歌舞伎町残影ポリ

 夜の真ん中だった。

 隣で、シーツが擦れる音がした。
 ユウキは浅い眠りの底で一度だけ眉を寄せて、それでも目を開けなかった。

 寝返りだと思った。

 でも、音は止まらなかった。
 荒い呼吸。
 喉の奥で詰まるような、短い息。
 押し殺したうめき声。

 ユウキは目を開けた。

 暗い部屋の中で、カイが毛布を蹴り飛ばしていた。
 額に汗が浮いている。
 指がシーツをぐしゃぐしゃに掴んで、肩が小刻みに震えていた。

「……カイ」

 返事はない。
 カイの唇が、何かを言おうとしているみたいにわずかに動く。
 でも、言葉にはならない。

 ユウキは上体を起こした。

 ピンクのネオンがカーテンの隙間から滲んで、カイの顔だけを薄く照らしている。
 苦しそうだった。
 それだけで、嫌な感じがした。

「おい、カイ」

 肩に手を置いた瞬間、カイの体がびくっと大きく跳ねた。

「や、……」

 掠れた声が漏れる。
 そのまま、カイが息を吸おうとして、吸えなかったみたいに喉を詰まらせた。
 胸元を掴む。
 目が開く。
 焦点が合っていない。

 ユウキの背中に、冷たいものが走った。

「カイ、見ろ。おい」

 もう一度肩を掴む。
 でもカイの視線は、ユウキを通り越してどこか別のものを見ていた。

「……待っ…て……」

 カイの声が震える。

「待って……やめて……」

 その声で、ユウキの指先が止まった。
 見ているものが違う。
 今ここじゃない場所を見ている。

 ユウキの脳裏に、一瞬だけ、あの部屋のネオンがよぎった。

 黒いレース。
 閉めきったカーテン。
 呼んでも戻らなかった背中。

 嫌な記憶が、身体の方から先に立ち上がってくる。

「カイ」

 カイは息をうまく吐けないまま、喉の奥をひゅっと鳴らした。
 そのまま身を丸める。
 両腕で自分を抱えるみたいにして、膝を引き寄せる。

「MIU……ちゃ…ん……」

 ユウキは息を飲んだ。

「レンくん……なんで……」

 やめろ、と思った。
 そっちへ行くな、と思った。
 ユウキはほとんど反射でカイの身体を引き寄せた。
 逃がさないみたいに、強く。

「カイ」

 暴れるように腕が動いて、肩を押し返される。
 うまく抱え込めない。
 細いのに、変な力が入っていた。

「カイ、おい、こっち見ろ」

 声が掠れる。
 手が、震えていた。
 背中をさすろうとしても、どこをどう触ればいいのか、一瞬わからなくなる。
 それがいちばん怖かった。

 あの時も、そうだった。

 抱きしめて、背中をさすって、名前を呼ぶ。
 それしかできなかった。
 それで、足りなかった。

「……っ」

 ユウキは奥歯を噛んだ。
 それでも腕に力を込めて、カイを胸元に押し込む。

「カイ。ここ」

 耳元で、低く言う。

「ここにいろ」

 カイの呼吸はまだ浅くて、うまく合わない。
 胸の中で小さく震えている。

「俺見ろ」

 もう一度言う。
 自分に言い聞かせるみたいに。

「ここにいる。……俺がいる」

 カイの指先は固く、なにもない空間を握りしめているようだった。
 その瞬間、ユウキは本気で怖くなった。
 このまま、手の中から抜けていく気がした。

 ユウキは言葉が出なかった。

 その時、カイの指が、ユウキのシャツをぐしゃっと掴んだ。
 その指にはちゃんと力がこもっているように思えた。
 ユウキもそれに応えるように背中に回した腕に力を込める。
 
 カイの喉が何度かひゅっと鳴って、
 やがて、少しずつ息の速さだけが落ちていく。

 まだ浅い。
 でも、さっきよりはましだった。

 MIUも、レンも、こんなふうに掴めれば止まったんじゃないかと、今さらみたいに思った。
 もう遅いのに。

 ユウキは腕を緩められなかった。
 カイの額が、鎖骨のあたりに押しつけられている。
 熱い。

「……ごめ、」

 カイが小さく何かを言った。

「いい」

 ユウキは即座に遮った。
 その声が、自分でも驚くくらい強かった。

「謝んな」

 それ以上何か言われたら、たぶん駄目だった。

 部屋は静かだった。
 カーテンの向こうで、歌舞伎町のネオンだけが薄く滲んでいる。

 ユウキは眠れないまま、明け方までカイを抱きしめていた。

 明け方、起き上がったカイがコンビニに行くと言って部屋を出てから、ユウキはしばらくマットレスに座ったままだった。

 別に、止めるほどのことでもない。
 わかっている。
 わかっているのに、妙に寝つけなかった。

 ユウキは煙草とライターを持って、出窓の方へ移動した。
 少しだけ窓を開けると、春先の夜気が細く入り込んでくる。
 外はまだネオンが明るくて、眠る気のない街みたいな顔をしていた。

