歌舞伎町残影ポリ

 ユウキのBARは、もう閉店していた。

 表の看板は落としてある。
 シャッターを半分だけ下ろした店内に、カウンターの明かりだけが残っていた。

 それでも四人は、まだ帰る気になれなかった。

 営業中のざわつきが引いたあとの店は、妙に静かだ。
 氷の溶ける音と、グラスの底が木に触れる小さな音だけが、やけに近く聞こえる。
 カウンターにグラスが四つ並んでいる。
 それだけで、なんとなく安心する夜があった。

 MIUはスツールに座って、いつもより少しだけ背筋を伸ばしていた。
 長い黒髪が、吊り下げられたランプの光を受けて、艶っぽく揺れる。
 黒レースのミニワンピースは、店の照明だといつもより少しだけ大人びて見えた。

「似合うじゃん、その席」

 カイが隣から言う。

「何、今日」

 MIUが笑う。

「今日のMIUちゃん、なんかBARの女みたい」
「なにそれ、いつもより高く売れそうってこと?」
「そうそう」
「なんかやだぁ」

 そう言いながら、MIUは楽しそうだった。
 笑うたび、肩の細いストラップが少しだけずれる。
 カイがそれを見て、すぐに指先で直す。

「いやでも、マジで今日かわいいって。髪つやっつやだし」
「ありがと。カイが乾かしてくれたからでしょ」
「そうだけど、そう言われると照れるな」
「おまえ、すぐ照れるよな」レンが煙草を咥えたまま言う。
 そのくせ、自分はさっきからMIUの横顔ばかり見ている。

「レンくんは褒めないよね」

 MIUが口を尖らせる。

「レンくん目が褒めてる、着た瞬間ガン見してたじゃん」

  カイがすぐ横から刺す。
 レンが少しだけ眉を寄せる。

「おまえうるせえな」
「図星じゃん」
「うるせえ」

 言い返しながら、
 レンは新しいグラスをカウンターの上で滑らせるみたいにMIUの前へ寄越した。
 口は悪いのに、MIUの前の酒だけは、いつも切れない。

「ありがと」

 MIUが自然に受け取る。
 その受け取り方まで、もう何度も繰り返したものみたいだった。
 ユウキはカウンターの向こうで、黙って氷を足した。

 誰も頼んでいないのに、
 MIUのグラスの氷が減るタイミングも、
 レンの煙草の切れ目も、
 カイが次に甘い酒を飲みたがることも、
 もう身体が勝手に覚えていた。

 考えなくても、四人でいる形になる。
 それが、あまりにも自然すぎた。

 ユウキは手元のグラスを拭き上げ、視線だけをカイに向けた。

「カイ、それ三杯目だろ」
「違う、二・五」
「なんだよ二・五って」
「半分はMIUちゃんが飲んだ」
「言い訳が小学生なんだよ」

 ユウキが呆れたように鼻で笑うと、カイは救いを求めるように隣のMIUを振り返る。

「でも飲んだよね?」
「ちょっとだけ?」
「ほら」
「ほらじゃねえよ」レンが笑って、煙を細く吐く。
 その煙がランプの光に溶けて、店の空気を少しだけやわらかくした。

