夜の真ん中だった。
隣で、シーツが擦れる音がした。
ユウキは浅い眠りの底で一度だけ眉を寄せて、それでも目を開けなかった。
寝返りだと思った。
でも、音は止まらなかった。
荒い呼吸。
喉の奥で詰まるような、短い息。
押し殺したうめき声。
ユウキは目を開けた。
暗い部屋の中で、カイが毛布を蹴り飛ばしていた。
額に汗が浮いている。
指がシーツをぐしゃぐしゃに掴んで、肩が小刻みに震えていた。
「……カイ」
返事はない。
カイの唇が、何かを言おうとしているみたいにわずかに動く。
でも、言葉にはならない。
ユウキは上体を起こした。
ピンクのネオンがカーテンの隙間から滲んで、カイの顔だけを薄く照らしている。
苦しそうだった。
それだけで、嫌な感じがした。
「おい、カイ」
肩に手を置いた瞬間、カイの体がびくっと大きく跳ねた。
「や、……」
掠れた声が漏れる。
そのまま、カイが息を吸おうとして、吸えなかったみたいに喉を詰まらせた。
胸元を掴む。
目が開く。
焦点が合っていない。
ユウキの背中に、冷たいものが走った。
「カイ、見ろ。おい」
もう一度肩を掴む。
でもカイの視線は、ユウキを通り越してどこか別のものを見ていた。
「……待っ…て……」
カイの声が震える。
「待って……やめて……」
その声で、ユウキの指先が止まった。
見ているものが違う。
今ここじゃない場所を見ている。
ユウキの脳裏に、一瞬だけ、あの部屋のネオンがよぎった。
黒いレース。
閉めきったカーテン。
呼んでも戻らなかった背中。
嫌な記憶が、身体の方から先に立ち上がってくる。
「カイ」
カイは息をうまく吐けないまま、喉の奥をひゅっと鳴らした。
そのまま身を丸める。
両腕で自分を抱えるみたいにして、膝を引き寄せる。
「MIU……ちゃ…ん……」
ユウキは息を飲んだ。
「レンくん……なんで……」
やめろ、と思った。
そっちへ行くな、と思った。
ユウキはほとんど反射でカイの身体を引き寄せた。
逃がさないみたいに、強く。
「カイ」
暴れるように腕が動いて、肩を押し返される。
うまく抱え込めない。
細いのに、変な力が入っていた。
「カイ、おい、こっち見ろ」
声が掠れる。
手が、震えていた。
背中をさすろうとしても、どこをどう触ればいいのか、一瞬わからなくなる。
それがいちばん怖かった。
あの時も、そうだった。
抱きしめて、背中をさすって、名前を呼ぶ。
それしかできなかった。
それで、足りなかった。
「……っ」
ユウキは奥歯を噛んだ。
それでも腕に力を込めて、カイを胸元に押し込む。
「カイ。ここ」
耳元で、低く言う。
「ここにいろ」
カイの呼吸はまだ浅くて、うまく合わない。
胸の中で小さく震えている。
「俺見ろ」
もう一度言う。
自分に言い聞かせるみたいに。
「ここにいる。……俺がいる」
カイの指先は固く、なにもない空間を握りしめているようだった。
その瞬間、ユウキは本気で怖くなった。
このまま、手の中から抜けていく気がした。
ユウキは言葉が出なかった。
その時、カイの指が、ユウキのシャツをぐしゃっと掴んだ。
その指にはちゃんと力がこもっているように思えた。
ユウキもそれに応えるように背中に回した腕に力を込める。
カイの喉が何度かひゅっと鳴って、
やがて、少しずつ息の速さだけが落ちていく。
まだ浅い。
でも、さっきよりはましだった。
MIUも、レンも、こんなふうに掴めれば止まったんじゃないかと、今さらみたいに思った。
もう遅いのに。
ユウキは腕を緩められなかった。
カイの額が、鎖骨のあたりに押しつけられている。
熱い。
「……ごめ、」
カイが小さく何かを言った。
「いい」
ユウキは即座に遮った。
その声が、自分でも驚くくらい強かった。
「謝んな」
それ以上何か言われたら、たぶん駄目だった。
部屋は静かだった。
カーテンの向こうで、歌舞伎町のネオンだけが薄く滲んでいる。
ユウキは眠れないまま、明け方までカイを抱きしめていた。
