歌舞伎町残影ポリ

 朝の光が、出窓にかかったレースのカーテン越しに薄く滲んでいた。
 夜のネオンの色を少しだけ残したまま、部屋の輪郭がゆっくり白んでいく。

 ユウキはシンクの前に立っていた。
 昨夜のグラスを、水で軽くすすぐ。
 まだ酒の匂いが少し残っている。
 スポンジを滑らせて、泡立てて、すすいで、伏せる。

 その流れはもう、いちいち数えるまでもなかった。

 気づけば、タオルの上に四つ並んでいた。
 ユウキは少しだけ手を止める。
 形も高さも少しずつ違う。

 カイは細長いやつを使いたがるし、
 自分はなんでもいい。
 MIUは口当たりの軽い小さいグラスを好んで、
 レンは無骨な厚いタンブラーばかり選んだ。
 今さら説明する必要もないくらい、
 それぞれの“いつもの”が、まだそこに残っていた。

 やがてユウキは、一つずつ拭いて食器棚を開ける。
 いつもの場所へ戻していく。
 カイの細長いグラス。
 自分のやつ。
 MIUの小さいやつ。
 最後にレンの分厚いタンブラーを持ち上げたところで、
 指が少しだけ止まった。

 棚の一番端。

 そこだけ、ぽっかり空いている。

 レンの場所だった。

 ほかのところは少しずつ詰めて使っているのに、
 そこだけはなぜか、ずっと空いたままだった。

 ユウキは少しだけ迷ってから、
 その手前にタンブラーを置いた。

 棚板の端に積もった埃が、
 朝の光の中で白く浮いていた。

 食器棚を閉める。
 その途中で、視線がワードロープに引っかかった。

 黒レースのミニワンピースが、
 細いハンガーにかかったまま揺れている。
 洗って干したあと、
 そのままになっていた。
 半年以上、そこにある。

 ユウキは一度も、それを片づけようとしなかった。

 片づける理由も、
 片づけない理由も、
 特になかった。

 ただ、そこにあるのが自然だった。

 あれがあると、部屋のどこか一角だけ、
 まだ女がいる空気になる。

 ない方が変だと思うくらい、
 今の二人は、まだ二人暮らしに慣れていなかった。

 部屋の奥で、布団が擦れる音がした。

 カイがマットレスの上で、
 顔だけ出してぼんやりこっちを見ている。
 虹色の髪が寝癖で跳ねていた。

 片目だけ半分開いていて、
 まだ人間として起ききっていない顔をしている。

「……何時」
「九時前」
「終わった」
「休みだろ」
「あ、そっか」

 カイがまた目を閉じる。
 そのまま三秒くらい黙ってから、また薄く目を開けた。

「みず」

 ユウキは何も言わず、冷蔵庫を開ける。

 ペットボトルを一本投げると、
 カイは寝転んだまま片手で受け取った。

「ナイスキャッチ」
「寝起きだけ反射神経いいな」
「生きる気力が水分にだけ向く時間あるじゃん」
「知らん」

 カイがキャップを開けて、
 喉を鳴らして少し飲む。

 その飲み方を見ながら、
 ユウキは上の棚からマグカップを取り出した。

 一つ。
 二つ。

 そこで、もう一つに手が伸びかけて止まる。
 指先が、カップの縁に触れたまま静かに止まっていた。
 レンが使っていた、少し重い黒いマグ。
 MIUの白い小さいやつ。
 カイの謎に口が広いやつ。
 自分のは、端が少し欠けている。

