その日も四人で酒を飲んで、MIUの言うまま行動した夜だった。
いつものように、コンビニで適当に缶とつまみを買って、部屋へ戻る。
部屋に入るなり、MIUは玄関でヒールを脱ぎ散らかして、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「風呂」
ユウキが言う。
「むり……」
シーツに顔を埋めたまま、くぐもった声が返る。
「化粧だけ落とせ」
レンが靴を蹴り寄せながら言うと、MIUは小さくうなって、片手だけ持ち上げた。
「ねえ、カイくん」
「んー?」
「まつげ取って」
カイが笑いながらベッドの脇にしゃがみ込む。
突っ伏したままのMIUの横顔を覗き込んで、器用にまつげの端を摘まんだ。
「今日のこれ、めっちゃ盛れてたのにもったいない」
「もういい……」
「せっかく可愛かったのに」
レンが冷蔵庫から水を一本出して、無言でベッド脇の棚に置く。
ユウキはその横にコンビニ袋を置いて、サラダチキンとゼリー飲料だけ取り出しておいた。
「食えそうならあとで食えよ」
「いらない……」
「明日しぬほど後悔するやつ」
「もう今日じゅうぶんしんでる……」
MIUの声に、カイが吹き出す。
ユウキも少しだけ笑って、ベッドの端に腰を下ろした。
部屋にはネオンの壁飾りと、窓の外の赤や青だけが、床やシーツにまだらに滲んでいる。
他に灯りはない。
窓にはレースのカーテンしかついていない。
遮光の厚いカーテンも一応買ったのに、結局ほとんど使われなかった。
閉め切ると中が見えなくなるから嫌だと、最初に言ったのは誰だったか、今となってはもう曖昧だった。
外からの光も、部屋の中の様子も、ベッドの位置も、ソファの向きも、ベランダの狭さも。
この部屋は、どこにいてもだいたい全部が見えた。
その方が都合がよかった。
「明日朝は絶対無理だから、風呂だけ」
ユウキがもう一度言うと、MIUはベッドの上で芋虫みたいに少しだけ身じろぎした。
「立てる?」カイが聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃわかんねえだろ」レンが言う。
その声に、MIUはしばらく黙ってから、ようやくのろのろと起き上がった。
「……レンくん」
「なに」
「お風呂つれてって」
「ガキかよ」
「ガキでいいの」
レンがため息をつきながら立ち上がる。
それを誰も特別なこととして扱わなかった。
浴室の扉が閉まる音がして、しばらくしてからシャワーの音が流れ始める。
ユウキがキッチンのシンクに缶を置いて、袋の中身を適当に出した。
カイはベッドに落ちていたピアスをひとつ拾って、ドレッサーの小皿に戻す。
「ユウキくんがMIUちゃんに強めに何かやれって言うの珍しくない?」
「いや、明日MIUの通院の日だろ」
「あ、そっか。めっちゃ飲ませちゃった」
「誰かついていくし、大丈夫だろ」
浴室の扉が開く音がした。
振り返ると、濡れた髪をタオルで包んだMIUが、すでに半分眠った顔で立っていた。
後ろからレンがついてきている。
「もう限界じゃん」
カイが言うと、MIUは何も言わず、そのままベッドへ戻っていった。
「乾かすぞ」ユウキが声をかける。
「……ん」
返事とも寝言ともつかない声だった。
カイがドライヤーを持ってきて、ユウキがコンセントを差す。
ベッドの縁に座ったMIUの後ろに、ユウキが自然に回る。
レンは台所で、袋から出した缶チューハイを手に取っていた。
温風の音だけが、しばらく部屋に満ちた。
眠たそうに前へ揺れるMIUの頭を、ユウキが片手で支える。
カイは前髪を指先でつまんで、小さく言った。
「これ切るか迷うな」
「切んな」レンが即答する。
「なんで」
「似合ってるから」
「へえ、そういうのわかるんだ」
「うるせえ」
そのやりとりに、MIUがうっすら笑った。
ドライヤーが終わる頃には、もう目もろくに開いていなかった。
ユウキがベッドに寝かせると、MIUはシーツを掴んだまま、あっという間に眠った。
タオルの端だけが、肩のところで少しずれている。
レンがベッド脇の棚に視線をやる。
水、スマホ、リップ、ティッシュ。
それを確認してから、煙草を一本くわえた。
「ベランダ」
「行く」
カイがすぐ立ち上がる。
ユウキは一度だけベッドの方を見てから、黙って灰皿を手に取った。
ベランダは、外側から二つの掃き出し窓を繋げていて横に広い。
室外機の熱がまだこもっていて、夜なのに空気がぬるい。
遠くで救急車の音がして、下の通りからは酔った笑い声が断続的に上がってくる。
細い柵の向こうに、歌舞伎町のネオンが滲んでいた。
部屋の中は、レースカーテン越しに全部見えた。
窓際のベッドも、丸テーブルも、ソファも、ネオンの壁飾りも、ベッドの真ん中で眠るMIUの輪郭も。
誰がどこにいるのか、ひと目でわかる。
ユウキが缶を開ける。
小さな炭酸の音がして、また静かになった。
最初に口を開いたのはカイだった。
「こないだ4人で撮った写真、普通に欲しいな」
「ん、送るわ」ユウキが言う。
「いや、そうじゃなくて。額とか入れて飾りたい」
「おまえそういうの好きだよな」
「好き。だってよくない? 今日のMIUめっちゃ可愛かったし。でも写真は送って」
レンが煙を吐きながら、部屋の中を一度だけ見た。
「寝てる?」ユウキが聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「寝てるよ」
「最初からそう言え」
カイが笑う。
レンは面倒くさそうな顔のまま、ベランダの柵に肘を乗せた。
しばらく、誰も喋らなかった。