明け方、起き上がったカイがコンビニに行くと言って部屋を出てから、ユウキはしばらくマットレスに座ったままだった。
別に、止めるほどのことでもない。
わかっている。
わかっているのに、妙に寝つけなかった。
ユウキは煙草とライターを持って、出窓の方へ移動した。
少しだけ窓を開けると、春先の夜気が細く入り込んでくる。
外はまだネオンが明るくて、眠る気のない街みたいな顔をしていた。
窓枠に肘をついて煙草に火をつける。
そのまま何をするでもなく、ぼんやり外を見ていた。
コンビニなんて、ほんの数分だ。
それなのに、スマホを見る。
時計を見る。
煙草の灰を落とす。
また外を見る。
落ち着かない。
ユウキは舌打ちして、キッチンへ向かった。
何か飲むつもりだったのか、自分でもよくわからないまま、マグカップを出して、インスタントコーヒーを入れて、ポットの湯を注ぐ。
湯気が立つ。
それを持ってまた出窓に戻ったけれど、結局一口も飲まなかった。
窓の外ばかり見ている。
四階のこの部屋からだと、通りの端の方まで少しだけ見える。
そこを、黒いパーカー姿の男がひとり、コンビニ袋をぶら下げて歩いてくるのが見えた。
カイだった。
その瞬間、ユウキは無意識に煙草を灰皿に押しつけていた。
まだ半分以上残っていたのに、変な勢いで火を消してしまって、先が少し潰れる。
「……何してんだ、俺」
小さく漏らした声は、開けた窓の外に逃げていった。
カイはいつもの歩幅で、何事もなかったみたいに信号を渡ってくる。
それを見て、ユウキの肩からようやく少し力が抜けた。
同時に、急に手持ち無沙汰になる。
もう外を見ている理由がなくなった。
冷めかけたコーヒーを見下ろして、それから部屋を振り返る。
マットレスに戻るのも、なんか違う。
待っていたみたいで嫌だった。
だからユウキは、飲みもしないマグカップを持ったまま、とりあえずキッチンに立った。
シンクの前に立っても、やることなんて何もない。
さっき洗い物は終わってるし、シンクも別に汚れていない。
スポンジに手を伸ばしかけて、意味がなさすぎてやめた。
玄関の鍵が回る音がした。
ユウキは反射でそっちを見て、それから何でもない顔を作って、マグカップを流しの脇に置いた。
玄関が開いて、カイがコンビニ袋を片手に入ってくる。
「ただいま」
「……おかえり」
カイは靴を脱ぎながら、少しだけ目を擦った。
泣いた後みたいに赤い目をしていた。
寝不足のせいだけじゃない顔をしている。
「起きてたの」
「別に」
ユウキはキッチンに寄りかかったまま、そっけなく言う。
カイはそれ以上は何も言わず、袋から茶色い封筒を取り出した。
「原本、日光に当てると痛むからさ」
そう言って、封筒の口を開ける。
ユウキはその中身を見て、何も言わなかった。
この前もらった写真の複製だった。
カイはそのままソファに膝をついて、壁の前にしゃがみ込む。
もともと飾ってあった一枚の周りに、何枚も何枚も、丁寧に並べていく。
MIUが笑っている写真。
レンが肩を抱いている写真。
四人でネオンを浴びている写真。
少しずつ、壁が埋まっていく。
ユウキは流しの脇に置いたままのマグカップを見た。
もう、湯気はとっくに消えている。
「飲まないの」
しゃがんだまま、カイが言う。
「冷めた」
「入れ直せば」
「おまえ飲む?」
「飲む」
そう言いながらも、カイは振り返らない。
写真の位置を一枚ずつ確かめながら、少しずつ貼っていく。
端の一枚を剥がして、ほんの少しだけずらす。
また離れて見て、今度は隣を揃える。
その手つきが、妙に丁寧だった。
大事なものを壊さないようにしてるみたいで、
逆に、ユウキはぞっとした。
「めっちゃいい」
カイが、小さく笑う。
「MIUちゃんの写真ゾーンできた」
その声が、昨夜のかすれた呼吸と同じ喉から出ていることが、ユウキには怖かった。
「増やせると思ってなかったよな」
嬉しそうに振り返るでもなく、カイはそのまま写真を見ていた。
