皿が、もう入らなかった。
ユウキが洗い終わった平皿を二枚重ねたまま食器棚の前で止まり、
「……入んねえ」と低く言った。
シンクにはまだ泡の残ったグラスが二つと、
コンビニのサラダを分けた小鉢と、
カイが買ってきたよくわからない猫柄のマグカップが置きっぱなしになっている。
カイはソファの背に肘をかけたまま、スマホを見ていた顔を上げた。
「下の棚、無理?」
「鍋で埋まってる」
「あー」
それだけ言って、カイはまた視線を落とした。
でも指はスマホを触っていなかった。
ユウキは皿を持ったまま、少しだけ食器棚の中を見た。
二人分のマグ。
四人分の皿。
揃っていないグラス。
そして、右奥の一角。
そこだけ、今もぽっかり空いている。
何も置いていない。
何もないのに、そこだけ使えない。
ユウキはしばらく黙っていたが、
やがて皿を腕に抱えたまま言った。
「……ここ、使うか」
声にした瞬間、自分で少しだけ嫌になった。
言っただけで、空気が一段冷えた気がした。
カイがゆっくり顔を上げる。
「……そこ?」
「入んねえし」
「……うん」
返事はしたくせに、カイは動かなかった。
ユウキもそのまま立っていた。
皿を持った腕がだるくなってきてるのに、なぜかすぐに手が出ない。
沈黙が、妙に長かった。
窓の外では歌舞伎町のネオンがぼやけていて、換気扇の低い音と、隙間風の鳴る音だけが、冷え切ったキッチンの上を回っていた。
「……俺やる」
先に立ったのはカイだった。
ソファから立ち上がって、スリッパを引きずるみたいな足音でキッチンまで来る。
でも食器棚の前まで来たところで、ぴたりと止まった。
ユウキが抱えていた皿を、無言でシンク脇に置く。
二人並んで、開いたままの棚を見た。
右奥の一角。
白い板が見えているだけの、何もない場所。
カイが指先を伸ばして、棚の縁に触れる。
その瞬間、小さく息を呑んだのがわかった。
「……まだ無理なら、いい」
ユウキがそう言うと、カイはすぐに首を振った。
「いや……無理っていうか」
言いながら、笑おうとした口元がうまく上がらない。
「……ここだけ、ずっと時間止まってるみたいで、きもい」
その言い方があまりにもそのままで、
ユウキは少しだけ目を伏せた。
「……わかる」
カイの指が、棚の奥にゆっくり滑っていく。
掃除をしていないわけじゃないのに、奥の角だけ少しざらついて見えた。
やがて、爪先が何かに引っかかった。
カイの肩がぴくっと揺れる。
「……なんかある」
声が、少しだけ掠れていた。
「取れ」
「わかってる」
言いながらも、指先がためらっているのが見えた。
それでもカイは、棚の奥に二本指を差し込んで、
小さなものをひっかけるみたいにして引き出した。
キーホルダーにつけるチェーンだった。
ほんの小さなものだった。
カイはそれをつまんだまま、しばらく動かなかった。
「……こんだけ?」
ぽつりと落ちた声は、安堵にも、絶望にも聞こえた。
ユウキは棚の中をのぞきこんで、指で奥をなぞる。
白い板の隅に、もうほとんど消えた跡がうっすら残っている。
それだけだった。
なのに、息が詰まる。
「……何もないじゃん」
カイが笑った。
笑ったというより、口の端だけが引きつった。
「何もないのにさ」
そのまま、つまんでいたチェーンを見下ろして、
カイは急に喋るのをやめた。
指が、少し震えていた。
ユウキは棚の中に手を入れたまま、低く言う。
「俺がいる時は、MIUをここに近づけなかった」
カイは顔を上げない。
「……うん」
「絶対台所立たせなかった」
「うん」
「それで足りると思ってた」
最後の一言だけ、少し声が掠れた。
カイはそこで、やっとチェーンを握りつぶすみたいに指を閉じた。
「俺は」
一度そこで止まる。
喉が詰まったみたいに、次の言葉が出てこない。
「……見てた」
ユウキは何も言わなかった。
「見てたし、わかってたし、やめた方がいいって、ずっと思ってた」
声がどんどん小さくなる。
「でも……止めたら終わる気がして」
その言葉だけで、何のことを言っているのか、説明なんていらなかった。
四人でいる夜。
MIUが笑う時間。
レンが機嫌よくしている空気。
自分たちがまだ“いつも通り”の顔をできる時間。
全部。
カイの目から、ぽたりと一滴落ちた。
手の中の銀色のチェーンに、しずくが落ちて、少しだけ光る。
「……ごめん」
誰に向けたのかもわからない声だった。
