歌舞伎町残影ポリ

 カイがその棚に触ることは、ほとんどなかった。

 洗い終わったグラスを戻す時も、
 思い付きで買った変なマグカップを無理やり押し込む時も、
 右奥の一角だけは、なんとなく避けていた。

 そういうのは、べつに珍しいことでもない。
 二人暮らしなのに、使わない場所がひとつくらいあっても……。

 実際、ユウキくんもそこには何も入れなかった。
 触れないまま、気づけば何ヶ月も経っていた。

 レンくんの場所だったから。

 そう言えば済む話だったし、
 ずっとそう思っていた。

 でも本当は、そんな綺麗な話じゃない。

 カイは食器棚の前にしゃがみこんだまま、
 空いた一角をじっと見つめた。

 そこには何もない。
 何も置いていない。
 白い板が見えているだけなのに、そこだけ空気が違う気がする。

 そこから何かが出てくるところを、何度も見た。
 見たくなかったのに、見ていた。

 カイは唇を噛んで、ゆっくりと立ち上がった。
 でもそのまま扉を閉められず、指先だけが棚の縁に残る。

 あの夜も、たしかこの辺に立っていた。
 出かける前だったと思う。

 部屋の中には、いつもの甘い匂いと、ヘアアイロンの熱と、酒の残り香が混ざっていた。

 MIUはベッドの端に座っていた。
 黒いミニワンピの肩紐が、片方だけ少し落ちかけていて、
 巻いた髪の先が胸元に散っていた。

 かわいかった。
 ほんとうに、いつも通りにかわいかった。

 だから一瞬、安心しかけた。
 今日もこのまま外に出られる、って。

 でも、近くで見ると、ちょっとだめだった。

 頬のあたりが少しこけていて、
 目の下にうっすら影があって、
 笑う時だけ口元が上がるのに、目が追いついてこない。
 さっきまで、しんどいって言ってたくせに。

「これ、変じゃない?」

 MIUがワンピースの裾を摘んで、ベッドの上で少しだけ首を傾げる。
 声は甘くて、いつも通りで、でも少しだけ力がなかった。

「全然かわいい」

 カイはすぐにそう言って、近づいた。
 しゃがみこんで、落ちかけていた肩紐を指で直す。
 細い肩に触れた瞬間、ぞっとするくらい体が冷たかった。

「今日ちょっと顔薄いかも。チーク足す?」
「んー……まかせる」

 その返事が妙に遅くて、カイは一瞬だけ手を止めた。
 ほんとはその時点で、やめた方がよかった。
 出かけるのも、酒を飲むのも、何もかも。
 ベッドに寝かせて、今日はもう無理、って全員に言えばよかった。

 でも言えなかった。

 鏡越しに見たMIUが、あまりにもいつものMIUに近かったから。
 あと少し整えれば、今日もちゃんと戻れる気がした。
 今日だけは大丈夫だと思いたかった。

 カイが頬に指先で色を足しているあいだ、
 背後で食器棚の扉が開く音がした。

 かた、と乾いた音。

 鏡越しに、レンが見えた。
 何も言わずに、いつもの顔で棚の前に立っている。
 食器を取るふりみたいに自然な動きで、棚の奥に手を入れる。

 その仕草を、カイは何度も見ていた。
 見慣れてしまっていた、と言った方が近いかもしれない。

 だから、見ないふりも上手くなっていた。

「カイくん、今日の髪かわいい。ありがと」

 鏡の中で、MIUがぼんやり笑う。

「でしょ。まじで似合ってる」

 カイはそう返しながら、ブラシを持つ手に少しだけ力を込めた。
 レンの手元を見ないように、前髪の毛先だけに集中する。

 ほんとは、わかっていた。
 MIUがしんどい時ほど、レンがあそこを触ること。
 そのあとだけ、少し目の奥に光が戻ること。

 それを“元気”って呼んでいいわけじゃないことも。

 なのに、何も言わなかった。
 言えば、この時間が終わる気がしたから。

 四人で出かける夜が。
 ベッドの上で笑ってるMIUが。
「かわいいね」って言えば、少しだけ機嫌が戻る、その感じが。

 全部。

 レンが後ろを通って、ベッドのそばに腰を下ろす気配がした。
 カイはそのまま、ワードロープの前に立ち尽くした。
 鏡の中でしか、二人を見なかった。

 見ないふりをしたままでも、わかることがある。
 MIUの肩が、わずかに揺れること。
 レンの声が、やけに優しいこと。
 部屋の空気が、少しずつ別のものに変わっていくこと。

 それでもカイは、振り返らなかった。
 棚の上に転がっていたヘアオイルの蓋を閉めて、
 使いかけのチークをポーチに戻して、
 何本もあるブラシの並びを、意味もなく揃えた。

 さっきまで自分が使っていたやつの毛先だけ、
 指で何度も整えていた。

 喉の奥がじわじわ熱くなって、吐きそうだった。

 ――やめさせなきゃ。

 そう思っていた。

 ――でも、今じゃない。

 とも思っていた。

 その二つの間で立ち尽くしたまま、
 結局、何もしなかった。

 ベッドの方から、MIUのかすれた笑い声が一瞬だけ聞こえて、
 カイは目を閉じた。
 ごめん、と思った。
 見て見ぬふりして、ごめん。
 止めないで、ごめん。

 それでも今日のMIUちゃん、かわいいなって思ってしまって、ごめん。

 心の中で何度もそう言ったのに、
 口から出たのは、結局どうでもいい言葉だった。

「……ユウキくん、まだシャワー?」

 それだけだった。
 返事は聞こえなかった。

 代わりに、食器棚の扉が閉まる小さな音だけが、やけに耳に残った。

 かた、と。

 あの音を聞いた瞬間、
 カイは自分が今、見ないまま一線を越えたことを、たぶんちゃんとわかっていた。
 それでも、その夜は何事もなかったみたいに四人で外へ出た。

 歌舞伎町のネオンの下で、
 MIUはちゃんと笑って、
 レンはいつも通りかっこつけて、
 ユウキは面倒くさそうに世話を焼いて、
 カイはその全部を、綺麗だと思ってしまった。

 ――だから今でも、あそこが見られない。

「……っ」

 喉の奥が詰まって、カイは慌てて食器棚の扉を閉めた。

 少し強く閉めすぎて、ガタン、と棚が揺れる。
 その音に、自分でびくっと肩を跳ねさせた。

 何も入っていないはずの右奥の一角が、
 まだそこにあるだけで、息が浅くなる。

 そこにはもう、何も残っていないはずだった。
 何度見ても、白い板が見えているだけなのに。

 それでもたまに、扉の向こうにまだ空気が残っている気がした。

 あの夜の、かた、という小さな音ごと。

 息を止めないと、見られなかった。


(第7話「みないふり」おわり)