下の通りを歩く人の声や、どこかの店の重低音だけが、上までうっすら届いてくる。
でも、その沈黙は別に重くなかった。
ユウキは缶を片手に壁へもたれて、カイは狭い足場に器用に体重を預けている。
レンは煙草を持ったまま、外と部屋のちょうど真ん中みたいな位置に立っていた。
なんとなく、その場所にいるのがいつもレンだった。
「明日、病院だっけ」レンが言った。
「十一時」ユウキが短く返す。
「俺、昼から店」カイが言う。「だから午前だけならいける」
「いや、明日は俺休み」ユウキが言った。「俺が行く」
「最近、閉店遅かったろ。寝てろよ」
「昼までなら平気」
「どうせおまえ、帰ってから店寄るだろ」
「まあ」
「じゃあ俺行くわ」レンが言う。
それで話は、ほとんど決まったみたいに終わった。
誰も「付き添い」とか「見てる」とか、そういう言い方はしなかった。
ただ明日の予定を確認するみたいに、当番でも決めるみたいに、誰が行けるかを埋めていくだけだった。
「最近、昼はわりと落ち着いてるし」ユウキが言う。
「今日ちょっと飲みすぎたけどね」カイが笑う。
レンはその言葉には乗らず、部屋の中をもう一度見た。
レース越しに、ベッドの上の影がわずかに動いたのが見えた。
寝返りを打っただけだろう。
でもレンは、煙草を灰皿に押しつける手を一瞬だけ止めた。
「……なに?」カイが気づいて聞く。
「別に」
短く答えて、レンは吸い殻を揉み消した。
ユウキもつられるように窓の向こうを見る。
MIUは静かだった。
「薬、飲んでた?」レンが聞く。
「飲んでた」「保険証」「そこ」「鍵」「かけた」
確認みたいな会話が、ほとんど反射で続く。
カイはそのやりとりを聞きながら、缶の口に唇をつけた。
「なんかさ」
ぽつりと、カイが言う。
「こういうの、ずっと続く気する」
誰もすぐには返さなかった。
ベランダの外を、夜風とも呼べないぬるい空気が流れていく。
下ではまだ誰かが笑っていて、遠くのビルの赤いランプが一定の間隔で瞬いていた。
ユウキが、缶の水滴を親指で拭いながら言う。
「まあ、続くだろ」
「そう?」カイが少し笑う。
「別になくなんないんじゃないか?」ユウキが言う。
その言葉に、レンだけが返事をしなかった。
代わりに、火の消えた煙草を指で弄びながら、窓の向こうのベッドを見ていた。
レース越しの光の中で、眠っているMIUの輪郭はやけに白く見えた。
それを見ていたのは、ほんの数秒だったと思う。
けれど次にレンが口を開いた時、その声はいつも通り、少しだけだるそうで、少しだけ眠そうだった。
「明日、起きなかったら置いてくぞ」
「うそつけ」ユウキが笑う。
「置いてかないくせに」カイも言う。
「うるせえよ」
その返しに、三人とも少しだけ笑った。
誰も深く考えていなかった。
考えないままでいられる夜だった。
ベランダから見えるものは少なくて、部屋の中の方がずっとよく見えた。
だから、たぶん安心していた。
誰かがちゃんと見ている限り、ここから急に何かが消えてしまうことなんて、ない気がしていた。
あの頃は、本気でそう思っていた。
誰がいつ部屋へ戻ったのか、朝になる頃にはもう曖昧だった。
ベランダの空き缶はそのままで、灰皿だけが丸テーブルの端に戻されていた。
レンはソファに横になったまま寝ていて、カイはベッドの足元のビーズクッションに寄りかかるみたいにして潰れている。
ユウキだけ起きていて、水を一本冷蔵庫から出した。
薄い朝の光が、レースカーテン越しにそのまま部屋へ差し込んでくる。
ネオンの色が消えた分だけ、部屋の中の散らかり方がやけに現実的に見えた。
丸テーブルの上の空き缶。
ベッド脇のリップとティッシュ。
カイがまとめておいたピアス。
ベッドの真ん中では、MIUがまだ眠っていた。
昨日の夜よりもさらに深く沈んだみたいに、布団に半分埋もれている。
片腕だけ外に出ていて、爪の先に残ったラメが朝の光で白っぽく光っていた。
ユウキはしばらくその寝顔を見てから、枕元にペットボトルを置いた。
「……MIU」
呼んでも起きない。
肩を軽く揺すると、布団の中で少しだけ身じろぎして、また止まる。
「起きろ」
「……むり」
顔も上げないまま返ってきた声が、すでに泣きそうなくらい眠そうで、ユウキは少しだけ笑う。
「知ってる、今日病院」
「やだ……」
「それも知ってる」
ベッドの下から、カイが小さくうめいた。
「うるさ……」
「おまえも起きろ」
「起きてる……」
起きてる人間の声じゃなかったけれど、カイはビーズクッションに背中を埋めたまま、目だけ開けてそのままベッドの方を見た。
少しぼんやりした顔のまま、MIUの寝癖を見て「終わってる」と呟く。
「顔やばい?」
布団の中から、すぐに返事がくる。
「そこだけ起きるのかよ」
ユウキが呆れると、カイはようやく起き上がり、髪をかき上げつつベッド脇にしゃがみこんだ。
「顔はまだ平気。前髪が終わってる」
「やだ」
「知ってる」
「病院やだ」
「それも知ってる」
同じようなやりとりを、今度は別の人で繰り返しているのが少し可笑しかった。
カイはシーツに埋もれているMIUの顔を覗き込んで、頬にかかった髪を払う。
「とりあえず起きよ。終わったらまた寝れるし」
「うそ」
「ほんと」
「絶対うそ」
「うそではないけど、起きるしかない」
そこで、ソファの方から低い声が飛んできた。
「病院の日に揉めんなよ」
レンだった。
片腕を額に乗せたまま、まだ身体は起こしていない。
けれどその声が混ざるだけで、部屋の空気が少しだけいつもの場所に戻る。
「起きてたのかよ」ユウキが言う。
「さっきからうるせえ」
