりあえず、箱だけどかすか」ユウキが言う。
「うん」

 カイがケースを持ち上げる。
 思ったより重かった。
 中で小物が触れ合って、かちゃ、と乾いた音がする。
 ずっとそこにあった温度を無理やり引き剥がすような感触に、カイは胸の奥がざわついて目を逸らした。

「浴室?」
「うん」
「……なんか、最悪だ」
「わかる」

 ケースを一時的に浴室へ避難させる。
 それだけでワードロープの一角が急に軽くなって、逆にそこに何かがあった跡だけが浮いた。
 タオルを外した棚板の上に、四角く日焼けしていない部分が残っている。

 ユウキがそれを見て、何も言わずに視線を逸らした。

 そのあと二人がやったのは、
 丸テーブルの上を一度空にして、窓辺の酒瓶と灰皿を端に寄せて、床に落ちていたライターを拾って、ソファにかけっぱなしだったシャツを片づけることくらいだった。

 でも、部屋はあまり片づいたように見えなかった。
 生活感が消えたというより、生活感の置き場所が少しずれただけだった。

 翌日の昼前、チャイムが鳴った時、カイはもう起きていた。
 ユウキはマットレスの上でまだ半分寝ている。
 シーツに脚を絡めたまま、まぶしそうに片目だけ開けた。

「来た」カイが言う。
「ん……」

 返事とも寝言ともつかない声を背中に聞きながら、玄関へ向かう。

「はい」

 扉を開けると、作業着姿の男が一人立っていた。
 工具箱を持っていて、日に焼けた腕に汗が光っている。

「エアコン修理でお伺いしましたー」

 やけに普通の声だった。

 カイは「どうぞ」と言って、少しだけ体をずらす。
 その瞬間、部屋の中へ他人が入ってくること自体が、妙に不自然な気がした。
 業者の男は靴を脱いで、いつものような動作で部屋を見た。

 ただ確認するための目。
 広さ。位置。動線。
 でもその視線が部屋の中を一度なぞるだけで、カイはなんとなく落ち着かなくなる。

 グレーのソファ。壁のネオン。窓際のマットレス。レースカーテン。冷蔵庫。ワードロープ。
 全部が、見えてしまう。

「こっちです」カイがエアコンの下を指す。
「あー、ありがとうございます」
 業者は脚立を広げながら、「今日はきついっすね」と笑った。
「ほんとに」カイも曖昧に笑う。

 そのあいだに、ユウキがマットレスの上でゆっくり起き上がった。
 寝癖のついたまま、無言でこちらを見る。

「失礼しますー」業者は軽く頭を下げる。
「……どうも」ユウキが低い声で返す。

 業者はそれ以上気にせず、脚立に上った。
 送風口を開ける。フィルターを外す。中を覗く。

「あー、これ結構詰まってますね」

 上を向いたままの声が落ちてくる。
 カイはその返事をしながら、なぜか業者の視線の行き先ばかり気になっていた。
 脚立の位置からだと、ちょうどワードロープ全体が丸見えになる。
 服の並び。棚の段。タオル。箱をどかした跡。
 昨日よりはマシなはずだった。

 でも、完璧ではない。

 出窓の端には別の半透明ケースがまだ置いてある。
 蓋がついててその中に何が入っているのかまでは見えない。
 ただ、見えないようにしまってあるものが、ここにはあるとだけ伝わる感じだった。

 業者が脚立の上で少しだけ体をずらした拍子に、出窓の端のケースに当たった。
 蓋がずれて小さなポーチの角が見えた。
 くすんだピンク色。
 それだけなら、たぶん何でもない。
 でも、その隣にある細いコードみたいなものが一瞬だけ覗いて、カイの喉がきゅっと縮む。

 見えた気がした。

 でも、その程度だった。
 今ここで手を伸ばす方が、よほどはっきりしてしまう。

 カイは動けないまま、
 その一瞬だけをずっと見ていた。

「フィルター汚れですね。あと中も埃たまってるんで、掃除したらだいぶ違うと思います」

 業者の声は平坦だった。
 何も見ていないみたいに、普通の調子で喋る。
 それが逆に嫌だった。本当に気づいていないのか、気づいた上で「客」として流しているのか、それすらわからない。

