歌舞伎町残影ポリ

 カイがドアを開けた瞬間、雨の匂いが部屋に滑り込んだ。
 湿った空気が、歌舞伎町の夜のぬるさごと入ってくる。
 虹色の髪が額に張りついて、黄色いジャケットの肩が重たそうに濡れていた。

 ユウキはソファで流していたYouTubeの音を小さくして、立ち上がる。

 何も考えずに棚を開けて、タオルを三枚取った。
 一枚をカイに放る。

「うわ、やさし」

 カイが笑いながら受け取る。
 そのまま頭から雑に被って、わしゃわしゃと拭き始める。

 残りの二枚を戻しかけて、ユウキの手がほんの少しだけ止まった。

 前は、二枚じゃ足りなかった。
 髪の長いやつがいて、
 風呂あがりにすぐ床を濡らすやつがいて、
 最後はだいたい、誰かの分が足りなくなった。

 その癖だけが、まだ手に残っていた。

 ユウキは何も言わずに棚を閉める。
 次に、ドライヤーを取る。

「あ……風呂入るか」

 言ってから、自分で少しだけ変な間だと思った。
 カイは気にした様子もなく、靴を脱ぎながら頷く。

「ん、入っちゃうわ。寒かった」

 濡れたスニーカーを玄関に雑に揃えて、
 ジャケットを脱ぎながらそのままユニットバスへ消えていく。
 ドアが閉まる直前、カイが振り返りもせずに言った。

「俺のドライヤー時間、予約しといて」

 ユウキが少し遅れて笑う。

「知らねえよ」

 でも、手に持ったままのドライヤーは置かなかった。
 すぐにシャワーの音が聞こえ始める。

 それを聞きながら、ユウキは一度だけ視線を落とした。

 手の中のドライヤーが、やけに馴染む。

 風呂あがりに髪を乾かすのも、
 濡れた服を脱がせるのも、
 酔って帰ってきたやつに水を飲ませるのも、
 化粧のラメがシーツにつかないうちに顔を拭かせるのも、
 前は、もっと自然だった。

 考えるより先に身体が動いていた。
 それが特別だと思ったことは、一度もなかった。

 ガチャ、とドアが開く。

 思ったより早かった。
 カイが髪をわしゃわしゃ拭きながら出てくる。
 頬が少し赤くなっていて、湯気とシャンプーの匂いをまとっていた。

「はや」
「ふつうだし」

 カイはそこで、ドライヤーを持ったままのユウキを見た。
 一拍置いて、すぐ笑う。

「え、マジで乾かしてくれんの? ラッキー」

 そのまま当然みたいな顔で床に座り込む。
 マットレスに背中が当たる、ちょうどいつもの位置だった。
 ユウキは何も言わず、マットレスの縁に腰かけた。

 ドライヤーのスイッチを入れる。

 ぶわ、とぬるい風が虹色の髪を揺らした。
 美容師の先輩に半分遊びで染められた色だと言っていたけど、濡れると余計におもちゃみたいだった。

 光の当たり方で青にも緑にも見えて、根元の黒が少しだけ伸びている。
 ユウキは髪を指で軽く持ち上げながら、根元に風を当てる。

 短い。

 それが、思ったより新鮮だった。

「え?」

 カイが振り返りかける。
 ユウキは自分が声に出していたことに気づいて、少しだけ眉を寄せた。

「……いや」

 ドライヤーを当てたまま言う。

「短いなって」
「あー」

 カイはすぐわかったみたいに笑った。

「MIUちゃんと比べて?」

 ユウキは答えない。
 でも、それで十分だった。

「いやいや、あのツヤツヤのロングヘアーがたまらないんだって」

 カイが得意げに言う。

「俺が切るようになってから、かわいさアップしたろ?」
「おまえ、姫カットにするからな」

 ユウキは鼻で笑った。

「あれは俺の趣味じゃない」
「えー、あの顔まわりのボリュームが大事なのに。小顔効果知らない?」
「知らん」
「絶対あったって。ていうかMIUちゃん、ああいう顔まわりの毛ちょっとあるだけで一気に“守りたくなる女”感出るじゃん」
「おまえ、その言い方ほんと気持ち悪い時あるな」
「褒めてんのに!?」

 カイが抗議して、少し肩をすくめる。
 ドライヤーの風で、その濡れた首筋がちらちら見えた。
 ユウキは髪をかき上げながら、後頭部に風を当てる。

「MIUに使ってたトリートメント、自分には使わないんだな」
「あれ俺が使ったら頭ツヤツヤのぼっちゃんになる」
「なるほどな」
「てかユウキくん、あれめっちゃ詰め替えさせてたじゃん。すぐなくなるからって」
「おまえら遠慮なく使うからだろ」
「レンくんとか普通に自分も使ってたしな」
「あいつ、そういうとこだけちゃっかりしてたな」
「しかも自分で買わないの腹立つよな」
「人の高いやつ使うのだけ上手かった」