 店の中は静かだった。

 部屋のネオンとは違う、少しだけよそ行きの空気。
 でも四人だけになると、それもすぐ崩れる。
 ここは、部屋とも外とも違う。

 帰りたくない夜にだけ開く、
 四人の避難所みたいな場所だった。

 MIUがカウンターに頬杖をついて、
 グラスの中の氷を指でくるくる回す。

「まだ帰りたくない」

 ぽつりと落ちる。
 たぶん誰かが先に言うのを、みんな少し待っていた。
 その役を、結局いつもMIUが引き受ける。

 レンが金髪をかき上げて、鼻で笑った。

「当たり前だろ」

 少しだけ間を置いて、
 グラスを持ち上げる。

「こんな夜、終わらせられるかよ」

 誰も文句を言わなかった。
 グラスが、カチンと小さく触れ合う。

 MIUが笑うと、
 それだけで三人の視線が自然にそっちへ寄る。

 ユウキはその光景を、
 カウンター越しに見ていた。
 たぶん、ずっと見ていた。

 見慣れているはずなのに、
 その夜は妙に、全部が綺麗だった。

 笑っている顔も、
 グラスを持つ指も、
 煙草の煙も、
 カウンターに肘をつく姿勢も、
 誰かが誰かに向ける視線も。

 それぞれ勝手なのに、
 なぜか四人でいる時だけ、ひとつの形になっていた。
 完成されすぎている、と思った。

 その言葉が先に浮かんで、
 ユウキは少しだけ嫌な気持ちになった。

 完成しているものは、
 壊れる時も、たぶん綺麗に壊れる。

「てかさ」

 カイが突然、カウンターの上のコースターをくるくる回し始める。

「この四人、客観的に見たらだいぶ変だよな」
「今さら?」

 MIUが笑う。

「いや、でもさ。店の外から見たら、たぶん意味わかんないじゃん。女ひとりに男三人で、しかも全員距離感おかしいし」
「おまえが一番おかしい」レンが即答する。
「えー、俺だけ?」
「おまえだけじゃないけど、おまえはおまえで別方向に変」
「何それ」
「うるさいし」
「ひど」

 カイが不服そうに頬を膨らませる。
 その横で、MIUがくすくす笑っていた。

「でも、ちょっとわかる」

 グラスの縁を指でなぞりながら、MIUが言う。

「なんか、普通ではないよね」
「不名誉すぎる」
「でも嫌じゃない」

 その一言で、また少しだけ空気が静かになる。

 誰も、嫌じゃなかった。
 それどころか、
 たぶん全員が、この形を気に入っていた。

 好きだった、じゃなくて、
 この形でいると、少しだけ生きやすかった。

 それが四人とも同じだったから、
 たぶん、余計に離れにくかった。

 外へ出たのは、MIUが急に「ネオン浴びたい」と言い出したからだった。

「なにそれ」

 ユウキが笑いながら言う。

「わかんないけど、今日なんか浴びたい」
「光合成みたいに言うなよ」
「歌舞伎町で育つ植物なんでしょ、私」
「いや、雑草でももうちょい健康だろ」

 レンが言うと、MIUが肩を揺らして笑う。
 カイは「それはそう」と勝手に頷いていた。

 歌舞伎町の路地は、まだ熱を持っていた。
 夜中なのに明るい。
 どこを見ても、ピンクや青や紫の光がにじんでいる。

 その真ん中を、四人で歩いた。
 MIUが真ん中。
 左にカイ。
 右にレン。
 ユウキは少し後ろ。

 誰が決めたわけでもないのに、
 自然とその並びになる。

 ユウキは少し後ろから、その背中を見ていた。

 黒髪がネオンを受けて、ところどころ紫っぽく光る。
 カイの虹色は派手すぎるくらい派手で、
 レンの金髪は夜の中でも妙に目立った。

 その真ん中でMIUだけが、するりと輪郭を持っている。
 三人とも全然違うのに、
 真ん中にMIUがいるだけで、ちゃんと同じ画面に見えた。

 MIUが黒レースのミニワンピースの裾を軽く摘んで、
「これ、今日かわいくない?」と振り返る。

「かわいいかわいい」カイがすぐに食いつく。
「その丈、神。足ほっそ」
「軽いんだよなあ」レンが言いながらも、
 歩道の段差でふらついたMIUの腰を、当たり前みたいに支えた。

「危な」
「ありがと」
「その酒癖でヒール履くなよ」
「うるさい」

「しかもそれ、あと一歩でパンツ見えるだろ」
 ユウキが後ろから言うと、MIUがすぐ振り返る。

「見えないもん」
「ギリギリすぎるんだよ」
「大丈夫だって」

「その“だいじょうぶ”毎回信用ならねえんだよな」カイが笑いながら口を挟む。
「でも今日のこれはマジで当たり。俺、今日のMIUちゃんかなり好き」
「ありがと」
「顔もいいし、髪もいいし、脚もいい」
「褒めすぎ」
「事実だから仕方ない」

「キモ」レンが即座に切る。

「でもレンくんもさっきからめっちゃ見てるじゃん」
「見てねえよ」
「見てる見てる」
「おまえらうるせえ」

 MIUが笑う。

 その笑い声につられて、ユウキも少しだけ口元を緩めた。
 やり取りの全部が、もう手癖みたいだった。

 カイがはしゃいで、
 虹色の髪を揺らしながら前に出る。
「てかさ」振り返って、両手を広げる。

 「ポリアモリーって言葉、めっちゃかっこよくない?」

 レンが即座に笑う。

「また始まった」
「いや、ほんとに。なんかこう……」カイが酔った頭で一生懸命説明しようとする。
「恋愛ってもっと、チーム戦でよくね? みたいな」
「意味わかんねえ」
「いや、でもわかるかも」MIUが笑いながら口を挟む。
「なんか、私たちってさ」

