歌舞伎町残影ポリ

 歌舞伎町のネオンは、帰ってきてもまだ窓の向こうで息をしていた。

 部屋に入った瞬間、カイが先に靴を脱ぎ散らかして、そのままビーズクッションに沈んだ。
 力が抜けたみたいに、ぐにゃりと身体が沈んでいく。
 ユウキは黙ってエアコンをつけ、鍵を閉めて、コンビニの袋を丸テーブルの上に置いた。

 ビニールが擦れる乾いた音だけが、妙に部屋の静けさを目立たせる。

 さっきまで写真を見ていたせいか、
 部屋の中のあちこちが、いつもより少しだけうるさく感じた。

 寝床の位置も、ソファの向きも、壁のネオンも、
 全部そのままなのに、どこかずれて見える。

 カイはビーズクッションに顔を半分埋めたまま、小さく言った。

「……腹減った」

 ユウキは、冷蔵庫を開けかけた手を止めて、少しだけ笑う。

「おまえ……そこはブレねえのな」
「だって腹減るもんは減るじゃん……」
「まあ、そうだけど」

 カイは顔を上げずに、ぐずった声のまま続けた。

「なんか、しょっぱいの食いたい」
「おまえいつもしょっぱいのだろ」
「今日は特別しょっぱいの」


 ユウキはかじかんだ指先でコンビニ袋をがさがさと漁って、中身を一つずつテーブルに出していく。
 カップ麺、カップ焼きそば、おにぎり、サラダチキン、ペットボトルの水、プリンが一つ。
 完全に、何も作る気のない夜のラインナップだった。

「カイ、どれ」
「やきそば」
「はいはい」

 カイはようやくビーズクッションから顔を上げて、テーブルの上を見た。

「ユウキくん、また変なの買ってる」
「変なのって言うな。名店監修」
「それ、毎回だいたい期待外れじゃん」
「たまに当たりあるだろ」
「三回に一回」
「打率高い方だろ」
「いや低いよ」

 カイがくすっと笑って、少しだけ空気がゆるんだ。

 ユウキはメガネを指で押し上げながら、自分のカップ麺を持って立ち上がる。蓋の写真だけはうまそうな、背脂だの濃厚だの書かれた、やたら気合いの入ったやつだった。

「絶対味濃いじゃん、それ」
「夜食なんて濃くていいんだよ」
「そういうので胃やられるんだって」
「おまえにだけは言われたくない」

 カイが鼻で笑って、やっと身体を起こす。
 袋の中を覗き込んで、ペットボトルを取り出した。

「お湯、俺やる」
「珍しいな」
「今日は優しいので」

 キッチンに立つカイの背中を、ユウキは少しだけ見ていた。

 BARを出てからは、なんとなく二人とも会話の端で同じものを避けているのがわかっていた。死んだ、という言葉も。あの日、という言い方も。レンの名前も、MIUの名前も。
 
 さっきまであんなに話していたくせに、
 部屋へ戻ってくると、さらに全部言いづらくなる。

 電気ケトルの湯が沸く音と、冷え切った部屋に濃く立ち上る白い湯気が、二人の視界を遮るように広がる。

 カイがカップ焼きそばの蓋を半分剥がして、ソースを上に乗せたまま振り返る。

「ねえ、ユウキくん」
「ん」
「こういうのってさ」

 カイはそこで一度、言葉を探すみたいに黙った。

「……何が?」
「いや、なんでもない」

 そう言って、また視線を落とす。ユウキはそれ以上聞かなかった。
 聞いたところで、たぶん同じところをぐるぐるするだけだとわかっていた。
 カップ麺に湯を注いで、二人でぼんやり待つ数分がやけに長い。
 カイはスマホをいじるでもなく、蓋を押さえたままキッチンの端に寄りかかっている。

 ユウキは丸テーブルの上に割り箸を二膳置く。
 無意識に、ユウキの手がもう一膳、割り箸を取り出した。
 カサ、と軽い音がしてから、自分で気づく。
 一瞬だけ、その手が止まった。

