歌舞伎町残影ポリ

 朝の光が、出窓のレースのカーテンを淡く透かしていた。
 ユウキは吐き出す息が白く見えるほど冷えたキッチンに立っていた。

 眠気の残るまま、コーヒーフィルターをセットして、棚からカップを取る。

 一つ、二つ、三つ。

 そこでもう十分なはずだった。
 それでも手は、いつもの棚の位置にそのまま伸びた。
 取っ手に指をかけて、カウンターへ置いてから、
 ユウキはようやく一度だけ瞬きをした。

 少しだけ手を止める。

 何も言わないまま、そのまま湯を注いだ。
 湯気が立ち上る。

 砂糖をひとつ落とし、もうひとつ手に取ってから、ほんの少しだけ間が空く。
 それもそのまま、カップに入れた。
 ミルクも二つ出して、片方だけ開ける。
 もう片方に指がかかったところで、ようやく止まる。

 背後で、マットレスが軋む音がした。

 カイがまだ眠そうな顔で起き上がり、前髪をかきあげながら出窓の方を見る。

「……何時」
「八時半」
「うわ、ギリギリじゃん」

 そう言いながらも、
 カイはすぐには立ち上がらない。

 クイーンサイズのマットレスの端に座ったまま、毛布にくるまってぼんやりと部屋を見渡している。
 その視線が、ソファ、丸テーブル、ビーズクッション、出窓、ワードロープの黒いワンピースを順番にかすめていく。
 まるで、朝起きた時に“誰がどこにいるか”を一度確認する癖でも残っているみたいだった。

 ユウキはカップを持って、丸テーブルまで運んだ。

 一つ、二つ、三つ。

 ふいに、カイがビーズクッションの方へ視線を向ける。誰もいないはずのクッションが、衣擦れの音を立てた気がした。

「……あ」

 何もない空間を見つめたまま、カイの瞳の焦点が数秒だけ合わなくなる。

 ユウキが四つ目のカップを置く音で、ようやく現実の光を捉え直して、我に返ったようにソファの横に積んであったビーズクッションを、ひとつ足で引き寄せる。

 もうひとつ。
 そのまま無意識みたいに、テーブルの近くへ寄せていく。

「……おまえ、それ邪魔だろ」

 ユウキが言うと、
 カイは「あ」と小さく笑った。

「ほんとだ」

 でも、戻さない。
 ピンクのやつが、ちょうどソファの前に来て止まる。
 一番よく沈む、柔らかいやつだった。
 カイはそれを見下ろして、少しだけ目を細める。

「これ、まだへこんでんな」
「何が」
「真ん中。ずっと同じとこ座ってたからかな」

 ユウキは答えない。
 言わなくても、誰のことかはわかった。

 テーブルの真ん中には、レンのガラスの灰皿が置かれたまま。
 カイは自分のカップを持ちながら、その灰皿を少しだけ横へずらした。
 自分の缶灰皿を置くための、いつもの場所を空けるみたいに。
 そこまでやってから、ようやく手が止まる。

 二人とも何も言わない。ユウキは立ったまま、コーヒーを一口飲んだ。
 少し甘い。
 その味で、また一瞬だけ動きが鈍る。

「……甘」

 カイが言う。
 ユウキが目だけ向ける。

「ん?」
「今日ちょっと甘くね?」

 ユウキは自分のカップを見た。
 それから、テーブルの上の四つを順番に見る。
 入れ慣れたはずのコーヒーを入れ間違えたのか。
 それすら意識していなかったのか。

「……そうかも」

 それだけ言って、それ以上は触れない。
 カイがビーズクッションに腰を落としながら、眠たそうに呟いた。

「晴れてるな」
「ああ」
「……こういう朝、好きだったよな」

 ユウキは返事をしない。
 でも、聞こえなかったわけではなかった。

 ワードロープにかかった黒レースのミニワンピースが、視界の端で揺れている。
 エアコンの温風か、それともさっきカイが起き上がった拍子か。
 ユウキはそっちを見て、無意識に近づいた。

 裾の折れを指で伸ばす。
 肩紐のねじれを直す。
 そこで一度、手が止まる。
 それでも、もう一度だけ布を撫でてから離した。

 カイはその様子を、コーヒーを飲みながらぼんやり見ていた。
 笑いもしないし、止めもしない。ただ、あまりにも見慣れた動作だった。

「それさ」

 カイがぽつりと言う。
 ユウキが振り返る。

「ん?」
「たまにまだ、今日それ着せるみたいな扱い方するよな」

 ユウキは何も言わなかった。
 否定もしない。
 その沈黙が、ほとんど答えみたいだった。

 食器棚を開ける。

 ユウキは洗っておいたグラスを戻そうとして、ほんの少しだけ位置を直す。
 手前、奥、右、左。
 一つだけ、触れない場所がある。
 棚の端の、ぽっかり空いた一角。

 そこだけ、まだ誰のものにもなっていない。

 ユウキは何も考えないふりをしたまま、自分のカップを少し手前にずらして置いた。
 埋めるでもなく、空けておくでもなく。中途半端なまま。
 カイが煙草を咥えて、ポケットを探る。

「あれ、ライター」
「テーブル」

 言われて見れば、そこにあった。
 レンの灰皿のすぐ横。
 カイは火を点けて、一口吸ってから、煙を吐いた。
 その仕草まで、妙に部屋に馴染んでいた。

「おまえも慣れたよな」

 ユウキが何気なく言う。

「何が」
「煙草」

 カイは少しだけ笑う。

「そりゃ、あんだけ隣で吸われてたらな」

 そう言ってから、自分でも何を言ったか気づいたみたいに少し黙る。
 “隣”が、誰の隣だったのか。それを言わなくても、部屋の方が先に知っていた。

 ソファの上の壁には、小さな『I♡歌舞伎町』のネオンライト。
 夜の名残みたいに、まだぼんやり光っている。

 その近くの小さな棚には、UFOキャッチャーで取った景品や、安っぽいキーホルダーや、誰の趣味とも言い切れない小物が並んでいた。
 棚の端には、アクリルのキーホルダーがいくつかぶら下がっている。
 そのうちのひとつが、朝の光を受けて小さく揺れた。
 MIUの名前が入っている。
 ずっとそこにあるだけなのに、二人とももう、それを見ても立ち止まらなくなっていた。

 それを残している感じより、
 最初からそこにあったみたいになっている方が、少しだけ怖かった。

 カイが煙を吐きながら、ぽつりと言う。

「……この部屋さ」

 ユウキが振り向く。

「ん?」
「二人だと、たまに広いな」

 その言い方は、寂しいとも違って、
 怖いとも違って、ただ事実を言っただけみたいだった。
 ユウキはしばらく何も言わず、それから低く返す。

「……そうだな」

 四つ並んだカップの湯気が、ゆっくりと薄くなっていく。
 誰も座っていない場所の前でも、まだ湯気だけが立っていた。

 ユウキはそれを見たまま、何も言わなかった。
 カイも、ビーズクッションを戻さない。

 朝になるたび、
 この部屋は、何度でも同じ形に戻ってしまう。

 それをやっているのが部屋なのか、自分たちなのか、
 もう二人にも、よくわからなかった。


(第14話「4人の部屋」おわり)