「ほんと、最低だよね」
「そういう話じゃねえよ」
ユウキは即答したが、
その声も少しだけ固かった。
最低かどうかなんて、もうどうでもよかった。
二人とも、ちゃんと知っていた。
知っていて、それでも終わらせられなかった。
それだけのことだった。
ユウキは棚の奥から手を引き抜いて、
シンク脇に置いてあった小さな紙箱を取った。
前にスマホの充電ケーブルが入っていたやつで、今は空だった。
それをカイの前に差し出す。
「入れろ」
カイが濡れた目で箱を見る。
「……捨てる?」
ユウキは少しだけ考えて、首を振った。
「今は、まだいい」
それは優しさというより、
まだ完全には切れないだけの、情けない判断だった。
でも、今の二人にはそれが限界だった。
カイは黙って頷いて、
小さなチェーンを、そっと箱の中に落とした。
音は、ほとんどしなかった。
それから二人で棚の奥をもう一度見た。
何もない。
ほんとうに、何もない。
ただ、そこにずっと置いていたものだけが、
ようやく名前を持った気がした。
思い出、だと思っていた。
追悼、みたいなものだと。
でもたぶん、ずっと違った。
ユウキは一枚目の皿を持ち上げて、
その右奥の一角の手前に置いた。
ぴたりとはまるはずなのに、なぜか少しだけ迷って、
結局、皿は一段手前に戻した。
奥には置かなかった。
カイがその動きを見て、少しだけ息を吐く。
「……そこ、まだ空けとくんだ」
「いや」
ユウキは短く言って、棚の中のマグカップを少しずつずらした。
グラスを並べ替えて、今まで使っていた場所を少しだけ詰める。
右奥の一角には、最後まで何も置かなかった。
でも、それはもう
“レンのため”に空ける場所ではなかった。
「……ここは、使わねえ」
ユウキがそう言うと、カイが静かに頷いた。
「うん」
「空けとく必要も、たぶんねえけど」
「……うん」
「でも、ここじゃない」
その言い方に、カイはまた小さく頷いた。
二人とも、それ以上は言わなかった。
ユウキが食器棚の扉に手をかける。
一瞬だけ止まってから、そのまま静かに閉めた。
乾いた音が、夜のキッチンに小さく響く。
それはもう、誰かの場所を閉じる音じゃなかった。
(第17話「右奥の一角」おわり)
ユウキが洗い終わった平皿を二枚重ねたまま食器棚の前で止まり、
「……入んねえ」と低く言った。
シンクにはまだ泡の残ったグラスが二つと、
コンビニのサラダを分けた小鉢と、
カイが買ってきたよくわからない猫柄のマグカップが置きっぱなしになっている。
カイはソファの背に肘をかけたまま、スマホを見ていた顔を上げた。
「下の棚、無理?」
「鍋で埋まってる」
「あー」
それだけ言って、カイはまた視線を落とした。
でも指はスマホを触っていなかった。
ユウキは皿を持ったまま、少しだけ食器棚の中を見た。
二人分のマグ。
四人分の皿。
揃っていないグラス。
そして、右奥の一角。
そこだけ、今もぽっかり空いている。
何も置いていない。
何もないのに、そこだけ使えない。
ユウキはしばらく黙っていたが、
やがて皿を腕に抱えたまま言った。
「……ここ、使うか」
声にした瞬間、自分で少しだけ嫌になった。
言っただけで、空気が一段冷えた気がした。
カイがゆっくり顔を上げる。
「……そこ?」
「入んねえし」
「……うん」
返事はしたくせに、カイは動かなかった。
ユウキもそのまま立っていた。
皿を持った腕がだるくなってきてるのに、なぜかすぐに手が出ない。
沈黙が、妙に長かった。
窓の外では歌舞伎町のネオンがぼやけていて、換気扇の低い音と、隙間風の鳴る音だけが、冷え切ったキッチンの上を回っていた。
「……俺やる」
先に立ったのはカイだった。
ソファから立ち上がって、スリッパを引きずるみたいな足音でキッチンまで来る。
でも食器棚の前まで来たところで、ぴたりと止まった。
ユウキが抱えていた皿を、無言でシンク脇に置く。
二人並んで、開いたままの棚を見た。
右奥の一角。
白い板が見えているだけの、何もない場所。
カイが指先を伸ばして、棚の縁に触れる。
その瞬間、小さく息を呑んだのがわかった。
「……まだ無理なら、いい」
ユウキがそう言うと、カイはすぐに首を振った。
「いや……無理っていうか」
言いながら、笑おうとした口元がうまく上がらない。
「……ここだけ、ずっと時間止まってるみたいで、きもい」
その言い方があまりにもそのままで、
ユウキは少しだけ目を伏せた。