 窓枠に肘をついて煙草に火をつける。
 そのまま何をするでもなく、ぼんやり外を見ていた。

 コンビニなんて、ほんの数分だ。
 それなのに、スマホを見る。
 時計を見る。
 煙草の灰を落とす。
 また外を見る。
 落ち着かない。

 ユウキは舌打ちして、キッチンへ向かった。
 何か飲むつもりだったのか、自分でもよくわからないまま、マグカップを出して、インスタントコーヒーを入れて、ポットの湯を注ぐ。

 湯気が立つ。

 それを持ってまた出窓に戻ったけれど、結局一口も飲まなかった。
 窓の外ばかり見ている。
 四階のこの部屋からだと、通りの端の方まで少しだけ見える。
 そこを、黒いパーカー姿の男がひとり、コンビニ袋をぶら下げて歩いてくるのが見えた。
 カイだった。

 その瞬間、ユウキは無意識に煙草を灰皿に押しつけていた。
 まだ半分以上残っていたのに、変な勢いで火を消してしまって、先が少し潰れる。

「……何してんだ、俺」

 小さく漏らした声は、開けた窓の外に逃げていった。
 カイはいつもの歩幅で、何事もなかったみたいに信号を渡ってくる。
 それを見て、ユウキの肩からようやく少し力が抜けた。

 同時に、急に手持ち無沙汰になる。
 もう外を見ている理由がなくなった。
 冷めかけたコーヒーを見下ろして、それから部屋を振り返る。

 マットレスに戻るのも、なんか違う。
 待っていたみたいで嫌だった。

 だからユウキは、飲みもしないマグカップを持ったまま、とりあえずキッチンに立った。
 シンクの前に立っても、やることなんて何もない。
 さっき洗い物は終わってるし、シンクも別に汚れていない。
 スポンジに手を伸ばしかけて、意味がなさすぎてやめた。

 玄関の鍵が回る音がした。

 ユウキは反射でそっちを見て、それから何でもない顔を作って、マグカップを流しの脇に置いた。

 玄関が開いて、カイがコンビニ袋を片手に入ってくる。

「ただいま」
「……おかえり」

 カイは靴を脱ぎながら、少しだけ目を擦った。
 泣いた後みたいに赤い目をしていた。
 寝不足のせいだけじゃない顔をしている。

「起きてたの」
「別に」

 ユウキはキッチンに寄りかかったまま、そっけなく言う。
 カイはそれ以上は何も言わず、袋から茶色い封筒を取り出した。

「原本、日光に当てると痛むからさ」

 そう言って、封筒の口を開ける。
 ユウキはその中身を見て、何も言わなかった。
 この前もらった写真の複製だった。

 カイはそのままソファに膝をついて、壁の前にしゃがみ込む。
 もともと飾ってあった一枚の周りに、何枚も何枚も、丁寧に並べていく。

 MIUが笑っている写真。
 レンが肩を抱いている写真。
 四人でネオンを浴びている写真。
 少しずつ、壁が埋まっていく。

 ユウキは流しの脇に置いたままのマグカップを見た。
 もう、湯気はとっくに消えている。

「飲まないの」

 しゃがんだまま、カイが言う。

「冷めた」
「入れ直せば」
「おまえ飲む?」
「飲む」

 そう言いながらも、カイは振り返らない。
 写真の位置を一枚ずつ確かめながら、少しずつ貼っていく。
 端の一枚を剥がして、ほんの少しだけずらす。
 また離れて見て、今度は隣を揃える。

