歌舞伎町残影ポリ

 朝の光が、出窓のレース越しに白く滲んでいた。

 ユウキはキッチンに立っていた。
 棚からマグカップを取り出して、
 いつものみたいにカウンターへ並べる。

 一つ。
 二つ。
 三つ。

 そこで、手が止まった。

 指先が、四つ目の取っ手に触れたまま動かない。
 少ししてから、ユウキはそのカップを棚へ戻した。

「……もう、淹れなくていいか」

 声にすると、思ったより静かだった。

 マットレスの方で布団が擦れる音がした。
 カイがゆっくり起き上がる。

 目が赤い。

 寝不足の顔のまま、しばらくぼんやりユウキを見ていた。
 それから、何も言わずに立ち上がる。

 二人とも、しばらく無言だった。

 ユウキは冷蔵庫を開けて、一番上の棚に手を伸ばして、小さな仕切りケースを下ろした。
 透明な蓋の端に、油性ペンで「MIU」と書いてある。

 カイがそれを見て、少しだけ目を細める。

「……それ、」

 言いかけて、やめる。
 代わりに、ケースの蓋を指先で一度だけ押した。

「捨てなくていいよ」

 小さく言う。

「しまっとこ」

 ユウキは頷いた。

 ケースを閉じて、棚のいちばん奥へそっと押し込む。

 見えなくなってからも、指だけがしばらくそこに残った。

 冷蔵庫の向かいの壁のフックには、MIUのキーホルダーがまだ掛かったままだった。
 歌舞伎町の安っぽいお土産みたいなアクリルのやつで、
 小さなラメが朝の光を拾っている。

 カイがそれに気づいて、何も言わずに指先で揺らした。
 しゃら、と軽い音が鳴る。

 外そうとはしなかった。

 次に、食器棚の端を見る。

 そこだけ、ずっと空いていた。
 レンの場所だった。

「……ここは、まだいいか」

 カイが小さく言う。
 ユウキは少しだけ間を置いて、頷いた。

「ああ」

 二人は食器棚の扉を閉じた。

 カイはテーブルの真ん中に置かれたガラスの灰皿を持ち上げた。
 レンのだった。

 両手で持つと、思っていたより重い。
 朝も夜も、ここにあるのが当たり前になりすぎていた。
 引き出しを開ける。

 でも、そのまま少しだけ止まる。

 しまったら、もう次から、
「そこにあるから使う」ことができなくなる気がした。

 カイは一度だけ目を伏せて、それから静かに中へ入れた。

 最後に、縁を親指でひと撫でする。
 引き出しを閉める音が、やけに小さく響いた。

 ワードロープには、黒いレースのミニワンピースがまだ掛かったままだった。

 ユウキがそれを見上げると、隣に来たカイが裾をつまむ。

「……これも」
「うん」

 ユウキは少しだけ笑った。

「でも、捨てなくていい」

 カイも笑う。

「わかってる」

 二人で丁寧に畳んで、ワードロープの奥へしまう。

 ハンガーだけが残った。

 壁の写真は、そのままにした。
 四人で笑っている写真。
 ネオンの下で、少し寄りすぎなくらいくっついている写真。
 誰かが誰かを抱き上げて、事故る5秒前みたいな写真。

 それだけは、外さなかった。

 カイはソファの横に積んであったビーズクッションの、ピンクのを持ち上げてワードロープの上段に置いた。
 三つ重なっていた山が、二つになる。

 少しだけ、部屋の見通しがよくなった。

 壁際の『I♡歌舞伎町』のネオンライトは、昼間なのにぼんやり点いたままだった。

 カイが足を止める。
 ユウキもつられてそっちを見る。

 前までは、昼も夜も自然にそれを点けっぱなしにしていた。
 誰が最初に光らせたかも、もう思い出せないくらい当たり前に部屋を照らしていた。

 カイが小さく言う。

「……これ、どうする?」

 ユウキは少しだけ考えてから、壁の下にしゃがみ込んだ。
 配線をたどって、コンセントを抜く。
 ぷつ、と小さく音がして、
 ピンクの文字が静かに消えた。
 昼の光が、初めてちゃんと部屋の輪郭を見せた気がした。

 でも、壁からは外さなかった。

 カイは何も言わず、それを見ていた。

 ユウキは出窓へ行って、レースのカーテンを少しだけ引いた。
 昼の光が、前よりまっすぐ床へ落ちる。
 二人で出窓に腰を下ろした。

 そこに丸テーブルがなくても、もう不自然じゃなかった。
 コーヒーは淹れなかった。

 代わりに、水を入れたグラスを二つだけ持ってくる。
 カイがそれを見て、小さく笑った。

「寂しいな」

 ユウキも笑う。

「ああ」

 それから少し間を置いて、

「……でも、たぶんこれでいい」

 カイは返事をしなかった。

 ただ、肩を寄せる。
 触れたところが、あたたかかった。

 夜になる前に、二人はマットレスへ戻った。

 クイーンサイズのマットレスは、前より少し広く感じた。
 ユウキが横になると、カイが当たり前みたいに隣へ滑り込んでくる。

 掛け布団の中で、二人の足先が少しだけぶつかった。

 誰もいなくなっていないみたいな夜を、
 二人で長く続けすぎていた。

 カイの呼吸が、ゆっくり落ち着いていく。
 やがて、寝息になる。

 ユウキは目を閉じたまま、その音を聞いていた。

 もう、他の寝息はしない。

 でも、今夜この部屋に必要なのは、
 もうそれだけだった。

 ユウキは隣のぬくもりに背中を預けたまま、
 ゆっくり眠りに落ちていった。


(第16話「二人分」おわり)