まるで、足りなかった人数が少しだけ戻ったみたいな顔をしていた。
ユウキはマグカップから手を離した。
指先が、わずかに震える。
昨夜、腕の中で震えていた身体の感触が、まだ残っていた。
カイが最後の一枚を貼り終えて、満足したみたいに立ち上がる。
その背中に、ユウキは何も考えず手を伸ばしていた。
シャツの背中を掴んで、引き寄せるみたいに抱き締める。
カイの身体が、一瞬だけ固くなる。
「え」
小さく息を呑む音。
「……ユウキくん?」
ユウキは答えなかった。
ただ、カイの後頭部に額を押しつける。
逃がさないように、でも壊さないように、腕にだけ力を入れる。
カイはしばらく黙っていた。
やがて、抵抗をやめるみたいに、ゆっくり息を吐いた。
シャツ越しの体温が、ちゃんと生きている温度だった。
それが、ひどく怖くて、少しだけ安心した。
「……さっきみたいなの」
ユウキの声が、喉の奥で引っかかる。
「やめて」
「さっき?」
「……コンビニ」
カイが、ほんの少しだけ息を止めたのがわかった。
「え、なんで」
「なんでも」
「いや、言えよ」
ユウキは目を閉じたまま、腕の力を少しだけ強める。
「……勝手にいなくならないで」
沈黙が落ちた。
部屋の中が、妙に静かだった。
冷蔵庫の低い音と、どこか遠くのサイレンだけが、かすかに聞こえる。
「出るなら言って」
ユウキは絞り出すみたいに続ける。
「ちゃんと」
カイが、腕の中で少しだけ肩を揺らした。
「……言ったじゃん」
「そういうんじゃなくて」
「どういうの」
「……わかるだろ」
そこで一度、言葉が途切れる。
ユウキは目を閉じたまま、息を整えるみたいに、カイの肩へ額を押しつけた。
「……カイを」
声が、喉の奥で引っかかった。
「こうしたの、俺かもしれない」
カイの肩が、わずかに揺れた。
「昨日、見てて思った」
ユウキは低く言う。
「俺ら、止まってるだけじゃなかった」
一度、言葉が切れる。
「このままだと」
腕の中の体温が、シャツ越しに伝わる。
死んだ二人じゃなくて、今ここにいる一人の熱だった。
「……おまえまで、いなくなる気がした」
カイが、息を止める。
自分にまわるユウキの腕の、シャツの裾を掴む。
しばらくしてから、カイが小さく言った。
「……うん」
それだけだった。
でも、それで足りた。
ユウキは腕の力を少しだけ強めて、それからようやく息を吐いた。
壁の方を見なくてもわかった。
四人が、まだそこで笑っている。
「……俺らさ」
ユウキが低く言う。
「残してるだけのつもりだった」
言葉を選ぶみたいに、一度だけ黙る。
「でも、残してるっていうより」
カイは振り返らないまま、じっと聞いていた。
「……戻そうとしてたのかも」
その声は責めるんじゃなくて、
やっと自分にも向けて言えたみたいな声だった。
「でも」
カイの肩に、額を押しつけたまま続ける。
「このままだと、おまえまで……」
カイの指先に、少しだけ力が入る。
ユウキはそこで初めて、ちゃんと息を吸った。
「……もう、終わりにしよう」
長い沈黙のあとで、
カイが振り返らないまま、頷いた。
「……うん」
それから少しして、カイがぽつりと呟く。
「それ、ルールにする?」
「何を」
「今の」
「……何の」
「俺らの」
ユウキは、少しだけ眉を寄せた。
「ルールって」
「勝手にいなくならない、とか」
「軽く言うなよ」
「軽くしてないと無理なんだけど」
その言い方が妙に正直で、ユウキは返事に詰まった。
腕をほどく気には、まだなれない。
「……じゃあ、出る時は言え」
「うん」
「夜中でも」
「うん」
「コンビニでも」
「わかった」
カイが、小さく笑う。
「じゃあ一個目ね」
「何が」
「俺らのルール」
壁いっぱいの写真の前で、二人はしばらくそのまま立っていた。
カイの体温は、ちゃんと今のものだった。
それでも背中の向こうでは、四人がまだ笑っている。
ユウキは腕をほどかなかった。
(第15話「終わらせる」おわり)