 その手つきが、妙に丁寧だった。

 大事なものを壊さないようにしてるみたいで、
 逆に、ユウキはぞっとした。

「めっちゃいい」

 カイが、小さく笑う。

「MIUちゃんの写真ゾーンできた」

 その声が、昨夜のかすれた呼吸と同じ喉から出ていることが、ユウキには怖かった。

「増やせると思ってなかったよな」

 嬉しそうに振り返るでもなく、カイはそのまま写真を見ていた。
 まるで、足りなかった人数が少しだけ戻ったみたいな顔をしていた。

 ユウキはマグカップから手を離した。
 指先が、わずかに震える。

 昨夜、腕の中で震えていた身体の感触が、まだ残っていた。

 カイが最後の一枚を貼り終えて、満足したみたいに立ち上がる。

 その背中に、ユウキは何も考えず手を伸ばしていた。
 シャツの背中を掴んで、引き寄せるみたいに抱き締める。
 カイの身体が、一瞬だけ固くなる。

「え」

 小さく息を呑む音。

「……ユウキくん?」

 ユウキは答えなかった。
 ただ、カイの後頭部に額を押しつける。
 逃がさないように、でも壊さないように、腕にだけ力を入れる。

 カイはしばらく黙っていた。

 やがて、抵抗をやめるみたいに、ゆっくり息を吐いた。
 シャツ越しの体温が、ちゃんと生きている温度だった。
 それが、ひどく怖くて、少しだけ安心した。

「……さっきみたいなの」

 ユウキの声が、喉の奥で引っかかる。

「やめて」
「さっき?」
「……コンビニ」

 カイが、ほんの少しだけ息を止めたのがわかった。

「え、なんで」
「なんでも」
「いや、言えよ」

 ユウキは目を閉じたまま、腕の力を少しだけ強める。

「……勝手にいなくならないで」

 沈黙が落ちた。
 部屋の中が、妙に静かだった。
 冷蔵庫の低い音と、どこか遠くのサイレンだけが、かすかに聞こえる。

「出るなら言って」

 ユウキは絞り出すみたいに続ける。

「ちゃんと」

 カイが、腕の中で少しだけ肩を揺らした。

「……言ったじゃん」
「そういうんじゃなくて」
「どういうの」
「……わかるだろ」

 そこで一度、言葉が途切れる。

 ユウキは目を閉じたまま、息を整えるみたいに、カイの肩へ額を押しつけた。

「……カイを」

 声が、喉の奥で引っかかった。

「こうしたの、俺かもしれない」

 カイの肩が、わずかに揺れた。

「昨日、見てて思った」

 ユウキは低く言う。

「俺ら、止まってるだけじゃなかった」

 一度、言葉が切れる。

「このままだと」

 腕の中の体温が、シャツ越しに伝わる。
 死んだ二人じゃなくて、今ここにいる一人の熱だった。

「……おまえまで、いなくなる気がした」

 カイが、息を止める。
 自分にまわるユウキの腕の、シャツの裾を掴む。

 しばらくしてから、カイが小さく言った。

「……うん」

 それだけだった。
 でも、それで足りた。

 ユウキは腕の力を少しだけ強めて、それからようやく息を吐いた。

 壁の方を見なくてもわかった。
 四人が、まだそこで笑っている。

「……俺らさ」

 ユウキが低く言う。

「残してるだけのつもりだった」

 言葉を選ぶみたいに、一度だけ黙る。

「でも、残してるっていうより」

 カイは振り返らないまま、じっと聞いていた。

「……戻そうとしてたのかも」

 その声は責めるんじゃなくて、
 やっと自分にも向けて言えたみたいな声だった。

「でも」

 カイの肩に、額を押しつけたまま続ける。

「このままだと、おまえまで……」

 カイの指先に、少しだけ力が入る。
 ユウキはそこで初めて、ちゃんと息を吸った。

「……もう、終わりにしよう」

 長い沈黙のあとで、
 カイが振り返らないまま、頷いた。

「……うん」

 それから少しして、カイがぽつりと呟く。

「それ、ルールにする?」
「何を」
「今の」
「……何の」
「俺らの」

 ユウキは、少しだけ眉を寄せた。

「ルールって」
「勝手にいなくならない、とか」
「軽く言うなよ」
「軽くしてないと無理なんだけど」

 その言い方が妙に正直で、ユウキは返事に詰まった。
 腕をほどく気には、まだなれない。

「……じゃあ、出る時は言え」
「うん」
「夜中でも」
「うん」
「コンビニでも」
「わかった」

 カイが、小さく笑う。

「じゃあ一個目ね」
「何が」
「俺らのルール」

 壁いっぱいの写真の前で、二人はしばらくそのまま立っていた。
 カイの体温は、ちゃんと今のものだった。

 それでも背中の向こうでは、四人がまだ笑っている。

 ユウキは腕をほどかなかった。


(第15話「終わらせる」おわり)