「……わかる」
カイの指が、棚の奥にゆっくり滑っていく。
掃除をしていないわけじゃないのに、奥の角だけ少しざらついて見えた。
やがて、爪先が何かに引っかかった。
カイの肩がぴくっと揺れる。
「……なんかある」
声が、少しだけ掠れていた。
「取れ」
「わかってる」
言いながらも、指先がためらっているのが見えた。
それでもカイは、棚の奥に二本指を差し込んで、
小さなものをひっかけるみたいにして引き出した。
キーホルダーにつけるチェーンだった。
ほんの小さなものだった。
カイはそれをつまんだまま、しばらく動かなかった。
「……こんだけ?」
ぽつりと落ちた声は、安堵にも、絶望にも聞こえた。
ユウキは棚の中をのぞきこんで、指で奥をなぞる。
白い板の隅に、もうほとんど消えた跡がうっすら残っている。
それだけだった。
なのに、息が詰まる。
「……何もないじゃん」
カイが笑った。
笑ったというより、口の端だけが引きつった。
「何もないのにさ」
そのまま、つまんでいたチェーンを見下ろして、
カイは急に喋るのをやめた。
指が、少し震えていた。
ユウキは棚の中に手を入れたまま、低く言う。
「俺がいる時は、MIUをここに近づけなかった」
カイは顔を上げない。
「……うん」
「絶対台所立たせなかった」
「うん」
「それで足りると思ってた」
最後の一言だけ、少し声が掠れた。
カイはそこで、やっとチェーンを握りつぶすみたいに指を閉じた。
「俺は」
一度そこで止まる。
喉が詰まったみたいに、次の言葉が出てこない。
「……見てた」
ユウキは何も言わなかった。
「見てたし、わかってたし、やめた方がいいって、ずっと思ってた」
声がどんどん小さくなる。
「でも……止めたら終わる気がして」
その言葉だけで、何のことを言っているのか、説明なんていらなかった。
四人でいる夜。
MIUが笑う時間。
レンが機嫌よくしている空気。
自分たちがまだ“いつも通り”の顔をできる時間。
全部。
カイの目から、ぽたりと一滴落ちた。
手の中の銀色のチェーンに、しずくが落ちて、少しだけ光る。
「……ごめん」
誰に向けたのかもわからない声だった。
「ほんと、最低だよね」
「そういう話じゃねえよ」
ユウキは即答したが、
その声も少しだけ固かった。
最低かどうかなんて、もうどうでもよかった。
二人とも、ちゃんと知っていた。
知っていて、それでも終わらせられなかった。
それだけのことだった。
ユウキは棚の奥から手を引き抜いて、
シンク脇に置いてあった小さな紙箱を取った。
前にスマホの充電ケーブルが入っていたやつで、今は空だった。
それをカイの前に差し出す。
「入れろ」
カイが濡れた目で箱を見る。
「……捨てる?」
ユウキは少しだけ考えて、首を振った。
「今は、まだいい」
それは優しさというより、
まだ完全には切れないだけの、情けない判断だった。
でも、今の二人にはそれが限界だった。
カイは黙って頷いて、
小さなチェーンを、そっと箱の中に落とした。
音は、ほとんどしなかった。
それから二人で棚の奥をもう一度見た。
何もない。
ほんとうに、何もない。
ただ、そこにずっと置いていたものだけが、
ようやく名前を持った気がした。
思い出、だと思っていた。
追悼、みたいなものだと。
でもたぶん、ずっと違った。
ユウキは一枚目の皿を持ち上げて、
その右奥の一角の手前に置いた。
ぴたりとはまるはずなのに、なぜか少しだけ迷って、
結局、皿は一段手前に戻した。
奥には置かなかった。
カイがその動きを見て、少しだけ息を吐く。
「……そこ、まだ空けとくんだ」
「いや」
ユウキは短く言って、棚の中のマグカップを少しずつずらした。
グラスを並べ替えて、今まで使っていた場所を少しだけ詰める。
右奥の一角には、最後まで何も置かなかった。
でも、それはもう
“レンのため”に空ける場所ではなかった。
「……ここは、使わねえ」
ユウキがそう言うと、カイが静かに頷いた。
「うん」
「空けとく必要も、たぶんねえけど」
「……うん」
「でも、ここじゃない」
その言い方に、カイはまた小さく頷いた。
二人とも、それ以上は言わなかった。
ユウキが食器棚の扉に手をかける。
一瞬だけ止まってから、そのまま静かに閉めた。
乾いた音が、夜のキッチンに小さく響く。
それはもう、誰かの場所を閉じる音じゃなかった。
(第17話「右奥の一角」おわり)