「じゃあ手伝えよ」
「おまえら二人がかりで起きてねえのに」
そう言いながらも、レンは結局身を起こした。
ベッド脇に立つと、MIUを見下ろして、ためらいなく言った。
「起きろ」
「……やだ」
「うん」
「行きたくない」
「うん」
「……」
「でも行く」
言い方は雑なのに、その返しだけでMIUが少しだけ黙る。
レンはその隙に、枕元のペットボトルを手に取って差し出した。
「飲め」
「あとで……」
「今」
「きもちわるい」
「だから飲め」
しぶしぶ上半身を起こしたMIUの背中に、ユウキが枕を立てる。
カイは髪が顔に落ちないよう、無言で耳にかけた。
三人とも何も相談していないのに、動きだけは噛み合っている。
MIUはレンの手からペットボトルを受け取って、少しだけ口をつけた。
「えらい」ユウキが言うと、半分閉じた目のまま睨まれる。
「それ、犬に言うやつ……」
「じゃあ褒められたくない?」
「……褒めて」
「めんどくせえな」レンがぼそっと言って、カイが笑った。
支度は、いつも通りゆっくりだった。
病院の日に着る服は、なんとなく毎回似ている。
締め付けが少なくて、機嫌が悪くても着られて、待合にいても浮かないもの。
カイがワードロープの前に立って、何着か引っ張り出す。
薄手のワンピースと、くたびれたカーディガン。
それから、前に「これ病院の日っぽい」とMIUが勝手に決めた白い靴下。
「これでいい?」
「やだ」
「なんで」
「白すぎる」
「病院に白すぎるとかある?」
「ある」
「知らない世界」
そう言いながらも、カイはすぐに別のを探す。
その間にユウキは洗面所へ行って、ホットタオルを作って戻ってきた。
「顔だけ拭くぞ」
「やだ」
「知ってる」
「冷たい?」
「ちょうどいい」
タオルを受け取ったカイが、MIUの顔を丁寧に拭っていく。
目元、頬、口元。
少しだけ化粧の残りがタオルに移って、昨夜の名残が薄く消えていく。
「前髪やば」
「言わなくていい」
「でも直す」
「切らないでね」
「今日は切らないよ」
ブラシを通して、小さなクリップで前髪を留める。
それだけで、寝起きのぐしゃぐしゃした顔が少しだけ外向きになる。
ユウキは丸テーブルの上を片づけながら、必要なものを自然に端へ寄せていった。
財布。保険証。診察券。薬手帳。スマホ。
もう何も考えなくても、病院の日に何がいるかは手が覚えている。
「鞄これだろ?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
レンが横から薬手帳を抜き取って、ポーチに押し込んだ。
ついでみたいに、テーブルの端に置いてあった薬のシートにも目をやる。
昨夜の分がちゃんと減っているのを見てから、レンは何も言わずに視線を外した。
「ほんと、毎回同じだね」
カイが小さく笑う。
誰もそれに否定しなかった。
服を着替えさせて、髪を整えて、水を飲ませて。
やることは多いのに、やっていることは案外たいしたことがない。
なのに、毎回少しだけ疲れる。
でも、MIUの病院嫌いは皆わかってた。
散々嫌な思いをしてきているのも、みんな知っていたから。
「俺今日は先出るね」カイが仕事用のバッグを持ち上げながら言う。
「店で寝る、ここで寝たらもう起きれなそ」
ユウキが笑う。
カイは靴を履きながら、ふと思い出したみたいに振り返った。
「終わったらなんか食べさせてね」
「食えるかわかんねえ」レンが言う。
「ゼリーでもいいから」
「わかってる」
カイはそれで安心したみたいに頷いて、それから靴を脱いでMIUのところまで戻ってきた。
「終わったら連絡して」
「……できたら」
「できなくても、レンくんにさせるから」
「なんで俺」
「できるでしょ」
「できるけど」
カイは少しだけ笑って、MIUの頭を軽く撫でた。
「いってらっしゃい」
「いってきます……」
「えらい」
「それ、犬みたい……」
カイが先に出るはずなのに、二人は逆のことを言い合っていて、さらに同じやりとりが繰り返される様子に、三人とも小さく笑った。
カイが出ていくと、部屋は一段静かになる。
「靴下」レンが言う。
「ある……」
「ほんとか?」
「ある……たぶん」
「じゃあないな」
レンは洗濯カゴの横に丸まっていた靴下を拾い上げて、ぽんと投げた。
MIUはベッドの上でそれを抱え込むみたいに受け取って、しばらく動かなかった。
「履け」
「……」
「履け」
「わかってる……」
それでも動きが鈍いのを見て、ユウキがベッドの端に腰を下ろす。
「大丈夫?」
「……きもちわるい」
「吐きそう?」
「そこまではない」
「頭おもい?」
「ちょっと」
「水もう少し飲むか」
差し出すと、今度は素直に口をつけた。
その横で、レンは何も言わずにスマホをポケットへ入れている。
鍵を取って、財布を確認して、いつも通りの顔で立っているのに、そういう日のレンは、部屋の中を少しだけ見回す回数が多い。
玄関を開ける前に、ベッドの方を見て。
靴を履く途中で、もう一度見て。
MIUがちゃんと動けるか、忘れ物がないか、
黙って全部を先回りで確認しているみたいに、そこに立っていた。
ユウキはそれを見ながら、小さく息を吐いた。
たぶん自分が行っても、何も問題はないはずだ。
でも、こういう日はレンがついている方が、少しだけ空気が安定する。
カッコつけてはいるが、誰よりもスムーズにことを進ませるやつだった。
それを言葉にしたことはなかったし、する必要もなかった。
「じゃ、行くか」
レンが言うと、MIUはようやく立ち上がった。
まだ少しふらついて、ベッド脇の丸テーブルに手をつく。