 カイもそれを見ていたらしく、何も言わないまま目だけを向けてくる。

 ユウキは無言で袋の中に戻した。

「……」
「……」

 何でもない顔をしたかったのに、変に静かになってしまった。
 カイがわざとらしく鼻をすすってから、少しだけ明るい声を出す。

「ユウキくんさ」
「何」
「もうボケ始まってんじゃん」
「うるせえ」
「まだ三十前でそれはだいぶやばいって」
「おまえ殴るぞ」

 そのやり取りに救われるみたいに、二人とも少しだけ笑った。
 でも、笑い終わったあとに残る静けさは、さっきより少しだけ重かった。

 カップ麺の蓋を開ける。濃い湯気と、人工的なくらい強い匂いがふわっと立ちのぼる。

「うわ、濃」
「だろ」
「絶対夜中に食う味じゃない」
「夜中に食うからうまいんだろ」
「こちらのほうが品があるので」
「カップ焼きそばに品求めるなよ」

 二人でソファとビーズクッションに分かれて座って、適当に食べ始める。
 すすった音。割り箸が容器に当たる音。窓の外の、遠くの車の音。
 そういう細かい生活音だけが、部屋をいつもの夜に戻そうとしていた。
 けれど、どこまで食べても、完全には戻らなかった。

 カイが一口食べたあと、焼きそばの蓋を裏返しながらぼそっと言う。

「……あのさ」
「ん」
「普通に帰ってきたんだよね」

 ユウキは手を止めずに、少しだけ目を上げた。

「何が」
「いや……写真の中のあの日」

 カイの声は、思ったより軽かった。
 だから余計に、耳に残る。

「なんかさ。ああいう日も、こんな感じで部屋帰ってきて、
 たぶんこういうの食ってたのかなって思って」

 ユウキは、少しだけ視線を落とした。

「……食ってたかもな」
「だよね」

 カイはそこで、それ以上は言わなかった。
 言ったら、また戻れなくなるとわかっているみたいに。

 しばらくして、カイの方が先に食べ終わった。
 空になった容器をテーブルに置いて、ビーズクッションにまた沈み込む。

「風呂、先はいっていい?」
「どうぞ」
「ユウキくん、変なラーメン残さないでよ」
「残さねえよ」
「スープまで飲んで、はじめて完食です」
「うるせえ」

 カイが立ち上がって、適当に服を脱ぎながら洗面所の方へ消えていく。
 しばらくして、シャワーの音が遠くで鳴り始めた。

 部屋にひとり分の気配だけが残る。

 ユウキは最後の麺をすすって、食べ終わった容器を見下ろした。
 期待していたほどではなかった。でも、まずくもなかった。
 そういうところまで、なんだか今夜っぽい気がした。
 容器とペットボトルをまとめて立ち上がる。

 丸テーブルの上には、まだカイが雑に置いた割り箸の袋と、ソースの空袋が残っていた。
 いつも通りの手付きで、それをまとめる。
 シンクにカップの中に残ったスープを流して、ごみ袋にいれて、手を洗って、濡れた指先をタオルで拭く。

 そのまま、なんとなくシンクの横に置いてあったグラスを戻そうとして、食器棚に手を伸ばした。

 開けかけた戸の向こうに、その一角が見えた。
 何も置いていない。ずっと空いたままの、小さな四角。
 なのにそこだけ、妙に奥行きがあるように見えた。

 ユウキの指先が、ぴたりと止まる。

 シャワーの音が、遠くで続いている。
 部屋の中には、自分ひとりの呼吸だけが残っていた。

 その一角を見た瞬間、思い出したくもないのに、思い出してしまう夜があった。

 食器棚の扉は半分開いたままで、棚の中には二人分のマグと、四人分の皿と、形の揃っていないグラスが詰め込まれている。

 何も置かれていないのに、ずっと誰のものか決まっているみたいに、そこだけ使えなかった。

 レンの場所だった。

 そう思った瞬間、喉の奥が少しだけ詰まる。
 たいしたことじゃないみたいに息を吸おうとして、うまく入ってこなかった。

 知らないふりをしていても、あの一角に何が隠されていたのかくらいは、最初からわかっていた。

 わかっていたくせに、ユウキは一度もそこを荒らさなかった。
 勝手に開けて、勝手に捨てて、全部終わらせることだって、できなくはなかったはずなのに。
 あの頃の自分は、たぶん本気でそうしようとは思っていなかった。