「空気、こもりやすいっすか?」業者が聞くでもなく言う。
「……そうですね。家具の位置的に、ちょっと熱溜まりやすいかもです」

 カイが曖昧に返したその言葉を、ユウキはマットレスの上で聞いていた。

 家具の位置。

 その響きに誘われるように、ユウキはマットレスの上から部屋を見渡した。

 最初からそうだったわけじゃない。その方が都合がよくて、そうなっていっただけだ。

 でも今、それを他人の口から指摘されると、少しだけ息が詰まる。

「この部屋、遮るものがないから風通し自体は悪くないはずなんですけどね」業者が、背を向けたまま続けた。​「これだけ見通しがいいと」

 その一言に、カイは妙に反応してしまいそうになる。

 見通しがいい。
 たしかにそうだった。

 この部屋には、死角がほとんどない。

 薄いレースカーテン越しに窓辺の端まで見えるし、ソファからマットレスの凹みも見える。キッチンに立っていても、ワードロープの中まで視線が届く。

 隠れようと思えば隠れられなくもないけど、本気で何かを隠すには向いていない部屋だった。

 そういう部屋に、ずっと住んでいた。

 業者はそれ以上何も言わず、淡々と作業を続けた。
 カバーを外して、埃を拭いて、フィルターを戻して、ネジを締める。
 そのあいだずっと、カイは出窓の端ばかり見ていた。
 ユウキはマットレスの上で黙ったまま、業者の背中を見ている。

 何も起きない時間だった。
 何も起きないのに、妙に長かった。

「これでだいぶ冷えると思います」業者が脚立を降りながら言う。
「一回つけてみますね」リモコンのボタンが押される。

 数秒遅れて、今度はちゃんと冷たい風が出てきた。
「あ、全然ちがう」カイが言う。
「よかったです」
 それだけだった。

 会計を済ませて、業者はあっさり帰っていった。
 最後まで、何も聞かなかった。
 何も言わなかった。

 扉が閉まる。
 廊下の足音が遠ざかる。

 それを聞き届けてから、カイはようやく息を吐いた。

「……最悪」
「うん」ユウキが言う。
「見たかな」
「見たかも」
「だよね」
「でも、別に」

 別に、の続きはなかった。
 別に何だというのか、自分でもわからないみたいだった。
 エアコンの冷たい風が、レースカーテンを少しだけ揺らす。
 さっきまでこもっていた熱が、ようやくゆっくり抜けていく。

 なのに、部屋の奥の方だけ、まだ何かが残っている感じがした。
 カイはしばらくその場に立っていたけれど、やがて無言で浴室へ向かった。
 戻ってきた手には、昨日避難させた白いケースがある。
 ユウキがそれを見て、マットレスの上から言う。

「戻すんだ」

 カイは少しだけ肩をすくめた。

「……うん」
「なんで」
「ない方が変だった」

 その返事に、ユウキは何も言わなかった。

 カイはケースを元の段へ戻して、上からタオルを雑に掛ける。少しだけ端が浮く。中身が完全には隠れない。
 でも、その半端さの方が、この部屋にはちゃんと馴染んだ。

 ついでみたいに、窓辺へ寄せていた灰皿も元に戻す。酒瓶も戻す。丸テーブルの上に、鍵とライターも戻る。
 片づけたはずのものが、ひとつずつ、いつもの場所へ帰っていく。

 そのたびに、部屋の輪郭が落ち着いていく。

 さっきまでここにいた他人の方が、
 一時的に紛れ込んだ異物だったみたいに思えた。
 こっちの方が、ずっと自然だった。
 そのはずなのに。

「……なんか」カイが、小さく言う。
「見られたっていうより」

 そこで一度、言葉が止まる。

「自分で見ちゃった感じする」

 ユウキはマットレスの端に座ったまま、しばらく黙っていた。
 エアコンの音だけが静かに回っている。
 冷たい風が、部屋の中を均一に撫でていく。
 それでも、視線だけはどこにも散らなかった。

 ワードロープ。タオルのかかったケース。見える収納。戻された物。
 この部屋は、最初から何も隠せていなかったのかもしれない。

「……冷えたね」カイが言う。
「うん」
「やっと息できる」

 そう言って、カイはソファへ腰を下ろした。
 ユウキはエアコンの下を見上げる。
 さっきまで人が立っていた場所には、もう誰もいない。

 でも、見られた感じだけが、まだ薄く残っていた。

 冷たい風の回る部屋で、そこだけが、いつまでも少しぬるかった。


(第9話「ない方が変」おわり)