レンは何も言わず、その手首を一瞬だけ支えてから離した。
「歩けるか?」
「……うん」
「じゃあ行くぞ」
玄関で靴を履くまでにも少し時間がかかった。
「これじゃない」
「何が」
「靴」
「昨日それで歩いてただろ」
「昨日のこれは、今日のこれじゃない」
「なぞなぞみたいだな」
レンが呆れた声を出して、ユウキが吹き出す。
「病院の日の靴、あるもんな」
「ある……」
「おまえら甘やかしすぎだろ」
「今さらだろ」
結局、玄関の奥から別のスニーカーを引っ張り出して履かせることになった。
ユウキがドアを開けると、昼前の湿った空気がそのまま流れ込んでくる。
外はもうしっかり明るいのに、部屋の中だけまだ夜の続きみたいだった。
MIUは一瞬だけ足を止めた。
けれど、横にレンが立つと、そのまま何も言わず外へ出る。
その後ろ姿を見送ってから、ユウキはドア枠に片手をついたまま、少しだけ笑った。
「……毎回、出るまで長いな」
「まあな」
レンが振り返る。
「なんかあったら連絡する」
「ん」
「食えそうなら食わせて帰る」
「ん」
最後のやりとりだけ少し軽くして、レンはそのままMIUの後を追う。
ドアが閉まると、部屋の中は急に広くなったみたいに静かになった。
ついさっきまで、起こして、髪を整えて、持ち物を探して、靴を履かせていたはずなのに。
その中心だけが抜けると、生活の形だけがやけにくっきり残る。
ベッドのしわ。
使ったままのホットタオル。
丸テーブルの上からなくなった保険証ケースの跡。
ベランダに置きっぱなしの空き缶。
ユウキはしばらくその場に立ったまま、閉まったドアを見ていた。
それから、誰に言うでもなく呟く。
「……腹減ったな」
返事はない。
当たり前なのに、その一瞬だけ、少し変な感じがした。
ユウキはそのままキッチンへ戻って、冷蔵庫を開ける。
サラダチキンと、ゼリー飲料と、ヨーグルトと、つまみ。昨日の残りの缶チューハイ。
(コンビニ行こ……)
誰かが帰ってきた時に食えそうなものを、
何も考えなくても残しておく癖が、もう身体に残っていた。
――MIUとレンが部屋に戻ってきたのは、十六時を少し過ぎた頃だった。
玄関のドアが開く音で、ソファに寝転がっていたユウキが顔を上げる。
「おかえり」
先に入ってきたのはレンで、その後ろからMIUがのろのろ靴を脱ぐ。
朝よりは少しだけマシな顔をしていたけれど、代わりに、全部終わったあとのだるさがそのまま身体に残っているみたいだった。
「ただいま」
声も小さい。
ユウキはそのままキッチンへ向かい、冷蔵庫から朝のうちに入れておいたゼリー飲料を一本取り出す。
「なんか食べた?」
「食べれなかった」
「食えそう?」
「……ちょっとだけ」
「えらい」
「だから、犬みたい……」
かすれた声でそう返しながらも、ゼリーはちゃんと受け取る。
レンは鍵をいつもの場所に置いて、財布とスマホをソファの上に放った。
そのまま一度だけベッドの方を見てから、短く言う。
「今日はそんな混んでなかった」
「よかったじゃん」
「まあ」
「薬は?」
「出た」
「変わった?」
「少しだけ」
その会話の間に、MIUはもうベッドの方へ向かっていた。
カーディガンを脱ぐのも面倒そうなまま、シーツの上に膝から乗り上げて、そのまま半分倒れ込む。
「ちゃんと着替えてから寝ろよ」
「むり……」
「化粧は?」
「してない……」
「じゃあまあいいか」
レンが言って、ベッド脇に座る。
その動きがあまりに自然で、ユウキは何も言わなかった。
カイはいない。
店に入ると連絡だけ来ていて、そのまま既読もついていない。
だから今、部屋にいるのは三人だけだった。
それでも、誰かが帰ってきて、誰かが休んで、誰かが水を取る。
そういう小さい動きだけで、部屋の中はちゃんと回っていた。
「……カイくんにLINEした?」
ベッドの方から、急にMIUが言う。
「してない」ユウキが答える。
「しといて」
「なんて?」
「病院おわったって」
「自分でしてやりな」
「むり……」
その“むり”に、ユウキは少しだけ笑う。
スマホを手に取って、カイのトーク画面を開く。
病院おわった。だるそうだけど生きてる。
そう打って送ると、既読はつかないまま画面が静かに止まった。
それを見てから、ユウキは何となくベッドの方へ目をやる。
レースカーテン越しの夕方の光の中で、MIUはもう半分眠っていて、その脇にレンが座っている。
別に、特別な絵じゃない。
何度も見てきた、ただの生活の途中の景色だった。
それなのに、妙に完成して見える瞬間がある。
四人でいる時も、三人しかいない時も、二人だけの時でさえ。
この部屋の景色は、額縁か何かで切り取られたように感じられた。
ユウキはそれを、当たり前みたいに受け入れていた。
「……俺もちょっと寝るわ」
そう言って、ソファへ戻る。
「寝ろ」レンが言う。
「夕方変な時間に寝ると死ぬほどだるいよ」
ベッドから、目も開けないままMIUが言った。
「一番弱ってる人がなんか言ってる」
その返しに、かすかに笑い声が混じる。
部屋の中は静かだった。
誰かが完全に元気なわけじゃない。
誰かが全部解決できるわけでもない。
それでも、水があって、薬があって、
横になれる場所があって、
誰かが起きていて、
誰かが帰ってくる。
その程度のことで、今日も一日はちゃんと終わっていく。
ユウキはソファに背中を沈めながら、ぼんやりとレースカーテンの向こうを見た。
夕方の歌舞伎町は、夜になる前だけ少しだけ静かだ。
その静けさの中で、
ベッドの方から聞こえる小さな寝息を、
誰も不安には思わなかった。