 そこで少しだけ言葉を探す。
 それから、何でもないみたいに笑った。

「ちょっと変で、めっちゃ完成してるよね」

 その言い方に、
 三人とも一瞬だけ黙った。

 誰も否定しなかった。
 たぶん、全員少しだけ同じことを思っていた。

 完成していた。
 このまま、ずっと続くみたいに。

 部屋も、酒も、夜も、
 変な買い物も、喧嘩にもならない言い合いも、
 誰かが酔って、誰かが世話をして、
 気づけば朝になっているみたいな生活も。

 何も約束していないのに、
 たぶん全員、少しだけ信じていた。

 だからユウキはその時、
 理由もなく、急に残したくなった。
 この並びを。
 この光を。
 この夜を。
 なくなるかもしれない、と思ったわけじゃない。
 むしろ逆だった。
 あまりにも当たり前すぎて、
 このままだと、永遠にあるものとして雑に扱ってしまいそうで、
 それが妙にもったいない気がした。

 それに少しだけ、
 今ここで残しておかないといけない気もした。

 理由は、わからなかった。

「待って」

 声をかけると、三人が同時に振り返る。
 ユウキはスマホを取り出した。

「なに、撮るの?」

 MIUが嬉しそうに言う。

「今日のMIU、残しときたい」

 言ってから、少しだけ気まずくなった。
 カイがすぐに「うわ、言うじゃん」と笑い、
 レンが「キモ」と小さく言う。
「でもわかる」カイがすぐ続ける。「今日、なんか完璧だもん」
「なにそれ」MIUが笑う。
「いや、ほんと。今日の四人、かなりいい感じ」
「四人って言い方もキモいな」
「レンくん、それ今日ずっと照れてるだけじゃん」
「うるせえ」

 でも、誰も離れなかった。

 むしろ自然に、いつもの形へ収まっていく。

 MIUが真ん中で笑う。
 レンが肩を抱く。
 カイが腰へ腕を回す。
 ユウキの手が、後ろから黒髪に少しだけ触れる。

 ネオンの下で、四人の腕が自然に重なる。
 誰も、欠けていない。

 シャッター音が、小さく鳴った。

 画面の中の四人は、
 絡み合うみたいに寄り添っていた。

 少し酔って、少し浮かれて、
 でもその並びだけは妙に自然で、
 最初からそういう生き物みたいに見えた。

 MIUが写真を覗き込んで、
 息を弾ませるみたいに笑う。

「あたりまえに狂ってて最高〜!」

「褒めてんのかそれ」レンが笑いながら肩を抱き直す。

 カイが「最高だな」と言って、
 MIUの髪をぐしゃぐしゃに崩す。

「やだ、やめて!」
「いや、こういうのもかわいい」
「やだ~」

 笑いながら逃げようとするMIUを、
 レンが雑に引き戻す。

「危ねえから走んな」
「走ってないし」
「いや、今のはちょっと走ってた」
「ユウキくんまで言う」

 その夜は、まだ続いた。

 どこかへ寄ったかもしれないし、
 そのまま部屋へ帰ったのかもしれない。
 帰ってから、また飲み直したかもしれないし、
 ベッドの上でだらだら写真を見返して、
「これ盛れてる」「盛れてない」で揉めたかもしれない。

 でも四人とも、たぶん少しも疑っていなかった。

 また次もあると。
 また、こういう夜が来ると。
 終わるわけがないと思っていた。

──カイの寝息が、部屋に静かに響いている。

 ユウキはソファの前で、立ち止まっていた。

『I♡歌舞伎町』のネオンは消していない。
 その下の細い棚には、景品やキーホルダーが並んでいる。

 壁に貼った一枚の写真の中で、
 四人はまだ笑っていた。

 ネオンのピンクが少し色を飛ばして、
 あの夜の輪郭だけを、ぼんやり浮かび上がらせている。

 誰も、欠けていない。

 そのはずの形が、
 今は紙の中にしか残っていない。

 ユウキはしばらく動かなかった。

 写真の中の四人は、
 今にもまた同じ夜を始めそうな顔をしている。

 それが少しだけ、腹立たしかった。

 やがて、ゆっくりと息を吐く。

 丸テーブルの上の缶チューハイに手を伸ばし、
 プルタブに指をかける。

 朝の光が、レースのカーテンの向こうで、
 少しずつ白み始めていた。


(第4話「完成された夜」おわり)