 ドライヤーの音の合間に、カイが小さく笑う。

「でもレンくん、MIUちゃんのことに関してはマジで細かかったよな」
「細かいっていうか、見てたな」
「わかる」

 カイが少しだけ首を傾ける。

「そこの黒レースのミニワンピとかもさ、誰が買ってきたんだっけ」

 ユウキは少し考えて、煙草を吸いたくなる時みたいに目を細めた。

「レンじゃねえか」
「あー、やっぱそうか」
「結局あれがいちばん気に入ってたしな、MIU」
「そうそう」

 カイは笑ったまま続ける。

「レンくんさ、MIUちゃんが太ももの横触る癖あるから、この丈より長いとダメとか言い出してて、普通に怖かったもん」

 ユウキが吹き出す。

「あったな、そんなの」
「あんな雑そうな顔して、そこ見る?」
「見てたんだろ」
「見てたよなぁ」

 少しだけ、会話が静かになる。
 ドライヤーの音だけが、部屋の中を埋める。
 あの頃は、こういうどうでもいいことを、ずっと喋っていた気がする。
 誰かの服のこと、髪のこと、酒のこと、酔い方のこと。
 どれもその場ではくだらないのに、今思い出すと、生活そのものだった。

「MIUちゃんさ」

 カイが前を向いたまま、ぽつりと言う。

「髪乾かされるの、めっちゃ好きだったよな」

 ユウキの手が、ほんの少しだけ止まる。

「……ああ」
「眠そうな顔してさ。途中から、ほぼ目閉じてんの」
「最後の方、毎回ちょっと機嫌よかったな」
「わかる。で、“もうちょっと”とか言うんだよな」
「言う」

 その言い方まで思い出せるのが、
 たまに少しだけきつかった。

「甘やかされ慣れしすぎなんだって」
「おまえらが甘やかしすぎなんだろ」
「ユウキくんが一番だろ」

 即答されて、ユウキは少しだけ眉を寄せた。

「なんでだよ」
「だって水持ってくるのも早いし、服出すのも早いし、ドライヤー持って待ってんじゃん」
「待ってねえよ」
「待ってる」
「待ってない」
「いや待ってる。しかも“別に普通だけど?”みたいな顔でやるのが一番やばい」

 ユウキは何も言わなかった。
 言い返そうとしたけど、たぶん、だいたい合っていた。

「レンくんは雑そうで一番見てるし、ユウキくんは静かに全部やるし、俺はかわいくするし」
「自分で言うな」
「事実だろ」

 カイがけろっとした顔で言う。

「MIUちゃん、ほんと一人で三人使ってたよな」

 ユウキが小さく笑った。

「言い方」
「でも違わなくない?」

 違わなかった。

 風呂あがりの髪を乾かす時間も、
 酔って靴を脱がせる時間も、
 ピアスを外して、小さいケースに入れてやる時間も、
 部屋着を選んで投げる時間も。

 たぶん全部、
「世話していた」というより、ただその流れの中に自分たちがいた、という方が近かった。

 ドライヤーの風が弱まって、髪がほとんど乾いているのがわかった。
 ユウキは最後に前髪を指で整えてから、スイッチを切る。
 部屋が急に静かになる。

「はい、おわり」

 カイが振り向いて、少しだけ得意げに笑った。

「サンキュー。服も出して」
「は?」

 ユウキはドライヤーを片づけながら眉を上げる。

「男にまでやるかよ」
「ちぇー」

 カイは口を尖らせながら立ち上がって、ラックを漁る。

「ていうかさ、俺いまMIUちゃんと同じ枠で扱われてない?」
「自分で寄せにいっただろ」
「それはそう」

 カイは笑いながら、適当に引っ張り出したTシャツを頭から被る。
 でも途中で、首元に顔を出したまま止まった。

「……これ、レンくんのじゃん」
「え?」

 ユウキが振り返る。
 カイはタグを見てから、少しだけ困った顔をした。

「いや、たぶん前に借りて、そのままだったやつ」

 黒い無地のTシャツだった。
 見た目はなんでもないのに、レンの服だと言われると、急にレンのものにしか見えなくなる。
 カイは少しだけ黙ってから、結局そのまま着た。

「まあ、いいか」

 ユウキは何も言わない。
 ただ、そうだな、と思った。
 そういう“まあいいか”で、この部屋はできていた。

 その背中を見ながら、ユウキはソファへ移動した。

 煙草に火をつける。
 じわ、と先が赤くなる。

 カイは勝手に服を引っ張り出して、勝手に着替えて、
 勝手に機嫌よくしている。

 そういう夜が、前にも何度もあった気がした。

「なあ」

 Tシャツを引っ張りながら、カイが言う。

「やっぱ人って、誰かに乾かしてもらうと妙に眠くなるよな」

 ユウキは煙を吐く。

「ああ」

 短く答える。

「あと、ちょっとだけ安心する」

 その一言に、ユウキはすぐ返せなかった。
 カイはもうそれ以上なにも言わず、
 さっきまでユウキが座っていたマットレスの縁に、そのまま座り込む。

 雨の音が、まだ窓の外で続いていた。
 その夜の部屋は、ひどく狭くて、ちょうどよかった。

 ちょうどよすぎることが、
 たまに少しだけ、怖かった。


(第3話「世話」おわり)