(5話「男3人とベランダ」おわり)
いつものように、コンビニで適当に缶とつまみを買って、部屋へ戻る。
部屋に入るなり、MIUは玄関でヒールを脱ぎ散らかして、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「風呂」
ユウキが言う。
「むり……」
シーツに顔を埋めたまま、くぐもった声が返る。
「化粧だけ落とせ」
レンが靴を蹴り寄せながら言うと、MIUは小さくうなって、片手だけ持ち上げた。
「ねえ、カイくん」
「んー?」
「まつげ取って」
カイが笑いながらベッドの脇にしゃがみ込む。
突っ伏したままのMIUの横顔を覗き込んで、器用にまつげの端を摘まんだ。
「今日のこれ、めっちゃ盛れてたのにもったいない」
「もういい……」
「せっかく可愛かったのに」
レンが冷蔵庫から水を一本出して、無言でベッド脇の棚に置く。
ユウキはその横にコンビニ袋を置いて、サラダチキンとゼリー飲料だけ取り出しておいた。
「食えそうならあとで食えよ」
「いらない……」
「明日しぬほど後悔するやつ」
「もう今日じゅうぶんしんでる……」
MIUの声に、カイが吹き出す。
ユウキも少しだけ笑って、ベッドの端に腰を下ろした。
部屋にはネオンの壁飾りと、窓の外の赤や青だけが、床やシーツにまだらに滲んでいる。
他に灯りはない。
窓にはレースのカーテンしかついていない。
遮光の厚いカーテンも一応買ったのに、結局ほとんど使われなかった。
閉め切ると中が見えなくなるから嫌だと、最初に言ったのは誰だったか、今となってはもう曖昧だった。
外からの光も、部屋の中の様子も、ベッドの位置も、ソファの向きも、ベランダの狭さも。
この部屋は、どこにいてもだいたい全部が見えた。
その方が都合がよかった。
「明日朝は絶対無理だから、風呂だけ」
ユウキがもう一度言うと、MIUはベッドの上で芋虫みたいに少しだけ身じろぎした。
「立てる?」カイが聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃわかんねえだろ」レンが言う。
その声に、MIUはしばらく黙ってから、ようやくのろのろと起き上がった。
「……レンくん」
「なに」
「お風呂つれてって」
「ガキかよ」
「ガキでいいの」
レンがため息をつきながら立ち上がる。
それを誰も特別なこととして扱わなかった。
浴室の扉が閉まる音がして、しばらくしてからシャワーの音が流れ始める。
ユウキがキッチンのシンクに缶を置いて、袋の中身を適当に出した。
カイはベッドに落ちていたピアスをひとつ拾って、ドレッサーの小皿に戻す。
「ユウキくんがMIUちゃんに強めに何かやれって言うの珍しくない?」
「いや、明日MIUの通院の日だろ」
「あ、そっか。めっちゃ飲ませちゃった」
「誰かついていくし、大丈夫だろ」
浴室の扉が開く音がした。
振り返ると、濡れた髪をタオルで包んだMIUが、すでに半分眠った顔で立っていた。
後ろからレンがついてきている。
「もう限界じゃん」
カイが言うと、MIUは何も言わず、そのままベッドへ戻っていった。
「乾かすぞ」ユウキが声をかける。
「……ん」
返事とも寝言ともつかない声だった。
カイがドライヤーを持ってきて、ユウキがコンセントを差す。
ベッドの縁に座ったMIUの後ろに、ユウキが自然に回る。
レンは台所で、袋から出した缶チューハイを手に取っていた。
温風の音だけが、しばらく部屋に満ちた。
眠たそうに前へ揺れるMIUの頭を、ユウキが片手で支える。
カイは前髪を指先でつまんで、小さく言った。
「これ切るか迷うな」
「切んな」レンが即答する。
「なんで」
「似合ってるから」
「へえ、そういうのわかるんだ」
「うるせえ」
そのやりとりに、MIUがうっすら笑った。
ドライヤーが終わる頃には、もう目もろくに開いていなかった。
ユウキがベッドに寝かせると、MIUはシーツを掴んだまま、あっという間に眠った。
タオルの端だけが、肩のところで少しずれている。
レンがベッド脇の棚に視線をやる。
水、スマホ、リップ、ティッシュ。
それを確認してから、煙草を一本くわえた。
「ベランダ」
「行く」
カイがすぐ立ち上がる。
ユウキは一度だけベッドの方を見てから、黙って灰皿を手に取った。
ベランダは、外側から二つの掃き出し窓を繋げていて横に広い。
室外機の熱がまだこもっていて、夜なのに空気がぬるい。
遠くで救急車の音がして、下の通りからは酔った笑い声が断続的に上がってくる。
細い柵の向こうに、歌舞伎町のネオンが滲んでいた。
部屋の中は、レースカーテン越しに全部見えた。
窓際のベッドも、丸テーブルも、ソファも、ネオンの壁飾りも、ベッドの真ん中で眠るMIUの輪郭も。
誰がどこにいるのか、ひと目でわかる。
ユウキが缶を開ける。
小さな炭酸の音がして、また静かになった。
最初に口を開いたのはカイだった。
「こないだ4人で撮った写真、普通に欲しいな」
「ん、送るわ」ユウキが言う。
「いや、そうじゃなくて。額とか入れて飾りたい」
「おまえそういうの好きだよな」
「好き。だってよくない? 今日のMIUめっちゃ可愛かったし。でも写真は送って」
レンが煙を吐きながら、部屋の中を一度だけ見た。
「寝てる?」ユウキが聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「寝てるよ」
「最初からそう言え」
カイが笑う。
レンは面倒くさそうな顔のまま、ベランダの柵に肘を乗せた。
しばらく、誰も喋らなかった。