 全部まだある。
 一つも捨てていない。

 少ししてから、ユウキは棚を閉めた。

 湯を沸かす。
 カップの中にコーヒーを落とす。
 お湯を注ぐと、部屋の中に少しずつ苦い匂いが広がっていく。

 その匂いに引かれるみたいに、
 カイがのそのそと起き上がって、
 マットレスの縁に足を下ろす。

 クイーンサイズのマットレスは、男二人で寝るには近すぎるのに、今さら別に狭いとも思わない。

 元はもっと大きかったはずの生活を、
 中途半端に縮めたまま使っている感じがした。

「さむ」
「クーラー切れば」
「気分の問題」
「便利だな、それ」

 ユウキはマグカップを二つ持って、
 その後ろへ行った。

 出窓は、ちょうど肘を置くのにいい高さだった。
 カーテンの隙間から、朝の歌舞伎町が少しだけ見える。

 前の部屋にはベランダがあったけど、
 この部屋ではなんとなく、ここがその代わりになっていた。

 四人で使うには狭い。
 二人で使うには、ちょうどよすぎる。
 そのちょうどよさが、少しだけ寂しかった。

 カイがカップを受け取る。

「ありがと」

 一口飲んで、
 すぐに顔をしかめる。

「にが」
「砂糖入れてないからな」
「えー」

 そう言いながら、
 カイはそのままもう一口飲んだ。

「なんで飲むんだよ」
「朝の苦いの、なんか体にいい気がする」
「気がするだけだろ」
「でもわりと好き」

 その返事に、ユウキは少しだけ笑う。

 丸テーブルの真ん中には、
 レンのガラスの灰皿が置いたままになっている。
 朝なのに、そこだけ夜の続きを引きずっているみたいだった。

 カイがテーブルの手前に座って、
 少し潰した空き缶を灰皿代わりに引き寄せる。
 煙草に火をつける仕草が妙に手慣れていて、
 ユウキは少しだけそれを見ていた。

「その缶、また使ってんのか」
「レンくんの灰皿、朝から使うと怒られそうじゃん」
「怒られねえよ」
「いや、なんか嫌だろ」

 カイの指が、
 無意識みたいにガラスの縁を一度だけ撫でる。

 その場所は、
 レンがよく煙草を置いていた位置と同じだった。

 灰皿は使わないのに、
 置く位置だけは覚えている。
 そういうことが、この部屋には多すぎた。

 ソファの向きもそうだ。
 壁に背もたれをつけて置いてあって、
 その先にあるマットレスが視界に入るように、
 自然とそうなっている。

 誰かがベッドでだらけて、
 誰かがソファで煙草を吸って、
 誰かが床に座って喋って、
 その全部が一度に見える向き。

 今はもう二人しかいないのに、
 家具だけがまだ四人の視線で置かれていた。

 ソファの上の壁では、
 小さな『I♡歌舞伎町』のネオンが、まだぼんやり光っている。

 その下の細い棚には、
 UFOキャッチャーの景品や、
 安っぽいキーホルダーや、
 誰の趣味とも言い切れない小物が並んでいた。
 よくわからないキャラクター。
 小さいぬいぐるみ。
 どこで取ったかも思い出せない小さいマスコット。

「これ、誰が欲しがって取ったやつだっけ」

 カイが棚の方を見ながら言う。

「どれ」
「この変なネコ」

 ユウキが目をやる。

「……MIUだろ」
「まぁ、だよな。なんか“顔がかわいそう”とか言ってたやつか」
「それでレンが千円くらい溶かしてた」
「しかも取れなくて、最後ユウキくんが取ったやつ」
「よく覚えてんな」
「そういうのは覚えてる」

 棚の端には、アクリルのキーホルダーがいくつかぶら下がっている。
 そのうちのひとつに、MIUの名前が入っていた。

 誰ももう持ち歩かないのに、
 そこだけは、ずっとそのままだった。

 壁に貼った一枚の写真が、
 朝の光とネオンの残りを半分ずつ受けている。

 カイがそれを見上げて、小さく笑った。

「この日、MIUちゃん盛れてるな」
「いつもだろ」
「それはそう」

 少しだけ間が空く。

 それからカイが、
 何でもないみたいな声で言った。

「今日さ、なんか買ってこようか」
「何を」
「わさびのかきピー」

 ユウキは一瞬だけ黙って、
 それから鼻で笑った。

「期間限定、もう終わってる」
「あー……そっか」

 カイはそれ以上何も言わなかった。
 でも、その返事の仕方が、
 まるで今も誰かに買って帰るつもりみたいで、
 ユウキはそれを指摘しなかった。

 カイはたぶん、自分でも気づいていない。

「じゃあ別の辛いやつ探すか」
「なんでそんなに辛いの買うんだよ」
「レンくんが喜ぶから」

 言ってから、カイが少しだけ止まる。

 ほんの一瞬だけ、
 言葉が自分の口から出た意味を、
 遅れて理解したみたいな顔をした。

 でも、それもすぐに消える。

「……いや、違う、クセ」
「わかってる」

 ユウキはそれ以上、何も言わなかった。

 ただコーヒーを飲んで、
 同じように黙っていた。

 部屋の中には、
 まだ四人分の朝が残っていた。

 洗い物の数も、
 マグカップの選び方も、
 ソファの向きも、
 灰皿の置き場所も、
 服の残り方も、
 “誰に買って帰るか”の感覚も。

 誰もそれを片づけようとしないまま、
 今日もまた、普通に朝が来ていた。

 そしてたぶん、
 明日も同じように、
 二人は少しだけ四人のまま起きる。


(第6話「いまも残ってる」おわり)