 最初に気づいたのは、もっと前だった。

 レンが台所に立つ時間が、妙に長い夜が増えたころ。
 MIUが機嫌よく笑っている日ほど、そのあと急に落ちることがあると気づいたころ。
 ODだって増えていたし、眠れないと言いながら昼まで起きてこない日もあった。

 ひとつひとつは、歌舞伎町ならいくらでも見かけるような、雑な破綻の気配だった。

 でも、同じ部屋で暮らしていれば、嫌でもわかる。
 これはただの夜遊びじゃない。
 ただの酔い方じゃない。
 体調が悪いだけでも、気分の波だけでもない。

 もっと、生活の芯のところに、変な火がついている。
 それくらいは、ユウキにもわかっていた。
 わかっていて、レンに任せた。
 あいつが一番近くで見ているから。
 あいつが一番MIUのことをわかっているから。
 あいつが自分より、もっと深いところまで踏み込めるから。

 そうやって、ずっと都合のいい理屈を並べていた。

 ある夜、ユウキはひとりで帰ってきた。
 レンとMIUはまだ外で、カイは風呂に入っていた。
 エアコンの効きが悪い、じっとりした夜だった。

 冷蔵庫の水を取ろうとして、何気なくキッチンに立ったとき、
 食器棚の扉が少しだけ開いていた。

 たぶん、レンが閉め忘れたんだろうと思った。
 それだけのことのはずだった。

 でも、そのわずかな隙間から見えた、透明なきらめきに目が止まった。

 細い、ガラスの管だった。
 その横に転がっているライターと、小さな、中身の透けたジップ袋。
 ユウキは、少しだけ黙って、それを見ていた。

 開ければ、もっとはっきり見えただろう。
 何があるか、どのくらいあるか、今どこまで進んでいるのか、全部。

 けれど、手を伸ばしたところで、そこで止まった。

 風呂場の方から、カイの鼻歌が聞こえていた。
 窓の外では、救急車の音が遠くで鳴っていた。
 歌舞伎町の夜なんて、そういう音でできている。

 ユウキは、そのまま扉を閉めた。
 ぱたん、と軽い音がした。

 その一回で、見なかったことにできると思ったわけじゃない。
 ただ、その場で確定させるのが嫌だった。
 もし見てしまったら、ちゃんと止めなきゃいけなくなる。
 問い詰めなきゃいけなくなる。

 この生活のどこかを壊さなきゃいけなくなる。

 そういうのが、嫌だった。
 今なら、その時点で十分終わってる。
 そう言えるのに。

 あの頃はまだ、壊れていない部分だけを見ていられた。
 それから、ユウキは自分なりのやり方で、ずるく立ち回るようになった。
 MIUがふらついている日は、なるべく台所に近づかせなかった。

「座ってろ」
「危ないからいい」
「俺がやるから」

 そんなふうに、世話を焼く顔で、さりげなく動線を切った。

 グラスを取るのも。
 氷を取りに行くのも。
 コンビニ袋を漁るのも。

 レンがキッチンに立っているときは、なるべくMIUをソファかベッドの方へ引っ張った。
 自分では、守っているつもりだった。
 少なくとも、これ以上深くは近づけないようにしているつもりだった。

 でも、本当にやるべきだったのは、そんなことじゃない。

 たぶん、あの棚を開けることだった。
 ちゃんと見て、ちゃんと嫌な顔をして、
「何してんだ」って言うことだった。

 なのにやっていたのは、
 バレないように導線を整えることだった。

 それは守ることなんかじゃなくて、
 生活を壊さないための、小賢しい延命だった。

 その夜も、MIUはいつもより静かだった。

 ソファに座って、膝を抱えて、テレビもろくに見ていなかった。
 ネオンの色だけが、白い足に薄く流れている。

「MIU、なんか食べる?」

 そう聞いたら、少しだけ笑って、
「んー……いらない」
 とだけ言った。

 その笑い方が、妙に軽かった。
 軽すぎて、逆に嫌だった。

 ユウキは冷蔵庫の前に立ったまま、少しだけ振り返る。

 レンは台所にいない。
 でも、さっきまでここにいた気配だけが残っている。
 カウンターの上に、まだ触ったばかりみたいなライター。
 灰皿の端に、妙に短く消された吸い殻。
 水滴のついたグラス。