下の通りを歩く人の声や、どこかの店の重低音だけが、上までうっすら届いてくる。
でも、その沈黙は別に重くなかった。
ユウキは缶を片手に壁へもたれて、カイは狭い足場に器用に体重を預けている。
レンは煙草を持ったまま、外と部屋のちょうど真ん中みたいな位置に立っていた。
なんとなく、その場所にいるのがいつもレンだった。
「明日、病院だっけ」レンが言った。
「十一時」ユウキが短く返す。
「俺、昼から店」カイが言う。「だから午前だけならいける」
「いや、明日は俺休み」ユウキが言った。「俺が行く」
「最近、閉店遅かったろ。寝てろよ」
「昼までなら平気」
「どうせおまえ、帰ってから店寄るだろ」
「まあ」
「じゃあ俺行くわ」レンが言う。
それで話は、ほとんど決まったみたいに終わった。
誰も「付き添い」とか「見てる」とか、そういう言い方はしなかった。
ただ明日の予定を確認するみたいに、当番でも決めるみたいに、誰が行けるかを埋めていくだけだった。
「最近、昼はわりと落ち着いてるし」ユウキが言う。
「今日ちょっと飲みすぎたけどね」カイが笑う。
レンはその言葉には乗らず、部屋の中をもう一度見た。
レース越しに、ベッドの上の影がわずかに動いたのが見えた。
寝返りを打っただけだろう。
でもレンは、煙草を灰皿に押しつける手を一瞬だけ止めた。
「……なに?」カイが気づいて聞く。
「別に」
短く答えて、レンは吸い殻を揉み消した。
ユウキもつられるように窓の向こうを見る。
MIUは静かだった。
「薬、飲んでた?」レンが聞く。
「飲んでた」「保険証」「そこ」「鍵」「かけた」
確認みたいな会話が、ほとんど反射で続く。
カイはそのやりとりを聞きながら、缶の口に唇をつけた。
「なんかさ」
ぽつりと、カイが言う。
「こういうの、ずっと続く気する」
誰もすぐには返さなかった。
ベランダの外を、夜風とも呼べないぬるい空気が流れていく。
下ではまだ誰かが笑っていて、遠くのビルの赤いランプが一定の間隔で瞬いていた。
ユウキが、缶の水滴を親指で拭いながら言う。
「まあ、続くだろ」
「そう?」カイが少し笑う。
「別になくなんないんじゃないか?」ユウキが言う。
その言葉に、レンだけが返事をしなかった。
代わりに、火の消えた煙草を指で弄びながら、窓の向こうのベッドを見ていた。
レース越しの光の中で、眠っているMIUの輪郭はやけに白く見えた。
それを見ていたのは、ほんの数秒だったと思う。
けれど次にレンが口を開いた時、その声はいつも通り、少しだけだるそうで、少しだけ眠そうだった。
「明日、起きなかったら置いてくぞ」
「うそつけ」ユウキが笑う。
「置いてかないくせに」カイも言う。
「うるせえよ」
その返しに、三人とも少しだけ笑った。
誰も深く考えていなかった。
考えないままでいられる夜だった。
ベランダから見えるものは少なくて、部屋の中の方がずっとよく見えた。
だから、たぶん安心していた。
誰かがちゃんと見ている限り、ここから急に何かが消えてしまうことなんて、ない気がしていた。
あの頃は、本気でそう思っていた。
誰がいつ部屋へ戻ったのか、朝になる頃にはもう曖昧だった。
ベランダの空き缶はそのままで、灰皿だけが丸テーブルの端に戻されていた。
レンはソファに横になったまま寝ていて、カイはベッドの足元のビーズクッションに寄りかかるみたいにして潰れている。
ユウキだけ起きていて、水を一本冷蔵庫から出した。
薄い朝の光が、レースカーテン越しにそのまま部屋へ差し込んでくる。
ネオンの色が消えた分だけ、部屋の中の散らかり方がやけに現実的に見えた。
丸テーブルの上の空き缶。
ベッド脇のリップとティッシュ。
カイがまとめておいたピアス。
ベッドの真ん中では、MIUがまだ眠っていた。
昨日の夜よりもさらに深く沈んだみたいに、布団に半分埋もれている。
片腕だけ外に出ていて、爪の先に残ったラメが朝の光で白っぽく光っていた。
ユウキはしばらくその寝顔を見てから、枕元にペットボトルを置いた。
「……MIU」
呼んでも起きない。
肩を軽く揺すると、布団の中で少しだけ身じろぎして、また止まる。
「起きろ」
「……むり」
顔も上げないまま返ってきた声が、すでに泣きそうなくらい眠そうで、ユウキは少しだけ笑う。
「知ってる、今日病院」
「やだ……」
「それも知ってる」
ベッドの下から、カイが小さくうめいた。
「うるさ……」
「おまえも起きろ」
「起きてる……」
起きてる人間の声じゃなかったけれど、カイはビーズクッションに背中を埋めたまま、目だけ開けてそのままベッドの方を見た。
少しぼんやりした顔のまま、MIUの寝癖を見て「終わってる」と呟く。
「顔やばい?」
布団の中から、すぐに返事がくる。
「そこだけ起きるのかよ」
ユウキが呆れると、カイはようやく起き上がり、髪をかき上げつつベッド脇にしゃがみこんだ。
「顔はまだ平気。前髪が終わってる」
「やだ」
「知ってる」
「病院やだ」
「それも知ってる」
同じようなやりとりを、今度は別の人で繰り返しているのが少し可笑しかった。
カイはシーツに埋もれているMIUの顔を覗き込んで、頬にかかった髪を払う。
「とりあえず起きよ。終わったらまた寝れるし」
「うそ」
「ほんと」
「絶対うそ」
「うそではないけど、起きるしかない」
そこで、ソファの方から低い声が飛んできた。
「病院の日に揉めんなよ」
レンだった。
片腕を額に乗せたまま、まだ身体は起こしていない。
けれどその声が混ざるだけで、部屋の空気が少しだけいつもの場所に戻る。
「起きてたのかよ」ユウキが言う。
「さっきからうるせえ」
「じゃあ手伝えよ」