隣で、シーツが擦れる音がした。
ユウキは浅い眠りの底で一度だけ眉を寄せて、それでも目を開けなかった。
寝返りだと思った。
でも、音は止まらなかった。
荒い呼吸。
喉の奥で詰まるような、短い息。
押し殺したうめき声。
ユウキは目を開けた。
暗い部屋の中で、カイが毛布を蹴り飛ばしていた。
額に汗が浮いている。
指がシーツをぐしゃぐしゃに掴んで、肩が小刻みに震えていた。
「……カイ」
返事はない。
カイの唇が、何かを言おうとしているみたいにわずかに動く。
でも、言葉にはならない。
ユウキは上体を起こした。
ピンクのネオンがカーテンの隙間から滲んで、カイの顔だけを薄く照らしている。
苦しそうだった。
それだけで、嫌な感じがした。
「おい、カイ」
肩に手を置いた瞬間、カイの体がびくっと大きく跳ねた。
「や、……」
掠れた声が漏れる。
そのまま、カイが息を吸おうとして、吸えなかったみたいに喉を詰まらせた。
胸元を掴む。
目が開く。
焦点が合っていない。
ユウキの背中に、冷たいものが走った。
「カイ、見ろ。おい」
もう一度肩を掴む。
でもカイの視線は、ユウキを通り越してどこか別のものを見ていた。
「……待っ…て……」
カイの声が震える。
「待って……やめて……」
その声で、ユウキの指先が止まった。
見ているものが違う。
今ここじゃない場所を見ている。
ユウキの脳裏に、一瞬だけ、あの部屋のネオンがよぎった。
黒いレース。
閉めきったカーテン。
呼んでも戻らなかった背中。
嫌な記憶が、身体の方から先に立ち上がってくる。
「カイ」
カイは息をうまく吐けないまま、喉の奥をひゅっと鳴らした。
そのまま身を丸める。
両腕で自分を抱えるみたいにして、膝を引き寄せる。
「MIU……ちゃ…ん……」
ユウキは息を飲んだ。
「レンくん……なんで……」
やめろ、と思った。
そっちへ行くな、と思った。
ユウキはほとんど反射でカイの身体を引き寄せた。
逃がさないみたいに、強く。
「カイ」
暴れるように腕が動いて、肩を押し返される。
うまく抱え込めない。
細いのに、変な力が入っていた。
「カイ、おい、こっち見ろ」
声が掠れる。
手が、震えていた。
背中をさすろうとしても、どこをどう触ればいいのか、一瞬わからなくなる。
それがいちばん怖かった。
あの時も、そうだった。
抱きしめて、背中をさすって、名前を呼ぶ。
それしかできなかった。
それで、足りなかった。
「……っ」
ユウキは奥歯を噛んだ。
それでも腕に力を込めて、カイを胸元に押し込む。
「カイ。ここ」
耳元で、低く言う。
「ここにいろ」
カイの呼吸はまだ浅くて、うまく合わない。
胸の中で小さく震えている。
「俺見ろ」
もう一度言う。
自分に言い聞かせるみたいに。
「ここにいる。……俺がいる」
カイの指先は固く、なにもない空間を握りしめているようだった。
その瞬間、ユウキは本気で怖くなった。
このまま、手の中から抜けていく気がした。
ユウキは言葉が出なかった。
その時、カイの指が、ユウキのシャツをぐしゃっと掴んだ。
その指にはちゃんと力がこもっているように思えた。
ユウキもそれに応えるように背中に回した腕に力を込める。
カイの喉が何度かひゅっと鳴って、
やがて、少しずつ息の速さだけが落ちていく。
まだ浅い。
でも、さっきよりはましだった。
MIUも、レンも、こんなふうに掴めれば止まったんじゃないかと、今さらみたいに思った。
もう遅いのに。
ユウキは腕を緩められなかった。
カイの額が、鎖骨のあたりに押しつけられている。
熱い。
「……ごめ、」
カイが小さく何かを言った。
「いい」
ユウキは即座に遮った。
その声が、自分でも驚くくらい強かった。
「謝んな」
それ以上何か言われたら、たぶん駄目だった。
部屋は静かだった。
カーテンの向こうで、歌舞伎町のネオンだけが薄く滲んでいる。
ユウキは眠れないまま、明け方までカイを抱きしめていた。