 MIUはベッドの縁に座り直して、ぼんやりと窓の方を見ていた。

 ユウキはその姿を見ながら、どうしても言えなかった。

 やめろ、とも。
 大丈夫か、とも。
 レンに何された、とも。
 聞けば、何かが始まってしまう気がした。

 それを始める勇気が、自分にはなかった。

 あとから帰ってきたカイが、いつも通り明るい声で何かを話していた。
 レンも、何もなかったみたいに笑っていた。

 その夜も、四人で同じ部屋にいた。

 コンビニのつまみをつついて、酒を飲んで、
 くだらない動画で笑って、
 誰かが風呂に入り、誰かが髪を乾かして、
 眠くなったやつからベッドへ転がっていく。

 どこから見ても、いつもの夜だった。

 だから余計に、ユウキはそのままにしてしまった。

 大丈夫じゃないものを、
 大丈夫な顔のまま、部屋に住まわせた。
 自分が見て見ぬふりをしたせいで、
 この部屋は少しずつ、変なものを飼い慣らしていった。

 レンに直接言ったことも、一度だけある。

 酔いが引いた朝方、カイもMIUもまだ寝ている時間だった。
 ベランダで煙草を吸いながら、ユウキはなるべく軽い声で言った。

「……あんま無茶させんなよ」

 レンは一瞬だけ黙って、それから笑った。

「誰に?」
「とぼけんなよ」

 ユウキが睨むと、レンは煙を吐きながら、少しだけ肩をすくめる。

「わかってるよ」
「わかってる顔じゃねえだろ」
「ユウキ、俺のこと信用してない?」
「してるから言ってんだろ」

 その返事に、レンは少しだけ目を細めた。

 朝焼けにもならない薄い空の下で、
 あいつの横顔だけが、やけに静かに見えた。

「……大丈夫だよ」

 レンは、ほんとうに何でもないことみたいにそう言った。

「俺が一番、MIUのこと見てるから」

 その一言で、ユウキはそれ以上言えなくなった。
 ずるいと思った。
 でも同時に、その言葉に逃げた。

 あいつがそう言うなら、もう一段階踏み込まなくていい。
 今すぐ壊さなくていい。
 そうやって、また自分を安全圏に置いた。
 安全圏なんて、最初からなかったのに。
 誰も外側になんていなかった。
 あの部屋にいた時点で、全員、もう同じ場所に立っていた。

 見てたくせに。

 知ってたくせに。

 気づいてたくせに。

 自分だけが、ずっと「自分はまだ引き返せる側だ」みたいな顔をしていた。
 それが、一番卑怯だったのかもしれない。

 シャワーの音が、ふっと現実に戻す。
 ユウキは、半分開いたままの食器棚を見つめていた。
 手の中のグラスは、いつのまにかぬるくなっている。

 棚の中には、今はもう何もない。
 とっくに空っぽだ。

 なのに、あの一角だけは、
 今でも何かを隠している顔をしている。

 薬そのものじゃなくても。
 ガラスの管や袋じゃなくても。

 もっと手前の、あの時閉めた扉の音とか、
 見なかったことにした一秒とか、
 そういうものが、まだそこに残っている気がした。

 ユウキは、ゆっくりとグラスを戻す。

 二人分のマグカップの隣。
 四人分の皿の下。

 その一角だけには、やっぱり何も置けなかった。

 扉を閉める。
 ぱたん、と軽い音がした。

 あの夜と同じ音だった。

 ユウキはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。

 風呂場の方から、カイが何かを落としたらしい音がして、
 少し遅れて「あっ、最悪」と小さく聞こえてくる。

 それだけで、息が少しだけ戻る。
 ユウキは目を伏せて、短く息を吐いた。

「……ばか」

 誰に向けたのか、自分でもわからないまま、
 そう小さく呟いて、シンクの方へ向き直った。

 ちょうど風呂場の扉が開く音がした。

 湯気を連れて、カイがのそのそ出てくる。
 髪は半乾きで、肩にタオルを引っかけたまま、Tシャツだけ適当に着ている。
 足元は裸足で、床にぺたぺたと水気の残る音を立てながら、まっすぐリビングへ戻ってきた。