「おまえら二人がかりで起きてねえのに」
そう言いながらも、レンは結局身を起こした。
ベッド脇に立つと、MIUを見下ろして、ためらいなく言った。
「起きろ」
「……やだ」
「うん」
「行きたくない」
「うん」
「……」
「でも行く」
言い方は雑なのに、その返しだけでMIUが少しだけ黙る。
レンはその隙に、枕元のペットボトルを手に取って差し出した。
「飲め」
「あとで……」
「今」
「きもちわるい」
「だから飲め」
しぶしぶ上半身を起こしたMIUの背中に、ユウキが枕を立てる。
カイは髪が顔に落ちないよう、無言で耳にかけた。
三人とも何も相談していないのに、動きだけは噛み合っている。
MIUはレンの手からペットボトルを受け取って、少しだけ口をつけた。
「えらい」ユウキが言うと、半分閉じた目のまま睨まれる。
「それ、犬に言うやつ……」
「じゃあ褒められたくない?」
「……褒めて」
「めんどくせえな」レンがぼそっと言って、カイが笑った。
支度は、いつも通りゆっくりだった。
病院の日に着る服は、なんとなく毎回似ている。
締め付けが少なくて、機嫌が悪くても着られて、待合にいても浮かないもの。
カイがワードロープの前に立って、何着か引っ張り出す。
薄手のワンピースと、くたびれたカーディガン。
それから、前に「これ病院の日っぽい」とMIUが勝手に決めた白い靴下。
「これでいい?」
「やだ」
「なんで」
「白すぎる」
「病院に白すぎるとかある?」
「ある」
「知らない世界」
そう言いながらも、カイはすぐに別のを探す。
その間にユウキは洗面所へ行って、ホットタオルを作って戻ってきた。
「顔だけ拭くぞ」
「やだ」
「知ってる」
「冷たい?」
「ちょうどいい」
タオルを受け取ったカイが、MIUの顔を丁寧に拭っていく。
目元、頬、口元。
少しだけ化粧の残りがタオルに移って、昨夜の名残が薄く消えていく。
「前髪やば」
「言わなくていい」
「でも直す」
「切らないでね」
「今日は切らないよ」
ブラシを通して、小さなクリップで前髪を留める。
それだけで、寝起きのぐしゃぐしゃした顔が少しだけ外向きになる。
ユウキは丸テーブルの上を片づけながら、必要なものを自然に端へ寄せていった。
財布。保険証。診察券。薬手帳。スマホ。
もう何も考えなくても、病院の日に何がいるかは手が覚えている。
「鞄これだろ?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
レンが横から薬手帳を抜き取って、ポーチに押し込んだ。
ついでみたいに、テーブルの端に置いてあった薬のシートにも目をやる。
昨夜の分がちゃんと減っているのを見てから、レンは何も言わずに視線を外した。
「ほんと、毎回同じだね」
カイが小さく笑う。
誰もそれに否定しなかった。
服を着替えさせて、髪を整えて、水を飲ませて。
やることは多いのに、やっていることは案外たいしたことがない。
なのに、毎回少しだけ疲れる。
でも、MIUの病院嫌いは皆わかってた。
散々嫌な思いをしてきているのも、みんな知っていたから。
「俺今日は先出るね」カイが仕事用のバッグを持ち上げながら言う。
「店で寝る、ここで寝たらもう起きれなそ」
ユウキが笑う。
カイは靴を履きながら、ふと思い出したみたいに振り返った。
「終わったらなんか食べさせてね」
「食えるかわかんねえ」レンが言う。
「ゼリーでもいいから」
「わかってる」
カイはそれで安心したみたいに頷いて、それから靴を脱いでMIUのところまで戻ってきた。
「終わったら連絡して」
「……できたら」
「できなくても、レンくんにさせるから」
「なんで俺」
「できるでしょ」
「できるけど」
カイは少しだけ笑って、MIUの頭を軽く撫でた。
「いってらっしゃい」
「いってきます……」
「えらい」
「それ、犬みたい……」
カイが先に出るはずなのに、二人は逆のことを言い合っていて、さらに同じやりとりが繰り返される様子に、三人とも小さく笑った。
カイが出ていくと、部屋は一段静かになる。
「靴下」レンが言う。
「ある……」
「ほんとか?」
「ある……たぶん」
「じゃあないな」
レンは洗濯カゴの横に丸まっていた靴下を拾い上げて、ぽんと投げた。
MIUはベッドの上でそれを抱え込むみたいに受け取って、しばらく動かなかった。
「履け」
「……」
「履け」
「わかってる……」
それでも動きが鈍いのを見て、ユウキがベッドの端に腰を下ろす。
「大丈夫?」
「……きもちわるい」
「吐きそう?」
「そこまではない」
「頭おもい?」
「ちょっと」
「水もう少し飲むか」
差し出すと、今度は素直に口をつけた。
その横で、レンは何も言わずにスマホをポケットへ入れている。
鍵を取って、財布を確認して、いつも通りの顔で立っているのに、そういう日のレンは、部屋の中を少しだけ見回す回数が多い。
玄関を開ける前に、ベッドの方を見て。
靴を履く途中で、もう一度見て。
MIUがちゃんと動けるか、忘れ物がないか、
黙って全部を先回りで確認しているみたいに、そこに立っていた。
ユウキはそれを見ながら、小さく息を吐いた。
たぶん自分が行っても、何も問題はないはずだ。
でも、こういう日はレンがついている方が、少しだけ空気が安定する。
カッコつけてはいるが、誰よりもスムーズにことを進ませるやつだった。
それを言葉にしたことはなかったし、する必要もなかった。
「じゃ、行くか」
レンが言うと、MIUはようやく立ち上がった。
まだ少しふらついて、ベッド脇の丸テーブルに手をつく。