明け方、起き上がったカイがコンビニに行くと言って部屋を出てから、ユウキはしばらくマットレスに座ったままだった。
別に、止めるほどのことでもない。
わかっている。
わかっているのに、妙に寝つけなかった。
ユウキは煙草とライターを持って、出窓の方へ移動した。
少しだけ窓を開けると、春先の夜気が細く入り込んでくる。
外はまだネオンが明るくて、眠る気のない街みたいな顔をしていた。
窓枠に肘をついて煙草に火をつける。
そのまま何をするでもなく、ぼんやり外を見ていた。
コンビニなんて、ほんの数分だ。
それなのに、スマホを見る。
時計を見る。
煙草の灰を落とす。
また外を見る。
落ち着かない。
ユウキは舌打ちして、キッチンへ向かった。
何か飲むつもりだったのか、自分でもよくわからないまま、マグカップを出して、インスタントコーヒーを入れて、ポットの湯を注ぐ。
湯気が立つ。
それを持ってまた出窓に戻ったけれど、結局一口も飲まなかった。
窓の外ばかり見ている。
四階のこの部屋からだと、通りの端の方まで少しだけ見える。
そこを、黒いパーカー姿の男がひとり、コンビニ袋をぶら下げて歩いてくるのが見えた。
カイだった。
その瞬間、ユウキは無意識に煙草を灰皿に押しつけていた。
まだ半分以上残っていたのに、変な勢いで火を消してしまって、先が少し潰れる。
「……何してんだ、俺」
小さく漏らした声は、開けた窓の外に逃げていった。
カイはいつもの歩幅で、何事もなかったみたいに信号を渡ってくる。
それを見て、ユウキの肩からようやく少し力が抜けた。
同時に、急に手持ち無沙汰になる。
もう外を見ている理由がなくなった。
冷めかけたコーヒーを見下ろして、それから部屋を振り返る。
マットレスに戻るのも、なんか違う。
待っていたみたいで嫌だった。
だからユウキは、飲みもしないマグカップを持ったまま、とりあえずキッチンに立った。
シンクの前に立っても、やることなんて何もない。
さっき洗い物は終わってるし、シンクも別に汚れていない。
スポンジに手を伸ばしかけて、意味がなさすぎてやめた。
玄関の鍵が回る音がした。
ユウキは反射でそっちを見て、それから何でもない顔を作って、マグカップを流しの脇に置いた。
玄関が開いて、カイがコンビニ袋を片手に入ってくる。
「ただいま」
「……おかえり」
カイは靴を脱ぎながら、少しだけ目を擦った。
泣いた後みたいに赤い目をしていた。
寝不足のせいだけじゃない顔をしている。
「起きてたの」
「別に」
ユウキはキッチンに寄りかかったまま、そっけなく言う。
カイはそれ以上は何も言わず、袋から茶色い封筒を取り出した。
「原本、日光に当てると痛むからさ」
そう言って、封筒の口を開ける。
ユウキはその中身を見て、何も言わなかった。
この前もらった写真の複製だった。
カイはそのままソファに膝をついて、壁の前にしゃがみ込む。
もともと飾ってあった一枚の周りに、何枚も何枚も、丁寧に並べていく。
MIUが笑っている写真。
レンが肩を抱いている写真。
四人でネオンを浴びている写真。
少しずつ、壁が埋まっていく。
ユウキは流しの脇に置いたままのマグカップを見た。
もう、湯気はとっくに消えている。
「飲まないの」
しゃがんだまま、カイが言う。
「冷めた」
「入れ直せば」
「おまえ飲む?」
「飲む」
そう言いながらも、カイは振り返らない。
写真の位置を一枚ずつ確かめながら、少しずつ貼っていく。
端の一枚を剥がして、ほんの少しだけずらす。
また離れて見て、今度は隣を揃える。
その手つきが、妙に丁寧だった。
大事なものを壊さないようにしてるみたいで、
逆に、ユウキはぞっとした。
「めっちゃいい」
カイが、小さく笑う。
「MIUちゃんの写真ゾーンできた」
その声が、昨夜のかすれた呼吸と同じ喉から出ていることが、ユウキには怖かった。
「増やせると思ってなかったよな」
嬉しそうに振り返るでもなく、カイはそのまま写真を見ていた。