「……部屋寒っ」

 気の抜けた声でそう言って、ビーズクッションに倒れ込む。
 ユウキは食器を流し終えながら、振り返らずに言った。

「ちゃんと拭けよ。床びしゃびしゃ」
「あとで拭く」
「おまえの“あとで”はやんねえやつだろ」
「今日はやるって」

 そう言いながら、カイはシンクの方を見ると、ユウキの食べ終わったカップ麺の容器がすでにゴミ袋にまとめられてるのを見つけた。

「それ、どうだったの」
「んー……まあまあ」
「また微妙なやつじゃん」
「期待値が高すぎた」
「名店監修ってだいたいそう」
「言うな」

 ビニール袋越しに、容器に印刷された店長であろう人物の写真がこっちを笑顔で見ているようで、カイは少しだけ顔をしかめた。

「絶対しょっぱい」
「しょっぱかった」
「ほら」
「でもギリうまい」
「いちばん信用できない感想」

 ユウキはシンクに流したスープの残骸を軽く片付けて振り返ると、カイはまだこちらを見ていた。

「……なに」
「一口くらい残しといてよ」
「もうねえよ」
「えー」
「おまえさっきやきそば食っただろ」
「でも気になるじゃん」

 カイはそう言って、少しだけ口を尖らせる。
 その顔が、あまりにもいつも通りで、ユウキは一瞬だけ言葉を失った。
 ついさっきまで、自分一人であの記憶の底に沈んでいたのが嘘のようだった。
 そのすぐ横で、こいつは湯気を纏ったような無防備な顔をして、どうでもいいカップ麺の味に一喜一憂している。
 けれど、どうでもいい不満を並べるカイの瞳が、この部屋の静寂を恐れるように泳いでいるのが見えた。

 掘り返していないふりをしているのは、カイも同じだ。

 ユウキは小さく息を吐いて、振り返らず、顎で少しだけ背後のテーブルを促した。

「まだプリンあるぞ」
「え、ほんと?」
「さっきおまえが甘いのいらないって言ったやつ」
「今はいる」
「都合いいな」
「風呂上がりだから」

 カイが急に少しだけ元気になって、コンビニ袋を漁り始める。
 ビニールの擦れる音が、部屋の中にやけに生活っぽく響いた。

「あ、スプーン入ってない」
「嘘つけ、そこ見ろ」
「ほんとだ」
「雑すぎ」
「ユウキくんが気づく前提で生きてるから」
「やめろ、その信頼の置き方」

 カイがプリンの蓋をぺりっと剥がして、ひとくち食べる。

「……うま」
「よかったな」
「風呂上がりプリン、正義」
「安い正義だな」
「こういうのでいいんだよ」

 その言い方が、妙にまっすぐで、ユウキは少しだけ目を伏せた。

 こういうのでいい。

 ほんとうは、ずっとそれでよかったはずだった。
 もっとちゃんと、ただ飯を食って、風呂に入って、夜更かしして、
 そういうので終われる毎日があったはずなのに。

 それを、誰も守れなかった。

「ユウキくんも食べる?」
「いらね」
「一口だけ」
「いらねえって」
「はい」

 カイが勝手にスプーンを差し出してくる。
 断るのも面倒で、ユウキは少しだけ身を屈めて、それを口に入れた。

「……甘」
「でしょ」
「歯溶ける」
「そこまでじゃない」

 カイがけらけら笑う。
 その笑い声を聞きながら、ユウキはやっと少しだけ肩の力を抜いた。

 完全に戻ったわけじゃない。
 何も解決していない。
 この部屋の奥には、まだ触れないものがいくらでも残っている。

 それでも今は、
 風呂上がりの湿った空気と、安いプリンの甘さと、
 どうでもいい会話だけで、少しだけ息ができた。

 カイがスプーンをくわえたまま、眠そうに目を細める。

「……ねむ」
「寝ろよ」
「ドライヤーして」
「自分でやれ」
「今日だけ」
「毎回それ言うな」

 カイの濡れた髪先から、まだぽたぽたと雫が落ちていた。

 その音が、なぜか少しだけ安心する。
 面倒で、手がかかって、ちゃんと生きている音だった。


(第13話「夜食」おわり)