レンは何も言わず、その手首を一瞬だけ支えてから離した。
「歩けるか?」
「……うん」
「じゃあ行くぞ」
玄関で靴を履くまでにも少し時間がかかった。
「これじゃない」
「何が」
「靴」
「昨日それで歩いてただろ」
「昨日のこれは、今日のこれじゃない」
「なぞなぞみたいだな」
レンが呆れた声を出して、ユウキが吹き出す。
「病院の日の靴、あるもんな」
「ある……」
「おまえら甘やかしすぎだろ」
「今さらだろ」
結局、玄関の奥から別のスニーカーを引っ張り出して履かせることになった。
ユウキがドアを開けると、昼前の湿った空気がそのまま流れ込んでくる。
外はもうしっかり明るいのに、部屋の中だけまだ夜の続きみたいだった。
MIUは一瞬だけ足を止めた。
けれど、横にレンが立つと、そのまま何も言わず外へ出る。
その後ろ姿を見送ってから、ユウキはドア枠に片手をついたまま、少しだけ笑った。
「……毎回、出るまで長いな」
「まあな」
レンが振り返る。
「なんかあったら連絡する」
「ん」
「食えそうなら食わせて帰る」
「ん」
最後のやりとりだけ少し軽くして、レンはそのままMIUの後を追う。
ドアが閉まると、部屋の中は急に広くなったみたいに静かになった。
ついさっきまで、起こして、髪を整えて、持ち物を探して、靴を履かせていたはずなのに。
その中心だけが抜けると、生活の形だけがやけにくっきり残る。
ベッドのしわ。
使ったままのホットタオル。
丸テーブルの上からなくなった保険証ケースの跡。
ベランダに置きっぱなしの空き缶。
ユウキはしばらくその場に立ったまま、閉まったドアを見ていた。
それから、誰に言うでもなく呟く。
「……腹減ったな」
返事はない。
当たり前なのに、その一瞬だけ、少し変な感じがした。
ユウキはそのままキッチンへ戻って、冷蔵庫を開ける。
サラダチキンと、ゼリー飲料と、ヨーグルトと、つまみ。昨日の残りの缶チューハイ。
(コンビニ行こ……)
誰かが帰ってきた時に食えそうなものを、
何も考えなくても残しておく癖が、もう身体に残っていた。
――MIUとレンが部屋に戻ってきたのは、十六時を少し過ぎた頃だった。
玄関のドアが開く音で、ソファに寝転がっていたユウキが顔を上げる。
「おかえり」
先に入ってきたのはレンで、その後ろからMIUがのろのろ靴を脱ぐ。
朝よりは少しだけマシな顔をしていたけれど、代わりに、全部終わったあとのだるさがそのまま身体に残っているみたいだった。
「ただいま」
声も小さい。
ユウキはそのままキッチンへ向かい、冷蔵庫から朝のうちに入れておいたゼリー飲料を一本取り出す。
「なんか食べた?」
「食べれなかった」
「食えそう?」
「……ちょっとだけ」
「えらい」
「だから、犬みたい……」
かすれた声でそう返しながらも、ゼリーはちゃんと受け取る。
レンは鍵をいつもの場所に置いて、財布とスマホをソファの上に放った。
そのまま一度だけベッドの方を見てから、短く言う。
「今日はそんな混んでなかった」
「よかったじゃん」
「まあ」
「薬は?」
「出た」
「変わった?」
「少しだけ」
その会話の間に、MIUはもうベッドの方へ向かっていた。
カーディガンを脱ぐのも面倒そうなまま、シーツの上に膝から乗り上げて、そのまま半分倒れ込む。
「ちゃんと着替えてから寝ろよ」
「むり……」
「化粧は?」
「してない……」
「じゃあまあいいか」
レンが言って、ベッド脇に座る。
その動きがあまりに自然で、ユウキは何も言わなかった。
カイはいない。
店に入ると連絡だけ来ていて、そのまま既読もついていない。
だから今、部屋にいるのは三人だけだった。
それでも、誰かが帰ってきて、誰かが休んで、誰かが水を取る。
そういう小さい動きだけで、部屋の中はちゃんと回っていた。
「……カイくんにLINEした?」
ベッドの方から、急にMIUが言う。
「してない」ユウキが答える。
「しといて」
「なんて?」
「病院おわったって」
「自分でしてやりな」
「むり……」
その“むり”に、ユウキは少しだけ笑う。
スマホを手に取って、カイのトーク画面を開く。
病院おわった。だるそうだけど生きてる。
そう打って送ると、既読はつかないまま画面が静かに止まった。
それを見てから、ユウキは何となくベッドの方へ目をやる。
レースカーテン越しの夕方の光の中で、MIUはもう半分眠っていて、その脇にレンが座っている。
別に、特別な絵じゃない。
何度も見てきた、ただの生活の途中の景色だった。
それなのに、妙に完成して見える瞬間がある。
四人でいる時も、三人しかいない時も、二人だけの時でさえ。
この部屋の景色は、額縁か何かで切り取られたように感じられた。
ユウキはそれを、当たり前みたいに受け入れていた。
「……俺もちょっと寝るわ」
そう言って、ソファへ戻る。
「寝ろ」レンが言う。
「夕方変な時間に寝ると死ぬほどだるいよ」
ベッドから、目も開けないままMIUが言った。
「一番弱ってる人がなんか言ってる」
その返しに、かすかに笑い声が混じる。
部屋の中は静かだった。
誰かが完全に元気なわけじゃない。
誰かが全部解決できるわけでもない。
それでも、水があって、薬があって、
横になれる場所があって、
誰かが起きていて、
誰かが帰ってくる。
その程度のことで、今日も一日はちゃんと終わっていく。
ユウキはソファに背中を沈めながら、ぼんやりとレースカーテンの向こうを見た。
夕方の歌舞伎町は、夜になる前だけ少しだけ静かだ。
その静けさの中で、
ベッドの方から聞こえる小さな寝息を、
誰も不安には思わなかった。
(5話「男3人とベランダ」おわり)