まるで、足りなかった人数が少しだけ戻ったみたいな顔をしていた。
ユウキはマグカップから手を離した。
指先が、わずかに震える。
昨夜、腕の中で震えていた身体の感触が、まだ残っていた。
カイが最後の一枚を貼り終えて、満足したみたいに立ち上がる。
その背中に、ユウキは何も考えず手を伸ばしていた。
シャツの背中を掴んで、引き寄せるみたいに抱き締める。
カイの身体が、一瞬だけ固くなる。
「え」
小さく息を呑む音。
「……ユウキくん?」
ユウキは答えなかった。
ただ、カイの後頭部に額を押しつける。
逃がさないように、でも壊さないように、腕にだけ力を入れる。
カイはしばらく黙っていた。
やがて、抵抗をやめるみたいに、ゆっくり息を吐いた。
シャツ越しの体温が、ちゃんと生きている温度だった。
それが、ひどく怖くて、少しだけ安心した。
「……さっきみたいなの」
ユウキの声が、喉の奥で引っかかる。
「やめて」
「さっき?」
「……コンビニ」
カイが、ほんの少しだけ息を止めたのがわかった。
「え、なんで」
「なんでも」
「いや、言えよ」
ユウキは目を閉じたまま、腕の力を少しだけ強める。
「……勝手にいなくならないで」
沈黙が落ちた。
部屋の中が、妙に静かだった。
冷蔵庫の低い音と、どこか遠くのサイレンだけが、かすかに聞こえる。
「出るなら言って」
ユウキは絞り出すみたいに続ける。
「ちゃんと」
カイが、腕の中で少しだけ肩を揺らした。
「……言ったじゃん」
「そういうんじゃなくて」
「どういうの」
「……わかるだろ」
そこで一度、言葉が途切れる。
ユウキは目を閉じたまま、息を整えるみたいに、カイの肩へ額を押しつけた。
「……カイを」
声が、喉の奥で引っかかった。
「こうしたの、俺かもしれない」
カイの肩が、わずかに揺れた。
「昨日、見てて思った」
ユウキは低く言う。
「俺ら、止まってるだけじゃなかった」
一度、言葉が切れる。
「このままだと」
腕の中の体温が、シャツ越しに伝わる。
死んだ二人じゃなくて、今ここにいる一人の熱だった。
「……おまえまで、いなくなる気がした」
カイが、息を止める。
自分にまわるユウキの腕の、シャツの裾を掴む。
しばらくしてから、カイが小さく言った。
「……うん」
それだけだった。
でも、それで足りた。
ユウキは腕の力を少しだけ強めて、それからようやく息を吐いた。
壁の方を見なくてもわかった。
四人が、まだそこで笑っている。
「……俺らさ」
ユウキが低く言う。
「残してるだけのつもりだった」
言葉を選ぶみたいに、一度だけ黙る。
「でも、残してるっていうより」
カイは振り返らないまま、じっと聞いていた。
「……戻そうとしてたのかも」
その声は責めるんじゃなくて、
やっと自分にも向けて言えたみたいな声だった。
「でも」
カイの肩に、額を押しつけたまま続ける。
「このままだと、おまえまで……」
カイの指先に、少しだけ力が入る。
ユウキはそこで初めて、ちゃんと息を吸った。
「……もう、終わりにしよう」
長い沈黙のあとで、
カイが振り返らないまま、頷いた。
「……うん」
それから少しして、カイがぽつりと呟く。
「それ、ルールにする?」
「何を」
「今の」
「……何の」
「俺らの」
ユウキは、少しだけ眉を寄せた。
「ルールって」
「勝手にいなくならない、とか」
「軽く言うなよ」
「軽くしてないと無理なんだけど」
その言い方が妙に正直で、ユウキは返事に詰まった。
腕をほどく気には、まだなれない。
「……じゃあ、出る時は言え」
「うん」
「夜中でも」
「うん」
「コンビニでも」
「わかった」
カイが、小さく笑う。
「じゃあ一個目ね」
「何が」
「俺らのルール」
壁いっぱいの写真の前で、二人はしばらくそのまま立っていた。
カイの体温は、ちゃんと今のものだった。
それでも背中の向こうでは、四人がまだ笑っている。
ユウキは腕をほどかなかった。
(第15話「終わらせる」おわり)
